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雪・月・華 28


運命を恨んだことはなかった。
少なくとも、今までは。
流されるように生きてきた。それが普通だと思ったからだ。
だが、その結果が今の事態を引き起こしたというのなら自分は…。

起きてしまった事態の責任だけは取らなければいけない。





重い瞼を押し上げてみれば、視界に広がるのは見たことのない室内だった。
武家の屋敷はほとんどが同じ造りとは言え、やはりそこには個性が出る。
光秀が住む屋敷は非常に殺風景だったし、信長の屋敷は派手ではないが品の良い調度品が所々に置かれていて華やかな雰囲気を醸し出していた。
そして、この室内は一見簡素に見えながらもどことなく温かさを感じる配色で、こちらもまた家主の趣味の高さをうかがわせている。
鉛のように重い身体を起こしてみれば、額から僅かに濡れた布がすべり落ちた。
どうやら熱を出していたらしいと思ったのは、枕元に置かれた薬や水などの看病の形跡からだ。
生憎光秀はその一切を覚えていない。
だが、体調を崩しても仕方ないと思うだけの体験をした自覚はある。

(信長様…蘭丸…)

主君と同僚の戦死。
しかもその1人が己が唯一と定めた主君であり情人であり、またもう1人は弟とも思って親しくしていた人物なのだ。
光秀にとって失うことすら考えたことのなかった大切な人を失った悲しみはやはり大きい。
何よりも彼らの後を追うことすらできない自分が情けない。
光秀は己の腹に手を当てる。
変わらぬふくらみに安心する。
信長が守れと命じた命。
そして、自分にとって唯一の子。
正直流れても仕方ないほどの強行軍だったから、無事だったことは嬉しい。
信長が誕生を待ち望んでいてくれた子供。
この子を無事に産むことが彼の望みなのだから、何としても叶えなくていけない。

「どうか、この子と私をお守り下さい――」

目を閉じればすぐに思い浮かぶ彼の人の面影に、光秀はそう願った。







   ◇◆◇   ◇◆◇







「目が覚めたか」

眠っているとばかり思った人物が既に着替えを済ませて居住まいを正している姿を見て、元親も若干驚いたようだった。
何しろ昨日まで熱が高く意識すら混濁している状態だったのだ。
このまま熱が続けば腹の子すら危険だと言われたほどの高熱。
彼女の容態が仮病でなかったことは、夜半過ぎまで看病していた元親が良く知っている。
光秀につけておいた忍びから目が覚めたとの連絡をもらったのはつい先ほど。
体力が回復するにはあと数日かかると思っていたものだから、平素の光秀と何ら変わらない様子に驚くなという方が無理だ。

「起きても平気なのか」
「えぇ。もう大丈夫です」

女性ではあるが、それまで武将として戦に出陣していたのだ。
体力は普通の女性よりも遥かにある。
そして光秀の精神は歴戦の武将だ。
いつまでも悲しみに暮れるほど女々しくないということか。
元親は目の前に座る光秀をそう判断した。
その瞳の奥にある悲壮感には気づかないまま。

「今の状況を教えてください」
「あまり良くない状況だ。柴田勝家が丹波亀山城を占拠。猿が天王山目指して進軍中。織田の武将はほぼ敵に回ったと見ていい」
「…やはり私が謀叛人だと」
「正直、半信半疑な連中がほとんどだ。柴田は城を占拠したが危害は加えていない。お前と話がしたいと、戦はそれからだという伝令が先日届いた。猿に関しては伝令もなければ一切の情報がないため何とも言えないが、相当の兵を集めているということだ」

秀吉は子飼いの武将共々光秀とは懇意にしていたが、だからといって主君を討ったとされる光秀を信じるかと言われれば微妙だ。
光秀と親しくしていれば謀叛などありえないと思うものだが、秀吉は野心がある。
真実はともかくとしてこれを機に光秀を討てば天下が目の前に転がってくる好機を逃すだろうかというのが元親の危惧しているところだ。
何度か伝令を飛ばした。
秀吉に接触して事情を説明するようにと。
だが、その伝令は悉く討ち取られているらしく秀吉の進軍は一向に緩まない。
そんな秀吉に呼応するように織田家の将が彼の軍に吸収されて兵はどんどん増えていく。
今のままでは戦は避けられないだろう。

「柴田を味方につけた方がいい」

信長の側近であり冷静な判断力を持つ柴田を味方につければ、おそらく互角な戦に持ち込めるだろう。
元親の進言に、だが光秀はゆっくりと首を振る。

「柴田殿を巻き込むわけにはいきません」

白い肌はどこか病的なものを感じたけれど、浮かべる表情は以前と同じ――否、以前よりも研ぎ澄まされた刃のようだ。
光秀と言えば触れたら崩れてしまいそうなほど危うい印象ばかり抱いていたが、戦を前にした時の光秀は普段とはまるで別人のようになる。
大抵の武将は戦を前にすれば気分が高揚して逆に饒舌になったり残虐性が現れたりとするのだが、光秀はかえって感情を押し殺したような能面になる。
そのため人形のように見えることも多かったのだが、それでも今ほど無機質ではなかった。

「…お前、死を覚悟しているな」
「まさか。ただ、覚悟を決めただけです」
「覚悟、とは」
「それは勿論」

光秀は薄く笑う。
ぞくりとする色香を放つ笑顔は初めて見るもの。
不覚にもその笑顔に気圧された元親に、光秀は気づかぬまま言葉を紡ぐ。

「私は己の使命を全うするだけです」


  • 11.12.06