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雪・月・華 27


迅速に、だが密やかに。
急ぐのは毛利との和睦交渉と撤退の準備。
本能寺で信長が討ち取られたという情報はあまりにも急な展開で、敵対しているとはいえ中国の毛利や九州の島津などはまだ動かないだろう。
だが尾張周辺の武将は違う。
特に信長恩顧の武将達は忠誠心篤く、謀叛によって信長が討ち取られたという事実を考えても事は一刻を争う事態にあるに違いない。
この一局に乗り遅れてしまえば今までの地位全てを失う恐れがあるのだから秀吉の危惧は至極当然だ。
命じられるままに帰国の準備を整える三成だが、今回の事件はいくつか腑に落ちない点がある。

まず1つ目は謀叛の犯人が光秀だということ。
彼は信長に忠誠を誓っていた。
確かにここ最近は表舞台から姿を消していてその理由が信長の勘気を蒙ったと噂されている。
だがそれが単なる噂で真相は体調が悪くても無理をして出仕する光秀を療養させるための措置だということは織田家中ではあまりにも有名で、だからこそ2人が対立していたという推測は当てはまらない。

そして2つ目。
何故、その情報を伝令よりも早くあの女が手に入れていたかということ。
かぐやは只の遊女だ。
秀吉が偶然道中で見初めて同行させているだけの遊び女で、その正体が忍だの間諜だのという事実はない。
それなのにどうしてその女が本能寺の謀叛を知り得たのか。
そして明智と毛利を繋ぐ密書をどうして手に入れられたのか。
密書など命に代えても守らなければならない代物だ。
伝令がどれほど無能であろうと道に落としてしまうことなどありえない。

最後に3つ目。
書状には光秀の署名も花押もなかった。
それなのにどうして光秀からの密書だとあの女は判じたのか。
かすかに覗き見ただけだが、書状に記されていたのは光秀の家臣である斉藤利三のもののみ。
主君に全権を委任されたと書かれてあるが、それが光秀の意志によるものかは不明だ。
利三の単独行動という可能性だとてあるのだから。

何よりも気になるのは、あの女にこの書状を読めるだけの知識があることだ。
この時代の女は文字が読めない。
武家の姫ですらせいぜい読めて仮名文字程度。
書状に認められているような漢字を用いた文字は読める者は少ない。
秀吉の正室であるねねは忍び出身ということもあってか文字を読めるが、では他の女性はどうかと言われれば三成が知る限り該当する人物はいない。
濃姫やお市の方も教養深い女性ではあるけれど仮名文字がせいぜいだろう。
それほど女性の識字率は低い。
たかが遊女が知り得る知識ではないのだ。

(怪しいな)

最初から不信感はあった。
秀吉に取り入った狡猾さと言い、遊女とは思えない尊大な態度と言い、あの女は不信な点が多すぎた。
おそらく『かぐや』というのも本当の名ではないだろう。
帝と数多の貴族を手玉に取った女の名を使うだなどと、随分と自分に自信があるようだ。
確かに造作は美しいだろう。
秀吉などは『天つ一族』の一人だと信じて疑っていない。
どこか光秀に似た容貌も秀吉が気に入った理由の1つだろう。
秀吉は光秀の容姿を殊の外気に入っていたから。
だが三成にはあの女が美しいと思ったことはない。
表情一つ仕草一つでこれほど印象が変わるのかと思う程、光秀に似ているというあの女の容貌は醜く見えるのだ。
そのせいだろうか他の武将には媚を見せるかぐやが三成にだけは近寄ろうとしない。

(いや――)

三成だけでない。あともう一人いた。

「三成」

噂をすればというわけではないのだろうが、三成が今思い浮かべた人物に声をかけられた。

「清正」

三成と同じく秀吉子飼いの武将。
そして豊臣の中では三成同様に光秀とも交流があった人物だ。
あの襲撃以来顔を見かければ声をかけてくれるようになり、織田家中の武将では親しい方だった。
彼もまた自分と同じことを考えているのだろうか、表情が硬い。

「お前、今回の謀叛をどう思う?」
「…どう、とは」
「本当に明智殿が謀叛を起こしたと思うか?」
「貴様はどう思う?」

逆に問いかけられて清正はバツが悪そうに頭をかいた。
三成ならば答えを出してくれると思ったのか、それとも答えるのが憚られるのか。

「俺は…正直わからん。人の感情など外から読めるほど頭が良くないからな。だが…」

清正は空を見る。
その視線の先にあるのは本能寺か、安土城か。

「明智殿は信長様と懇意に見えた。あの方の忠誠心が簡単に消えるとは、俺には思えない」
「俺も同じだ」

清正の言葉に三成は同意した。

「明智殿は信長公に対して絶対の忠誠を持っていた。それは間違いないだろう。信長公は確かに苛烈な方で、穏やかな人柄の明智殿が時折心を痛めていたことは知っているが、だからと言ってそれを諌めるために謀叛という手段を使うかと言われれば否定せざるをえん」
「…だよな」

光秀は戦国武将だということが信じられないくらいに穏やかで優しい心根の持ち主だ。
武力を以て天下を治めようとする信長の行動に時折心を痛めていたのは周知の事実。
だからといって謀叛を起こすほど酷い軋轢は当然のことながら2人の間には見えず、仮に信長を諌めるためだとしても犠牲が出る謀叛という手段は決して選ばないだろうと思うほどには、清正も三成も光秀という人物を知っているつもりだ。

「じゃあ、何者かの謀略か」
「一概にそう言うこともあるまい。謀略ならば誰が何のためにというのもあるが、そもそも信憑性が低すぎるだろう」
「それなら…」
「悪いが、俺にもまだよくわからんのだよ。情報が少なすぎる」

三成は確かに優秀すぎると言われるだけの頭脳の持ち主だが、いくら優秀だとて千里眼ではないのだ。
与えられる情報から真実を導き出すには手持ちの札があまりにも少ない。
だがたとえそれが真実であれ誤報であれ、一刻も早く安土に戻らなければならないので帰参の準備だけはしっかり行わなければならない。
道中情報が手に入るだろうかと思いつつ与えられた陣屋に向かおうと清正と別れ足を向けたその瞬間。

「もし――」

低い声が藪の中から聞こえた。
押し殺した男の声。

「豊臣秀吉様の軍の方とお見受けいたします」
「…何者だ」
「織田家中の者でございます」

藪の中から姿を見せないのは理由があるのだろう。
何かに警戒しているように見える。

「そのままでいい。――話せ」
「ありがとうございます。私は重蔵と申します。森蘭丸様付きの随身として本能寺に同行しておりました」
「蘭丸殿付の足軽が何故ここにいる」
「ある方に頼まれたのでございます。――本能寺で起きたことを知らせるように、と…」

そこまで告げて男がいきなり地に伏せた。
声は低く、荒い。
休みなく駆けてきたのかと思ったが、どうやらそれだけではないらしい。
三成の鼻に僅かだが鉄の匂いが届いた。
慌てて男を藪の中から引っ張り出せば男は気を失っていた。
その肩には矢傷、そして太腿には深手と思しき刀傷がある。

「この傷で走ってきたのか…」

持っていた布で傷口をきつく縛れば、その衝撃で意識が戻ったのだろう。
蒼白になった重蔵が僅かに目を開けた。
手当をと言いかけた三成に重蔵は首を振る。

「私の傷は大したことございませぬ。元より本能寺で失う命でございました。…今はただ、私を救ってくださった方のために動きたく…」
「本能寺と言ったな。貴様は何を知っている」

三成の問いに重蔵は顔を上げた。
真摯な表情で三成を見上げる。
言葉にできない何かを見定めるような視線は嫌いではない。

「言え。俺にできることなら何でもしてやろう」
「貴殿は…」
「俺は石田三成。秀吉様の小姓だ」
「貴方が石田様…。お噂はかねがね…」
「このような状況で世辞はいらぬ。貴様の知っていることを話せ」
「承知、いたしました」

そうして重蔵の口から語られたのは、まさかとしか言いようがない事実だった。

「どうか…どうか、明智様の汚名を雪いでくださいませ。あの方は謀叛など起こしておりませぬ。あの方は…」

予想以上に出血が多かったのか、傷を放置して駆け続けたのが災いしたのか、重蔵の意識は今にも途切れそうだ。
消えゆく視界の端で、三成の秀麗な顔が見える。
そう、彼もまた整った顔立ちをしている。
だがそれはあくまでも男性が持つ凛とした怜悧な美貌で、彼の人のそれとはやはり違う。
心根も優しく柔和な雰囲気を身に纏った彼の人は、やはりこうして比べてみれば男性には見えない。

「どうか、お救いくださいませ…」

取るに足らない小者である自分にも礼を以て接し、主君を守って死ぬのが当然であるにも関わらず「生きろ」と告げた光秀を。



――あの方は、信長公の御子を宿した女性なのです。



最後の言葉が三成に届いたか、意識を失った重蔵にはわからなかった。


  • 11.10.17