Sub menu


雪・月・華 26


巨星、堕つ。

信長が謀叛により死亡したという報は、当事者が驚くべき速度で日ノ本中を駆け巡った。
元親がそれを知ったのは本能寺の変から2日後。
夜を徹して帰国したその日の内に腹心の部下から聞かされたのだ。
土佐と京はそれほど遠くはないとは言え、あまりにも驚くべき速さだ。
そして更に恐ろしいのは、事実が歪曲して伝わっている点だろう。
元親の部下である佐竹義秀が聞いた話では、本能寺を襲ったのは明智の軍であり、日を追うごとに悪化していく光秀への冷遇にとうとう光秀が腹に据えかねたのだという話だった。
確かに本能寺を襲ったのは明智の軍だった。
それは間違いようのない事実だ。
だが、真実は違う。
光秀は何一つ関知していなかった。
それは光秀を迎えに行った元親が誰よりも知っている。
そして襲撃を受けた信長自身も光秀の仕業だとは思っていなかった。
信長も蘭丸も最期の最期まで案じていたのは光秀だったのだ。
誰が己を滅ぼした謀叛人の行く末を案じようか。
ただ、明智の軍が本能寺を襲ったのは事実。
元親が駆け付けた時には軍は引いていたものの、それでも戦場に散らばる旗印から光秀の命だと誤解されてもおかしくない状況であることは確かなのだ。
光秀ならば何か知っているだろうかと思うものの、あの日から光秀は目を覚まさない。
精神的な疲労だろうか、あの後すぐに発熱して意識が戻らないのだ。
腹の子に影響はないようだが、それだけ光秀にとって衝撃的な事件だったのだろう。
ようやく今朝になって熱が下がってきたという報告があった。
目が覚めるのも時間の問題だろうが、その間何の手を打てないことがもどかしかった。

「豊臣殿が毛利と和議を結びました。返す足で山崎に向かっているとのこと」
「わかった」
「柴田殿の軍が丹波亀山の城を占拠しました。戦支度ではありますが戦端を開くつもりはないとのこと。明智殿との会談を希望しています」

元親の元に伝わってくる報はあまり嬉しい内容ではない。
誰もが光秀を謀叛人と断じて報復を叫んでいる。
若干動揺が見られるのは古参の武将くらいか。
特に柴田勝家などは間近で信長と光秀の良好な関係を見てきただけに信じられないという意識が強いのだろう。
城を取られたのは痛いが、相手が勝家であれば城内の者も無下には扱われないだろう。
一刻も早くこちらも対策を練らないとならないのだが、肝心の光秀の意識が戻らないのでは話にならない。
そして意識が戻ってからも今の状況を聞かせるのは躊躇われた。
ただでさえ心を痛めているというのに、更に苦しめるのは流石に酷だ。
かといって放っておけないのも事実。
今はただ、光秀の意識が一日も早く回復することを願うばかりだ。







   ◇◆◇   ◇◆◇






その数日前。
目当ての人物が姿を見せると、秀吉は満面の笑みを浮かべて立ち上がった。

「かぐやではないか。もう具合は良いのか」
「はい。もうすっかり」

鈴の鳴るような朗らかな声で答えたのは妙齢の女性。
秀吉が戦の途中で見つけてきた遊女だが、一見すると遊女とは思えないほどに美しく品のある女性だ。
美しい女性は着飾らせるのが当然と、秀吉は陣中でありながらこの遊女にと美しい小袖を送った。
まるで大名の正室のような装いに身を包み嫣然と微笑む女は、事情を知らない者が見れば秀吉の正室のようだ。
だが秀吉には誰もが認める正室であるねねがいる。
そして陣中にいる武将達のほとんどがねねに恩義のある者たちばかりで、当然ながらその女の態度は目に余る。
だが秀吉が許しているため彼らが咎めることはできない。
何事に関しても大らかな秀吉ではあるが唯一の欠点と言えるのが女癖の悪さで、熱を入れている女性に対して苦言を呈しようものなら戦で失敗した以上の叱責や咎を受けるのがわかっているからである。
居合わせた者たちのほとんどが苦々しい顔をしているのを承知の上で、かぐやと呼ばれた女は秀吉の隣に侍る。

「何じゃ、かぐや。ここ数日は気鬱だとかで近寄りもせんかったというに、今朝は随分と機嫌よさそうじゃの」

普段はどちらかと言えば無愛想とも思える彼女が常になく笑顔を浮かべているのが嬉しくて、秀吉はそう声をかけた。
するとかぐやは扇で口元を隠してにこりと笑う。

「えぇ。とても面白いことが起こりましたの。是非、秀吉様にもお報せしたくて」
「ほう。何じゃ」

女の言うことだ。
花が咲いたとか天気が良いとか、その程度だろうと思った秀吉がそう言うと、かぐやは更に笑みを深めた。

「織田信長公が本能寺で謀叛にお遭いになって亡くなったそうです」

その瞬間、陣中に衝撃が走った。
当然だろう。
主君が仕えるべき人物が亡くなったと聞いて平然としていられる者がいるだろうか。
驚愕の顔を眺めながら、かぐやは更に言葉を続ける。

「何でもここ最近冷遇されていた武将が叛旗を翻したとか。本能寺は炎上して信長様はそこでお亡くなりになられたとか。わたくし魔王は大層恐ろしゅうございましたから、安心いたしましたの」

かぐやが遊女になったのは、信長に仕える家を滅ぼされたからだと言っていた。
個人的な感情で気に入らないのだろうとは思うが、今この状況でそう口にすることがどれほど不謹慎かわからないはずがない。
それでも言葉にせずにはいられないほどに信長が憎いのだろうか。

「かぐや…お前さん、それは本当のことなのか…」
「まぁ。わたくし、偽りなんて申しませんわ」
「じゃが…信長様に叛旗を翻す者なぞおらんじゃろう」

信じたくないというより信じられない。
確かに信長は強引ではあるが、命を奪うほど憎んでいる武将など織田家中にはいないはずだ。
少なくとも秀吉には想像がつかない。

「その武将は誰か、そなたは知っておるのではないか」
「明智光秀様ですわ」

かぐやの口からその名前が出た途端、秀吉は安堵したように笑った。
そして同様に周囲からも失笑が漏れた。

「ないない。そりゃあ何かの誤報じゃ。光秀殿が信長様を討つ理由など、天地が逆さになってもありゃせんわ」

信長に心酔していた光秀。
新参の武将でありながらも信長の側近として多くの武将から信頼されていたのは、彼の忠誠が一片の曇りもなかったからだ。
心優しい彼は信長の政策に時折心を痛めていたようだが、それ以上に信長の天下を夢見ていた。
彼のために力になれるのが嬉しいのだと、はにかんだような笑顔で答えたその姿は偽りではない。

「ですが、証拠がございますのよ」

そう言ってかぐやは懐から一通の書状を取り出した。
流麗な文字は光秀のものとは少々違うような気がするが、宛名が問題だった。
秀吉は怪訝そうな面持ちでそれを受け取り目を通す。
その表情が徐々に曇っていき、ややして蒼白になった。

「こりゃあ、光秀殿と毛利との密約の書状ではないか」
「先程散歩していたら落ちてましたの」

あまりにもわざとらしい言葉だが、確かに秀吉の手にあるのは光秀が毛利へと送った共謀の書状である。
筆跡は光秀のものではないが、記されている署名は斉藤利三。
光秀の腹心の部下である。
体調不良で療養している時には領内の内政を一手に引き受けていたほど光秀の信頼は篤い。
信じたくない。だが、否定するには材料が揃い過ぎている。
不安に揺れるその時、荒々しい音と共に伝令が到着した。

「緊急事態にてご無礼お許しください!」

陣屋まで馬上で乗り付けた伝令はそう告げるなり平伏した。

「急ぎ京へお戻りください!」
「…何事があったんさ」



「先日未明、本能寺にて明智光秀様ご謀叛。信長公が弑逆されました!」



動揺に包まれる陣中で、女がひっそりと笑った。


  • 11.10.11