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雪・月・華 25


奥へと進んでいくにつれて不安が大きくなっていく。
人の数があまりにも少ないのだ。
戦闘が続いているのならば敵であれ味方であれ気配なりとも感じるものだが、ここはあまりにもひっそりとしている。
まるで生者の存在がないかのように。
足元に転がるのは明智の兵。
光秀が頼りにしていた勇猛な兵士たちのなれの果てだ。
太刀筋は広く、大振りの剣による一撃で葬られている。
おそらくは信長の持つ剣だろう。
蘭丸が信長の傍にいない以上、このような太刀筋を持つのは信長しかいない。
それにしては信長の姿すら見えないのはどういうことか。
既に脱出しているのだろうか。
それならそれで喜ばしいことだが、光秀の脳内で鳴り響いている警鐘は未だ止む気配を見せない。
まさか、もう。
そう考えて言葉にできないのは、現実だったら怖いからだ。
光秀の声が言霊となって信長に害を及ぼしたらと思うと怖くて声が出せない。
元親に支えられるようにして進んでいくと、ようやく見えてきた本堂。
その壁に縫い止められるように立つ人物の姿を認め、光秀は息を呑んだ。
見慣れた黒い鎧ですらない、白い夜着。
防御の役割を果たさないそれを朱に染めているのは、見間違えるはずのない光秀の主君の姿。

ピクリともしない姿に足元から震えが走る。
膝から崩れ落ちそうになるのを何とかこらえ、ゆっくりと近づく。
目が伏せられている。気絶しているのだろうか、それとも…。
手を伸ばして触れれば驚くほど冷たい身体。
だが、まだ呼吸がある。

「の…ぶなが、さま…?」

ようやく絞り出した声が光秀の口から出れば、聞こえたのか瞼がかすかに震えた。
ゆっくりと開かれていく瞳は常と変らぬ光を宿していた。

「光秀…か」
「信長様!!」

思わず光秀は信長に縋りついた。
怪我は酷いのだろうか、どうして誰もいないのだろうか。
思うことは多々あるが、それより何より信長が生きていることが嬉しかった。
数刻ぶりに感じる信長の腕はいつものような温かさを失っていたけれど、それでも彼はまだ生きている。

「戯けが。このような場所に来るなと、言っておいたではないか」

咎めるというよりは苦笑するような声に光秀の瞳から涙が溢れる。
光秀はいつも考えなしで、何度となく信長に心配をかけたり怒らせたりした。
それでも最後はこうやって許してくれるのだ。
魔王と呼ばれ鬼と呼ばれた光秀の主君の本質は、こんなにも優しい。

「蘭は、どうした」
「私が駆け付けた時には、もう…」
「そうか…」

小さく呟いた信長は、やがて喉の奥で低く笑った。

「この信長の命運、ここで尽きようとは、な」
「信長様?!」

あまりにもあっさりと言われて光秀は目を瞠った。
疲労の色は濃いが、深手は負っていない。
境内は炎に包まれているが、それでもまだ脱出できないわけではないのに。
既に逃げることを諦めているかのような発言は聞き間違いかと思うほど軽いものだった。
それなのに信長は更に信じられないことを光秀に告げた。

「光秀、貴様は生きよ」

真剣な眼差しはそれが偽りない本心であることを表わしている。
光秀は反射的に首を振った。
信長の視線が険しくなる。だが、光秀とて聞き入れられることではないのだ。

「光秀」
「嫌です。私もご一緒させてください」
「戯けが。貴様にはやらねばならないことがあるはずだ」
「私は信長様のお傍に…」
「その腹の子、産まぬまま殺すつもりか」
「っ?!」
「…二度は許さぬと言ったはずだ」

毛利との戦に出陣しようとした光秀に、信長はかつてないほどの怒りを見せた。
その時に案じていたのは光秀の内に宿った新しい命で。
腹の子を守ることを優先するようきつく言い聞かせたのはそれほど前のことではない。
あの時の恐怖はまだ光秀の身に染みている。
信長との子。
光秀にとっては初めての、そして信長にとってはおそらく最期の子となるべきだろう命を守るのは、母である光秀にしかできない。
光秀は信長の着物の袂をきつく掴んだ。

「狡い人です、あなたは…。私が『男』のままだったら何があってもお傍を離れなかったのに、強引に『女』に戻しておいて…そうして私を置いていくんですね」

光秀が武将のままだったら、このような事態起こさせやしなかった。
たとえ他の誰が謀叛を企んでも、光秀が信長に近づけさせなかっただろう。
それなのに信長は光秀を『妻』にした。
戦場で傍に侍ることが許されない存在にしておいて、光秀を置いて戦場に散っていこうというのか。
言いつけ通りあの屋敷で信長を待っていたら、光秀はこうして死に目にすら立ち会えなかったというのに。

「許せ、光秀」
「本当に、狡い…」

そんな顔で謝られたら許さないなんて言えないではないか。
光秀は信長の忠臣。
彼の意向を無視することなどできはしない。



「光秀、時間がない」

元親が腕を引く。
これ以上ここに留まれば、逃げることは不可能だ。
光秀は未だ治まる気配のない涙を強引に拭った。
主君を仰ぎ見る視線は不安げに揺れていたけれど、そこに宿る光は以前と同じものだ。
信長が愛でた明智光秀が、そこにいた。

「…行きます」
「うむ」

信長の手が光秀の頬を滑り、最後に唇が触れ合った。

「生きよ、光秀」
「…はい」
「元親よ。この奥に地下に続く抜け道がある。ここからなら誰に見つかることもなく脱出できよう。良いな、しかと光秀を守れ。その者はこの信長の妻、ぞ」
「承知した」

肩を引かれるように本堂を脱出した。
これ以上光秀を走らせるのは危険だと判断した元親は、途中で光秀を抱え上げて指示された抜け道を走った。
背は高いのに驚くほど軽いのは光秀が女だからか。それとも天女の末裔だからか。
どちらでも良い。
羽のように重さを感じない身体は、今はむしろありがたい。
信長の言う通り、抜け道には一人の兵もおらず、そして本能寺を包んだ炎が通路を通って追ってくることもなかった。
ようやく地上へと出た時、本能寺の炎は遥か眼下にあった。
地下を掘り進んで山道に出るようになっていたらしい。
どこまで用意周到な男なのだろうか。
おそらく光秀が来なければこの抜け道を知ることはなかっただろう。
こんなに安全な道があるのならば早く使えば良かったのに、それをしなかったということは使う必要がなかったからなのか。
それとも使っても意味がなかったのか。
真相はわからない。
信長はあの炎の中にいて、どれほど望もうと回答は戻ってこないのだから。
気が付けば腕の中の光秀は意識を失っていた。
身重の身体には過ぎた負荷だったのだろう。
眦に残る涙が哀れだった。

「眠るがいい」

目が覚めたら光秀には更なる試練が待っている。
せめて、今だけは何も考えずに眠ってほしい。

紅蓮の炎は信長と蘭丸をその手に抱えたまま、夜の闇を大きく染めていく。


今、この時、1つの時代が終わりを告げた。
次に訪れるのが平穏か混沌か。
それは元親にもわからない。


  • 11.10.07