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雪・月・華 24


足軽に案内されて足を踏み入れた本能寺は、正に惨状と称する以外に形容できない有様だった。

「このような…」

光秀がふらり、と一歩後ずさるのも無理はないと足軽は思った。
周囲には多数の死体。
そのほとんどが明智の旗を身に着けた足軽で、光秀にとっては見覚えのある者もいただろう。
そして織田の兵。
奇襲に近い状況ではろくな人員も武具も揃っていなかっただろう。
彼らの全身に残る切り傷が、どれだけの死闘を繰り広げてきたかを物語っている。
明智の兵は決して脆弱ではない。
むしろ織田に与してから連戦連勝、それこそ足軽であっても一騎当千とまではいかないまでもかなりの武働きをしていたほどの強者なのだから、それこそ織田兵の尽力は相当なものだっただろう。
彼らもまた何かに操られていたのではないか。
いくら織田兵が死にもの狂いで戦ったとしても、明智兵の死者があまりにも多すぎたのだ。
先程戦った斉藤利三のように、何かに操られて実力を発揮できていなかったのだとしたら納得できる。

光秀は苦痛に耐えるように視線を伏せた。
きつく握られた拳の先に、本来あるはずの刀はない。
それどころか腰に佩いてすらいない。
驚くことに光秀は丸腰だったのだ。
どれだけ彼が慌てて来たかが分かろうと言うものだ。

「明智様…これを」

足軽は足元に散らばる中で、比較的刃こぼれのしていない刀を拾って光秀に差し出した。
この先がどうなっているか彼にはわからない。
だが、明らかに戦場であるこの場所で光秀が丸腰でいるのは危険だ。
この戦は光秀が仕掛けたことになっている。
事情を知らない兵が光秀を見つけて襲いかかってこないとも限らないのだ。
今のこの状況で光秀に刀を差し出すのは酷だと思うが、足軽の実力では光秀を守りきる自信はない。
光秀は僅かに躊躇い、だが状況を理解したのだろう小さな声で礼を言うとそれを受け取った。

「そう言えば、名前を窺っていませんでしたね」
「重蔵と申します。先月まで信忠様の与力をしておりました」

年が若いということで、蘭丸の下に組み込まれたのはつい先日。
信長の一行に同行するのは今回が初めてだった。
まさか初めての任務でこのような事態に遭遇するとは想像もしなかった。

「ここまでありがとうございました、重蔵。もし許されるなら、この事態を柴田殿か中国攻めに赴いている秀吉殿に知らせてください。間に合うかはわかりませんが…」

本能寺の中でまともに動いている兵はほとんどいなかった。
それこそ明智・織田両軍共に満身創痍なのだ。
原因を追究しなければならないのは勿論だが、信長を逃がさなければならない。
誰が黒幕かわからない以上、信長を護るための軍が緊急に必要だった。
本来ならば光秀の軍が護りたかったが、多分まともに動ける兵はいないだろう。
利三がどれだけ兵を止めてくれているかが気になるところだ。
織田家の武将を疑うつもりはない。
だがその中でも誰を信頼するかと言えば、信長に絶対の忠誠を誓っており信長を守り切れる実力を備えているのは柴田勝家か豊臣秀吉か、そのどちらかになる。

「明智様は…どうなさるのです」
「信長様と蘭丸を逃がします」
「それでは…」

光秀はどうするのだろう、と思ったが彼がそれを言葉にすることはできなかった。



「蘭丸?!」



多くの遺体の中に見慣れた姿があり、光秀は駆け寄った。
血溜まりの中に倒れているのは確かに光秀の言う通り蘭丸だった。
返り血か自身のものか、夥しい血に濡れた蘭丸を抱え上げるとむせ返る血の匂いに収まっていたはずの悪阻がこみあげてきたがぐっと堪えた。

「蘭丸! しっかりしてください」
「み、つひで…さま…」

うっすらと開いた瞳が光秀を捕らえ、そして驚愕に瞠られた。

「何故、このような場所に…いけません。お身体に、障ります…」
「私のことなどどうでもよいのです」

やんわりと拒絶する蘭丸に光秀の顔がくしゃりと歪む。
蘭丸の腹からは血が溢れ流れ出ていく。
顔色も蒼白で出血が多すぎたせいか体温も低い。
命に関わる重症であるにも関わらず、身重の光秀の体調を優先するのは蘭丸らしいけれど、それが哀しい。

「申し訳ありません…。あの、八重と言う女性…止めることができませんでした」
「では、この騒動は…」
「恐らく、あの女が仕組んだことに…ございましょう。あの女は…最早、人ではありません。外道に堕ちた魔物…信長様のお身体が心配です。どうか…光秀様、信長様と共に…お逃げください…」
「わかりました。ですが、蘭丸、貴方も一緒です」

だが、蘭丸はゆっくりと首を振る。

「己の身体です。わかっております。蘭は、もう保ちませぬゆえ…どうか、信長様を…」
「蘭丸?!」
「光秀様はどうか…お健やかな御子を…。信長様との御子…見られぬのが残念…」

小さく呟いた声は、だが恐ろしい程の静寂の下にあって良く響いた。
儚い笑みを浮かべた蘭丸の瞳がゆっくりと下がり、そしてその身体から力が抜けても光秀は蘭丸を放すことができなかった。
家族との縁も切れ親しい友人もほとんどいなかった光秀にとって、蘭丸は同僚であり友人であり、弟でもあった。
年は下だというのに自分よりよほどしっかりしていて、不慣れな自分を幾度となく補佐してくれたかけがえのない人物だ。
生まれてくる赤子が女児だったら嫁に欲しいですと、冗談半分で笑った蘭丸に信長と2人で頷いたのは本当につい先ほどのことだというのに。
このような形で死なせてしまうなんて。

「許してください…」

償う方法はわからない。
だが、いずれ。
光秀はそう呟いて、蘭丸の身体をそっと床に下ろした。
このままにしておきたくはない。だが蘭丸が最期に自分に託した信長の命だけは守らなければいけないのだ。

「光秀」

背後に元親の気配。
どうやら追いついてきたらしい。
目の前に突き付けられた刀を、光秀は無言で受け取った。
この先にいるのは信長と…恐らくは八重。
武術に長けた蘭丸でさえも彼女を「魔物」と称した。
外道に堕ちた魔物とは、一体どういう意味か。
確認するには対峙するしかない。
そしてそのためには鈍の刀では駄目だ。
信長から賜ったこの刀でなければ相手にならないだろう。
重蔵から受け取った刀を外し、己の腰に差せば武人としての感覚が戻ってくる。
光秀は背後を振り返る。
そこにはやはり重蔵の姿。
蘭丸の最期の言葉が聞こえただろうか。
動くに動けない重蔵に、光秀は声をかける。

「案内、ありがとうございました。重蔵。あなたは一刻も早く秀吉殿に援軍を出すよう伝えてください」
「ですが…」
「信長様はこの光秀が命に代えてもお救いします。ですから」

重蔵が言いたいことがわかっているのに、光秀はあえてその言葉を言わせなかった。
今から中国にいる秀吉に援軍を求めたところで、間違いなく間に合わない。
恐らく重蔵が中国に辿り着く前――それこそ本能寺を出る頃には全てが終わっているだろう。
それでも重蔵を使いに出すのは、秀吉に助力を求めてのことではない。
報告と称して重蔵を助けようとしているからだ。
たかが一人の足軽。
本来ならば使い捨てにすればよいだけだというのに、光秀はこうして助けようとする。
だが、と重蔵は思う。
蘭丸の言葉が真実だとすれば、光秀は女性だ。
しかも身重の。
そんな相手を死地に置いて行くことができるだろうか。
躊躇いが重蔵の足を止める。
だが、動くことのできない重蔵に、光秀は静かに告げた。

「これは命令です。いきなさい」

『行きなさい』か『生きなさい』か、どちらの意味だったのかわからない。
ただ、鋭い視線に突き動かされるように重蔵は踵を返して走り出していた。
静かな声だというのに、不思議と逆らうことができなかった。
重蔵にできるのは、どのような方法を取ってでも豊臣軍に辿りつき真実を伝えることだ。
上司が言っていたように、織田軍ですら光秀が謀叛を起こしたと思っていた。
遠方にいる武将がそれを信じても不思議ではない。
織田家で光秀と同様に力がある武将は数人いるが、その中でも影響力の強い武将は柴田勝家と豊臣秀吉の2人だ。
重蔵はどちらに伝えるのが一番良いか考える。
勝家は信長に忠誠を誓った武将だ。だが光秀とは若干距離を置いていた。
秀吉も信長に忠誠を誓っている。そして光秀とは彼の小姓も含めて仲が良いように見えた。
行く先は決まった。
重蔵は馬を手に入れると躊躇いもなく中国へ向けて走り出した。


  • 11.09.22