白い肌、黒曜石のような瞳。
そして、禍々しいほどの弧を描く赤い唇。
造作は光秀に似ているだろうか、だが与える印象は天と地ほど違う。
全身に寒気が走る美貌は、天女というより鬼女のようだ。
彼女だと思った。
彼女が、光秀を怯えさせていた原因。
「貴様が、八重…か」
見たことはない。話でも彼女の外見に関する供述は一切出てこなかった。
だが、それでもわかる。
光秀ほどの猛者を怯えさせる相手が、普通の容貌をしているわけがないのだ。
蘭丸が名を呼べば、それが不愉快だというかのように女――八重の眉が顰められた。
「小賢しい子供が。妾の名を呼ぶ栄誉など与えてはおらぬというに」
どこか時代がかった言葉遣いは、彼女を更なる人外に見せている。
矜持は高いようだ。天女の末裔という自負がそうさせるのだろうか。
そんなとりとめのないことを考えているのは、そうしなければすぐにでも意識を失いかねないからだ。
八重によって負わされた手傷は想像以上に深かったらしく、押さえた手のひらが己の流れる血で濡れていくのがわかる。
致命傷だろうと冷静に判断する。
己の命はあと僅か。
それならば蘭丸は何よりもしなければならないことがある。
「信長様に…危害は加えさせません…っ」
蘭丸は信長の小姓。
主の命を守るのは当然のことだ。
剣に縋るように立ち上がった蘭丸に、八重は相変わらず冷ややかな視線を向けている。
光秀の母と幼馴染だという八重。
どう見ても光秀と同年代にしか見えないのはどういうことか。
最早若作りという域すら超えている。
これは人ではない。ましてや神でもない。
この禍々しさは悪鬼としか呼べない。
目の前の女を信長に遭わせるわけにはいかないのだ。
たとえ己の命を犠牲にしても。
蘭丸は震える足を踏ん張り、信長より賜った剣を構えた。
◇◆◇ ◇◆◇
光秀が辿り着いた時、そこは酷い有様だった。
随所で炎が上がっており木の焼け焦げる匂いが充満している。
足元には多くの死者。
そして未だ鳴り止まない剣戟に光秀は顔色を失くした。
眼前で鍔競り合いをしているのは、間違いなく光秀の部下だ。
応戦しているのは織田の足軽だろう。
光秀の部下は勇猛果敢で名を馳せている。
いくら屈強な織田軍が相手だとはいえ足軽程度と互角の腕ではない。
「利三! 何をしているのです!!」
目の前の敵しか見えていないだろう部下に怒声を上げれば、震えたように身体が一瞬痙攣し、そして我に返ったように目を瞬かせた。
「え…?! これは…。光秀様…? 何故ここに?」
「それはこちらの台詞です。貴方は一体誰の命でこのような真似をしているのです!」
「このような真似とは…」
「利三…?」
様子が可笑しい。
茫然とした表情の利三は己が手にしている刀を不思議そうに見、そして正面に対峙する足軽を不思議そうに見遣った。
険しい顔の主君の様子といつの間にか戦装束に身を包んでいる己に驚き、そして炎に巻かれる寺院に目をやって慄いたように二・三歩後ずさった。
「わ…私は何故このような場所に…」
血に濡れた己の手が今まで何をしていたか、察することができないほど利三は無能ではない。
取り落した刀と戸惑う姿が演技とも思えず、光秀は困惑に眉を顰めた。
「ここが本能寺だと、信長様のおわす場所だと知っての行動ですか」
「違います! 私には信長公を攻める理由などありませぬ!」
「では、何故ですか」
「私にもわかりません。私は先刻まで光秀様に送る書状を認めていたのです。嘘ではありませぬ」
その言葉に嘘は見られない。
光秀が病気療養と称して表舞台から姿を消した時、利三とは領内の連絡などで幾度か文の遣り取りを行っていた。
信長からも許可を得ていたし、そろそろ次の文が届く時期だったから彼の言葉が嘘だとは思えなかった。
「何かに操られていたとしか…」
力が抜けたように座り込んでしまった利三と険しい表情の光秀に、驚いたのは対峙していた足軽である。
彼は光秀が謀叛を起こしたのだと思っていた。
下っ端の彼には信長と光秀の関係はわからない。
だから『家康の接待役で不始末をしでかした光秀が蟄居を命じられ、それを不満に思った光秀が謀叛を起こした』という上官の言葉を信じるしかなかったのだ。
だが実際はどうだろう。
明智軍を止めた光秀。
記憶のない明智軍の武将。
理解できないことばかりだ。
ただ、彼が感じたのはこの謀叛劇は何者かによって仕組まれたことではないかということだ。
信長と光秀の絆は深いと織田家中の誰もが思っていた。
それを根底から覆すような今回の謀叛劇は、下手したら今の戦国勢力図を一気に変えてしまう恐れがある。
誰が狙ったかまでは足軽風情にはわからないが。
そんなことを考えていたら、光秀が不意に足軽へと視線を向けた。
少し細くなったように見えるが、相変わらず清廉な美貌だ。
深く澄んだ眼差しはとても謀叛を起こすような人物の持つものではない。
「信長様はどちらにいらっしゃいますか」
「は…? あの、多分ですが、本殿の奥にいらっしゃるかと…」
「では、蘭丸はどちらに」
「森様もご一緒かと。戦の前にこちらまで来たのですが、慌てて戻って行かれましたので…」
「では信長様は無事ですね。案内してもらってもいいですか」
「はい。勿論です!」
お願いしますと声をかける姿は以前のまま。
光秀はたとえ相手が一兵卒の足軽であろうと丁寧な態度を崩さない。
「利三、お前は責任を持って他の者を止めるのです。このような無益な戦で傷つく者が増えるのは、この明智光秀が許しません」
「…御意!」
一礼して去っていく後ろ姿を見ていた光秀の瞳が不安に揺れていることに足軽は気づいたが、あえて見ぬふりをして光秀を本能寺へと案内するべく走り出した。
- 11.08.03