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雪・月・華 22


水色桔梗の旗印は明智軍だけが持つことを許された旗だ。
多くの戦場で信長の片翼を担っていたその旗印を知らない者はいない。
それこそ敵味方を問わず周知されているほどに、数多の戦で功績を挙げていた一軍なのだ。
それが今、本能寺にあり、あろうことか信長を強襲しているとなれば、周囲は光秀が謀叛を起こしたとしか思えない。
事実、元親とてそう思ったからこそ真実を確かめるために安土城下のこの屋敷まで時間帯を顧みずに押しかけたのだ。
周囲では光秀挙兵との噂も上がっているという。
誰の仕業か不明だが随分と周到なことだ。
今年になってから光秀は信長の傍を辞している。それも信長の命令によってだ。
織田家中の者ですら青天の霹靂だった事態だが、そのせいで光秀が信長を恨んでいると思っている家臣は多くない。
それだけ2人の仲が良好だったからだ。
光秀が出仕してこないのも過日の襲撃により負った毒の治療だと言われている。
実際あの時受けた毒は、普通の人間ならば即死しても可笑しくないほど強いものだったのだ。
復帰してからも体調が優れない光秀の姿は誰もが見て心を痛めていたことであるし、そんな中で信長直々の療養命令だったのだから、誰もがその関係を懸念していなかった。

そんな中での挙兵騒動である。
しかも、事実本能寺は光秀の軍に攻められてるのだ。
これは危険だと元親は思った。
このままでは光秀は謀叛人にされてしまう。
出陣するつもりでなかった信長は碌な兵を伴っておらず、反して相手は寺一帯を囲んでしまうほどの兵力だ。
そしてその軍が光秀のものならばまさに一騎当千の将たちが揃っているものだから、信長の命運は正に風前の灯と言っていいだろう。
勿論それに気付かない光秀ではない。
蒼白になりながらも屋敷から飛び出した光秀は、慌てる家人を無視して厩に直行し愛馬に飛び乗った。

「光秀、待て!」
「待てません!!」

鋭い声で返すなり脱兎の勢いで走り出してしまった。
あの分では自分が身重だということは頭にないだろう。
それとも腹の子よりも信長の方が大事ということか。
とりあえず今はそれを聞く状況ではない。
元親は丸腰のまま飛び出して行った友人のために、室内に置いてあった光秀の刀を掴むと大急ぎで後を追った。







   ◇◆◇   ◇◆◇







斬っても斬っても一向に減る気配のない敵の数に、流石の蘭丸も疲労の色が隠せない。
しかも相手は光秀の軍だ。
雑兵の顔などは覚えていないが、流石に光秀配下の将ならば戦場で幾度となく見ているし、実際言葉を交わしたこともある。
そんな彼らを相手に戦うのは楽なことではない。
何しろ武芸に秀でた者たちばかりなのだから。

「何故! 貴方方が信長様に刃を向けるのです!」

奇声と共に斬りかかってくる将の刃を受け止めそう問いかけるものの、相手はそもそも蘭丸の言葉に答えるつもりはないようで、振りかざした勢いで蘭丸を受けた刃ごと斬り捨てようと力を入れてくる。

「く…ぅ…」

身長こそそれなりに伸びたものの体格はまだ少年のそれで、どうしても一介の武人と力で対峙すれば分が悪い。
相手の力を利用して剣をかわし、背後から飛んできた弓を返す刀で弾く。
蘭丸によって倒された将が一人、また一人と起き上がってくる。
光秀が大事にしてきた軍だ。
いくら謀叛人だとはいえ無下に斬り捨てることを躊躇ってしまうため、相手の将は手傷こそ負っているものの致命傷はない。
戦意を失くさせるために足や腕を狙うのだが、相手はそんな傷などないかのように何度も起き上がっては蘭丸に刃を向けるのだ。
おかしい、と思った。
主の気質に影響された明智軍は、織田家中でも随一と言われるほど冷静な軍だ。
光秀の命なしに行動することなど考えられず、又、このように猪突猛進な戦をするような将ではない。
更には無言で斬りかかってくるその眼差しが、明らかに普段と違い異質だった。
どんよりと濁ったような眼差し。
血気に逸るとは到底思えないほどに無機質なのだ。
そこの個人の意思が宿っているようには見えない。

光秀不在の軍。
突然の挙兵。
操り人形のような兵達。

不意に蘭丸の脳裏に在りし日の光秀の言葉がよぎった。



『彼女が諦めたとは思えません』



天女の末裔である八重という女。
共に天に還ろうとやってきたというその女を、蘭丸は実際に見ていない。
光秀が言うには得体の知れない恐怖があるのだという。
自分の目的のためには手段を選ばないだろうと、直感に優れた光秀がそう断言するほどの何かをその女は持っているのだろう。
信長はその女から光秀を守るために、彼女を安土城に留め置いた。
その後は厳重な警備の屋敷に匿い、一切の不審人物を光秀に近づけさせなかった。
だから忘れていた。
光秀が怯えるほどの闇を持つその女が、たかが警備を増やした程度で光秀を諦めるはずなどないのだということを。

「まさか!」

これは全て八重という女の仕組んだ罠なのでは。
そう蘭丸が思った時――。



「正解じゃ」



蘭丸の耳元で女の声が響いた。

「?!」

振り返りざまに剣を振るえば、ひらりと翻る赤い衣。
わずかに視界を奪われたその瞬間、蘭丸は腹部に灼け付くような熱を感じて床に崩れ落ちた。
何かが勢いよく足元を濡らしていく感覚。
斬られたのだと瞬時に悟った。だが誰に…。

「無能な人の子にしては聡いものよ。だが、妾の邪魔はさせぬ」

くつくつと哂う声が蘭丸の耳を打つ。

(信長様…光秀、さま…)

霞む視界に映るのは、赤く濡れた刀を持つ白い手と、美しい――だがどこか禍々しい女の笑顔だった。


  • 11.07.24