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雪・月・華 21


夜が更けて城へ戻ろうとした信長と蘭丸だが、結局その日は光秀の屋敷に泊まることにした。
というのも夕刻が近づくにつれ表情が暗くなっていく光秀の意図を汲んだからである。
戦に出陣する信長と蘭丸の身を案じているのはすぐにわかった。
それでも泊まっていってほしいと口に出さないのは光秀の謙虚さであり、だからこそ信長も蘭丸も光秀を好ましいと思うのだ。
流石に妊婦と同じ床で眠るわけにはいかず信長とは別室になったが、それでも夕餉を供にして安心したのか、まだ夜も明けぬ早朝でありながらも見送る光秀の様子は穏やかだった。
一度城に戻ってから出陣し、本能寺に到着したのは日が暮れる少し前だ。
湯を浴びて旅の汚れを落とし、そうして落ち着いたのは夜も更けた頃。
濃姫は疲れから既に就寝している為、部屋に残ったのは信長と蘭丸の2人だけである。

「それにしても、お健やかのようで安心いたしました」

先程まで信長が使っていた筆を片づけながら、蘭丸は嬉しそうにそう言った。
信長が書いていたのは光秀への文だ。
意外とまめな蘭丸の主人は家臣へ文を良く書く方だ。
特に戦に赴いている家臣の奥方に対して、多忙で文を書く時間のない家臣の代わりとばかりに夫の献身ぶりを頻繁に報告している。
そのため夫よりも夫の主君との文のやり取りの方が多いという奥方も少なくない。
文と言っても戦況を知らせるものから簡単な季節の挨拶文など様々で、時には奥方から夫の不義についての相談なども持ちかけられ宥めたりなどもしているのだ。
敵対する国では信長は魔王だ鬼だと恐れられているようだが、こんなに几帳面で部下想いの鬼がどこにいるだろうかと蘭丸は常々思っている。
その中でも群を抜いて回数が多いのはやはり光秀で、逢えない日は最低でも日に1通は文をしたためている。
逢える日はどんなに短い時間でも足を運ぶのだから、その寵愛の深さは相当なものだ。
墨が乾くまでの間に蘭丸はその内容を見ることができるが、ほとんどが身体を労わるようになど光秀と腹の子の体調を慮ってのものだ。
更には滋養の良いものを取り寄せては文と一緒に送ったり、時には昨日其方の夢を見たなどと言った甘い睦言のようなものだったりする。
本当に蘭丸の主は光秀のことを心から大切に想っているようで、そんな2人の姿を見ているだけで蘭丸は幸せな気分になれるのだ。

「お腹も以前より大きくおなりになって少々動きづらそうでしたが、顔色も良くて何よりです」
「うむ。まだ食は細いようだが、な」
「悪阻とやらは大変だそうですね。それでも城にいた頃よりは召し上がれる量も増えたと思います」

妊娠初期だったせいか、光秀が安土城に滞在していた頃は本当に酷かったのだ。
匂いのする食事は当然のことながら、米の匂いも駄目だったらしく、酷い時には水を飲んだだけでも戻してしまっていた。
妊婦は往々にして子供の分の栄養も接種しようと身体が食事を望むのだが、光秀に限ってはそれは該当しなかったようで、本来ならば多少ふくよかになってもおかしくない時期にも関わらず逆に痩せていってしまっていた。
甘みの少ない水菓子ならば多少食べられたようで、四国から取り寄せた蜜柑が唯一の栄養源だった時すらある。
それを考えれば量こそ摂れないものの、信長や蘭丸と同じ食事を食べられるようになっていることは格段の進歩だ。
まだ相変わらず細いが、典医の診立てでは母子共に順調だと言うことなので心配することもないだろう。
予定では生まれるのは年の暮れあたり。
夏もまだだと言うのに蘭丸は今から子が産まれる日が楽しみで仕方ない。
できることならそれまでに戦は終了させたいものだ。

「?」

ふと、外で物音が聞こえて蘭丸は警戒する。
深夜と呼ぶに相応しい時刻。
信長の寝所周辺は特に厳戒な警戒が敷かれているというのに、何故だか少々ざわついている。
調べてくると信長に断りを入れて門へと赴けば、遠くに篝火が見えた。
聞こえてくる馬の足音。具足の音。
何者かに寺が包囲されているのだと気づいた。

「一体いつの間に…」

それよりも気になるのは、一体誰がということだ。
信長に敵対する勢力は周辺にはいない。
秀吉から徹底した攻めを受けている毛利にそんな余裕はない。
ではどこがと思い、ふと視界を掠めた幟に目を瞠る。

「あれは…」

まさかと思う。
それだけは絶対にありえない。
天地が逆さになっても、その可能性だけはあるはずがないのだ。








   ◇◆◇   ◇◆◇







胸騒ぎがする。
何かが喉の奥にひっかかるような違和感と共に、胸の奥がざわざわと落ち着かない。
勘は鋭い方で、このような時には必ずと言っていいほど何かが起こるのを、光秀は過去の経験から知っている。
誰もが気づかないような異変にも光秀だけが気づいたということは何度となくある。
そのため光秀はこの手の不安には随分と過敏になっているのだ。

「まさか…」

一番に考えられるのは主君・信長のこと。
今頃は本能寺に到着しているだろう。
道中から送られた文では特に何事もなさそうだったが、何かあったのだろうか。
障子を開いて外を見るものの、視界に映るのは見慣れた庭と綺麗に瞬く星々だけで、当然のことながら遠く離れた京など窺えるはずもない。
ざわり、とまた胸の奥が震えた。
恐怖心と似たそれは今までに経験のないものだ。
もう眠らなければお腹の子に悪いというのに、どうしても眠る気にはなれなかった。

「誰か、」

屋敷に常時詰めているという忍びに様子を探ってもらおうと声をかけようとした時、遠くで馬の蹄の音がした。
徐々に近づいてくるそれはまっすぐ光秀のいる屋敷に向かってきているようで、光秀は急いで夜着から着替えた。
最早すっかり着慣れた小袖ではなくかつての袴に着替えてしまったのは無意識の行動だ。
侍女を起こすまでもなく着替えを済ませ、そうして長い髪を一つに纏めたところで門扉を叩かれた。

「開門!」

聞きなれた声に更に不安が募る。
彼は今ここにいる予定ではないはず。
どかどかと前以上に乱暴な足音が屋敷内に響く。

「光秀! いるか?!」
「元親殿?!」

やはり声の主は長宗我部元親で、馬を走らせ続けたのだろう疲労の色が濃く浮かんでいた。
だがそれよりも緊迫した空気が光秀に伝わってくる。

「元親殿。どうして…」

どうしてここにと問いかけようとした言葉は、突然掴まれた腕の衝撃で喉の奥に消えた。
両腕を掴んでいる力は強く痛みを伴うほどのもので、普段の元親らしくない乱暴な仕草に驚きを隠せない。

「元親…」
「いいか、落ち着いて聞け」

光秀の言葉を遮るように、元親はようやく整った息の下で低く告げた。

「本能寺が何者かに攻められている」
「な…っ」

驚愕に息を呑むより先に、続けて発せられた言葉に光秀の息が止まった。





「相手の旗印は『水色桔梗』――お前の軍だ、光秀」


  • 11.06.10