「本能寺に?」
数日ぶりにやってきた信長の言葉に、光秀は不思議そうに首を傾げた。
先日までは頑なに戦況を教えなかった信長だが、元親からの情報で光秀が思いつめてしまったことを知ったせいか、時折情勢を教えてくれるようになった。
その情報を思い出せば、現在毛利攻めは佳境に入っており、もう間もなく秀吉が毛利を攻略する頃のはず。
士気を高めるために信長自ら出陣するというのは納得できるが、そのついでに本能寺で茶会を催すというのは少々理解に苦しんだ。
そんなにのんびりしていていいのだろうかというのが正直な感想である。
光秀の考えていることがわかったのか、蘭丸が表情を緩めた。
「実は徳川殿をお招きしたのです。徳川殿は今回の毛利攻めには参戦しませんが、後方支援をお願いするつもりなので」
「そういうことでしたか」
信長の戦は少々独特だ。
形式にこだわらない戦法は、敵対する立場から見れば次に何が起こるかわからない。
そのため敵側にしてみれば僅かでも気が抜けないのだ。
現在、毛利は秀吉の軍に相当の苦戦を強いられている。
そんな秀吉に信長自ら参戦となれば毛利にとっては致命的だ。
そしてその背後に徳川が控えているとなれば、毛利の士気は大いに下がるだろう。
場合によっては予想以上の早期決着がつくかもしれない。
戦によって無益な血が流れることを厭う光秀にとって、それは喜ばしいことだ。
勿論毛利が降伏したところで信長が彼らに何の咎めも行わないとは考えられないのだが。
「それで…出立はいつになるのでしょうか」
「軍は既に出立しております。我々は明日早朝にでも」
「随分と急なのですね」
以前ならば信長の予定は蘭丸か光秀が最も早く知らされていた。
だが、今の光秀には事後報告がほとんどだ。
立場を考えればそれも当然で、むしろ以前のように何も知らされないよりは十分ましなのかもしれないが、それでもやはり寂しさを覚えてしまうのは無理もないだろう。
本当ならばその傍らには自分もいたはずなのに、とまたもや未練がましい思考が浮かび光秀は慌ててそれを打ち消した。
自分が今しなければならないことは戦ではない。
そう言い聞かせるように自らの腹部に手を添える。
母性本能などないと思っていたのに、こうして触れていると愛しさが溢れてくるから不思議だ。
自分でなければ守れない命がここにある。
それを最優先するのが、今の自分に課せられた使命。
そう思えば逸る気持ちを抑えるのは容易だった。
光秀は信長と蘭丸に視線を向ける。
「どうか、ご無事にお戻りくださいますよう」
「うむ」
「お任せください」
深々と頭を下げる光秀に、信長は鷹揚に頷いた。
蘭丸も力強く頷く。
戦況は圧倒的に織田の有利。
秀吉は有能だ。
もしかしたら信長が全戦に赴くまでには戦は終息しているかもしれない。
それでもいいと光秀は思った。
戦のない世が一日でも早く来ればいい。
それが、光秀の願いなのだから。
◇◆◇ ◇◆◇
一方、豊臣軍では毛利への降伏を促す使者に誰を立てるかという議論が交わされていた。
否、議論を行おうとしているのだが、秀吉の姿だけが見つからない。
「秀吉様はどこにいらっしゃるのだ」
硬質な美貌を顰めているのは三成だ。
手にした鉄扇で不愉快そうに己の手を叩くのは、三成が思考する時の癖だが、同時に不快な感情を示すものでもあった。
毛利には最早戦を続けるだけの余力はない。
一気に力で押し潰しても良いが、それではこちらの兵にも少なからず犠牲が出る。
織田のため、そして豊臣の力を見せつけるためには被害は最小限に食い留めておく必要があった。
そのためにも今は一刻も早く使者を立てる必要があるというのに、秀吉は会議に顔を見せない。
数日中にも信長の本隊がやって来るというのに。
「貴様らは秀吉様の小姓であろう。早く呼んでこい」
「で…ですが、殿から一刻は近づくなと言われておりまして…我々にもどうすることも…」
「また、女か」
「申し訳ございません!!」
床に額が付くほどに頭を下げられ、三成は大きく嘆息した。
びくり、と小姓の肩が哀れなほど揺れたが、三成が咎めているのは小姓ではなく主である秀吉だ。
秀吉は無類の女好きだ。
戦場に赴けば女と触れる機会などなく、多くの武将は小姓を相手に滾る熱を抑えるが、秀吉に男色の嗜好は一切ない。
そのせいか戦場で金稼ぎをしようとやってくる遊女に手を出すことが多い。
遊女たちも豊臣軍を相手にすれば儲けることができることを知っているため、他の軍よりもやってくる回数が多く、そのたびに秀吉は気に入った遊女を相手に部屋にこもってしまうのだ。
勿論戦況が厳しい時には戦に集中するのだが、今のように明らかに勝敗が見えている時などは、良くて半日悪ければ数日女達と遊興に耽ってしまうものだから、潔癖の気質がある三成には到底我慢がならない。
だがいくら息子だと言ってくれているとはいえ秀吉は主である。
彼の寝所まで赴いて女遊びをやめろと言えないのだ。
特に今回の戦では、随分早い段階でお気に入りの遊女を見つけたようで、戦場にまで連れていくほどの寵愛ぶりだ。
いずれ側室にでも召し抱えるのではないかという憶測が飛び交うほどそれは顕著で、だからこそ三成の機嫌は更に悪化していく。
三成にとって秀吉の妻はねねしかいない。
幼い頃から母のように愛情を注いで育ててもらったのだ。
主君の妻というより己の母も同然。
そしてそんなねねが言葉にはしないけれど秀吉の女遊びに心を痛めているのは、子飼いの武将でなくても周知の事実だ。
ここで更に側室を増やしてねねの心痛を増やすような真似はしたくないのだが、普段はどんな些細なことでもきちんと話を聞いてくれる秀吉なのに、女遊びのことだけは頑として言うことを聞いてくれないのだ。
特に、今の相手のことに関しては殊更に聞く耳を持たない。
確かにあの遊女は極上の美女だと三成も思う。
ぬばたまの黒髪、白磁の肌、赤く濡れた唇。
切れ長の瞳は男を妖艶するもので、秀吉が戯れで「天女を手に入れた」という言葉もあながち間違っていないほどの美貌だった。
どことなく光秀に似ているような気がしなくもないが、外見の特徴こそ類似点があるものの清廉な空気を纏う光秀とは与える印象がまったく違う。
況してや男を漁って生計を立てているような女と、私心なく主君に忠誠を誓う光秀とは比べるだけでも失礼だ。
「『かぐや』と言ったか、あの女」
「はっ」
廓に属さない下層の遊女にしては、随分と見目が良かった。
瞳には隠しきれない自尊心が見えたし、ほんの少しだけ会話を交わしたが頭の回転も速そうだった。
「月から降りてきた姫」の名を騙るあたり、己の美貌や知性に関しての矜持は相当高そうだが。
「決して目を離すな。僅かでも怪しいところがあれば遠慮はいらぬ。――斬って捨てよ」
「御意」
草陰に潜んでいる忍びに声をかけ、三成は踵を返す。
突然現れたあの女。
三成には禍にしか思えなかった。
- 11.06.04