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雪・月・華 19


お腹の子を失ってしまうという恐怖に、光秀は悲鳴を上げることしかできなかった。
逃げようとはした。
だが光秀よりも遥かに体格で勝る信長に両手を絡め取られ床に押し付けられてしまえば、光秀ができるのは足をばたつかせて暴れることだけ。
それすら信長にとっては抵抗と呼べるほどではない。
簡単に押さえ込まれて腹部に触れられて息が止まった。
ようやく膨らみ始めてきたそれ。
母となる実感のない光秀に、そこに確かに生命があると教えてくれる己の腹部が愛しくなってきたのはいつからか。
戸惑い、悩み、それでも日々変化の見える身体が嬉しいと思えるようになったのは…。
男だろうか女だろうかと思い巡らせることすら幸せで、そんな光秀を見る信長の目はこの上なく優しかった。

なのに、今。

その信長によって腹の子が殺されようとしている。
それも光秀の失言によってだ。
ここまで怒るとは思わなかった。
戦況が厳しいと聞き、自分が参戦することによって少しでも力になれればと思っただけなのだ。
だが、そこに身重の己を気遣うことを忘れていたのは事実。
女性としての自覚が薄い光秀は、生まれていない生命がどれだけ弱く脆いものか知らないのだ。
恐怖で身体が震える。
多くの命を奪ってきた信長にとって、腹の子もそのうちの1つなのかもしれない。
だが光秀にとっては、何にも代えがたい大切な宝だ。
お願いやめて奪わないで私の子供。
懇願は言葉にならず、ただ涙が溢れてくる。
何よりも自分を安心させてくれるその腕が自分の子を殺すことに耐えられず、光秀は目を閉じた。





だが、いつまで経っても訪れる気配のない衝撃に恐る恐る目を開けてみれば、目の前にいるのはいつもと変わらない信長の姿で。
握られた拳はすでに解かれ自身の膝に乗せられていた。

「の…ぶなが…さま…」
「…戯けが」

自由になった腕で己の腹部を触る。
温かい。まだ、ちゃんとお腹の中にいる。
そうわかった途端、更に涙が溢れてきた。
子を守るように己の身体を抱き込むように座り、嗚咽を漏らす光秀に信長は小さく嘆息する。
あまりにも己の状況を理解していない光秀に少々灸を据えてやろうと思ったのだが、どうやら予想以上に衝撃は大きかったらしい。
やりすぎたかと思うものの悪いとは思わない。
それだけ光秀の提案は許せるものではなかったのだ。
だが、子供のように泣き続ける光秀にさすがに憐憫の情が湧いてきて、信長はうずくまった光秀を抱き上げ己の膝の上に下ろした。

「戦場に出れば、腹の子の危険は今の比ではない、ぞ」

信長の声を聞いているのか、腕の中の光秀は信長の肩に顔を押し付けたままだ。

「腹の子を無事産むのが、今の光秀に課せられた任務。毛利は猿に任せておくがよい。猿の手柄を奪うような真似は許さぬ」
「……は、い……」

ようやく返事を返した光秀の目は泣きすぎて真っ赤だ。

「わ、わたしは…何も考えずに、恐ろしいことを…。子に害を加えよう、などと…決して…っ」
「女子としての人生が短いのだから気づかぬのも仕方あるまい。だが、二度はないぞ」
「も…申し訳、ありま…」

はらはらと涙を流し続ける光秀の手は、いまだ拭えない喪失の恐怖から立ち直れていないらしく小刻みに震えている。
あやすように肩を撫でれば甘えるように凭れてきた。
おそらく無意識だろう。
誰にも頼らず生きてきた光秀にとって、信長の腕は唯一己を預けることができるものになっている証明のようで、信長は抱きしめる腕に力を込める。
そうして光秀が泣き疲れて眠るまで、信長はただ静かに光秀を抱きしめていた。







   ◇◆◇   ◇◆◇







数日を経て、光秀はようやく平静を取り戻した。
己がどれだけ無謀なことをしようとしていたのか今更ながらに気付かされて、しばらくの間落ち込んでいたのだ。
部屋から一歩も外に出ない女主人の様子に家人達は心配したが、主である信長から心配無用と言われてしまえばそれ以上首を突っ込むことはできなかった。
ようやく気分が浮上したのか縁側から庭を眺めている主人を見つけて、家人の誰もが安堵した。
縁側に腰を掛け、どこからか忍び込んできた猫を傍らに咲き誇る花を見ている姿は、誰もが目を奪われるであろう美しさだ。
大切そうに膨らんだ腹部を撫でる姿は慈愛に満ちていて、流石信長公の選んだ方だと感嘆する。
以前のように外に出たいと言い出さなくなったことは不思議ではあるが、これからもっと大きくなる腹を抱えて外出することは家人の誰もが反対だったために敢えて主人に訊ねようと思う者はいなかった。
身分こそ明らかになっていないが、信長の寵愛を一新に受けているこの女主人はその容姿から明智家に縁があるのは明白だ。
織田家家臣の中でも一、二の権勢を誇る明智家の娘との間に生まれた子ならば、織田家を継ぐことすら可能だ。
織田家、明智家にとって重要なこの女主人が賊に狙われる可能性は相当高く、況してやこの美貌ならば人買いだけでなく良からぬことを企む者にも気を付けなくてはいけない。
そのため彼女が外に出たいと言い出さないことは、家人にとっても信長にとっても喜ばしいことなのだ。
おそらく気づいていないのは本人だけ。
武将としては優秀な光秀だが、己の価値だけは本当に見る目がない。
そんな家人の些細な喜びになど勿論気づくこともなく、光秀は縁側で色とりどりの花を眺めている。
外に出ることもなく庭に下りることもない日々は正直退屈だが、ここ最近は身体の変化だろうか眠気がひどく動き回る気にならないので以前ほど気にならない。
こうして庭を眺めていれば、日差しの温かさについうとうとと微睡んでしまうことも少なくない。
風が冷たい日などは侍女が声をかける時もあるが、そうでなければある程度の時間を縁側で過ごすことも珍しくなく、今日もいつものように縁側で友人となった三毛猫と共に午睡の最中だ。
数日ぶりに姿を見せた信長と蘭丸が部屋に入ると、そこでは柱に凭れたまま転寝をしている光秀と、光秀の膝を枕代わりに眠っている2匹の三毛猫の姿だった。

「これは…まぁ、何と微笑ましい」

くすり、と蘭丸が笑う。
城内にいても警戒心を解かない光秀が、こうして部屋に入っても目覚めることがないというのはとても珍しい。
蘭丸が目撃したのはこれで2度目だが、一度目の時はそれでもすぐに動けるように警戒しているように見えた。
今のように無防備な姿は見たことがない。
それだけこの屋敷の居心地が良いのだろうと、自然表情も明るくなる。
だが、信長がやってきたのにこのままというわけにもいかず、だが眠りを妨げるのも何だか悪いような気がして蘭丸が逡巡していると、無言のまま信長が光秀の元へと歩みよっていった。
三毛猫はすぐに気配に気づいたのか、さっと膝を身を翻して庭へと消えていった。
信長はそのまま眠る光秀の肩を揺らす。

「光秀よ」
「ん…」
「そのまま寝ると身体を冷やす、ぞ」
「信長様…」

ぼんやりと開いた眼差しが信長を認め、ふわりと微笑む。
傍らに膝をついた信長の腕にすり、とすり寄るのは無意識か。

「夢を、見ておりました」
「夢、か」
「はい。信長様とこの子と蘭丸と私で花見をしておりました。蘭丸が子供の手を引いて、皆で笑っておりました」
「そうか。それは良い夢、ぞ」
「えぇ」

ふふ、と笑う姿は母の慈愛に満ちていた。
いずれ来るであろう未来を夢見たと話す姿は幸せそのもので、その中に当然のように自分を入れてくれるのが嬉しく、蘭丸は胸が温かくなるのを感じた。
おそらく今の光秀は自分の存在に気付いていないだろう。
この屋敷に来るのも随分と久しぶりで、だから母の表情をした光秀を見るのはこれが初めてと言っても良い。
城にいた頃とは明らかに違う、全てを委ねきった光秀の姿はとても幸せそうだ。
何かが変わったのだろう、それも良い方向へ。
生まれてくる子と4人で花見。
それは何と楽しいことだろうか。
このままうまく行けば、数年も経たない内に乱世は終息するだろう。他でもない信長の手によって。
生まれてくる子には戦のない平和な人生を送ってもらいたい。
蘭丸はそう思った。


  • 11.04.21