何かがおかしい。
屋敷に一歩入った瞬間に感じた違和感に信長は眉を顰めた。
一見するだけでは屋敷内に変化はない。
だが歴戦の将でありほんの些細な空気の変化ですら感じ取れる信長にとって、それは明らかにいつもと違っていた。
たとえば塵一つない三和土に僅かだが土埃が残っているとか、門番の動きが若干鈍いこととか、柱に見える小さな傷などだ。
何かがあったのだろう。
おそらくは侵入者。
だが門番はおろか家人や女中ですらその件に関して口をつぐんでいるところを見ると、賊は討ち取ったか撤退させたかのどちらなのだろうか。
血の匂いがしないところを見ると後者かもしれない。
この屋敷は万全の警備体制を施しておいたはずだ。
信長の別邸だということは知られていないから、おそらくは物盗りの類か。
どちらにしろ警備は十分ではなかったということだろう。
頭の中で門番及び家人の処分を検討しながら女中が案内するままに奥の間へ進む。
光秀が最も目をかけている熙子という侍女の足取りは普段と変わらない。
心配するほどではないのかと思いながら部屋に入った信長は、普段より固い表情をしている光秀の姿に己の考えを改めた。
信長に向かって恭しく一礼する姿はまさに淑女の鑑。
だが、その瞳は武人のそれだ。
信長が気に入った、己の信念を貫く意志を湛えた瞳だった。
「光秀よ」
「はい」
「誰ぞ、訪ねてきたか」
それは質問ではなく確認。
そして光秀も隠すつもりはないのだろう。あっさりと頷いた。
「はい。数刻ほど前に、元親殿がお見えになられました」
「…蝙蝠、か」
長宗我部元親は油断のならない男だ。
信長に服従したとは言え、信長に真実忠節を誓っているわけでもなく、その身に常に鋭い爪を隠している。
今頃は毛利討伐に赴いているはずだというのに、とんだ寄り道をしていたらしい。
どうやってこの屋敷を突き止めたのかは知らないが、やはり油断のならない人物だ。
反骨心のある男は嫌いではないが、己の邪魔をするのならば考えを改めなければならない。
「信長様…」
「ならぬ」
みなまで言わせず一刀両断すれば、それでも光秀は食らいついてきた。
「お願いでございます。どうか、私にも中国攻めの下知を」
「ならぬと言っておる」
「戦力が足りないと聞きました。明智軍が加われば、多少なりとも毛利を揺るがすことになりましょう」
「猿一人で事は足りよう、ぞ」
「信長様!」
「くどいぞ、光秀。貴様は、子を宿した身で馬に乗り刀を振るうと申すか。戯けものが」
「…っ!」
光秀の身体が細いために外見からはそうと気づきにくいが、光秀の腹部は僅かだがわかる者にはそうであると気づかれるほどには膨らみ始めている。
戦に赴く衣装に着替えれば多少は誤魔化せるかもしれないが、それでも己が身重であることは揺るぎようのない事実だ。
戦闘に加わることはおろか馬に乗って移動することすら無理な身体である。
子が流れることは勿論、母体である光秀の身すら危うくなる危険性が高いというのに、信長が許せるはずないのだ。
普段は誰よりも聡明なくせに、その程度のことがわからない光秀に苛立ちを隠せない。
元から己の命を軽く見ている光秀だが、それは己が母となることが決まっても改まることはないのか。
信長は眼光鋭く光秀を睨んだ。
「それとも、その腹にいる赤子、今すぐこの場で流してみせるか」
「信長様…何を…」
「戦場にて子が流れれば戦うことなどできまい。身重の女を戦場に出したとして兵の士気も落ちよう。それならばいっそ流してしまえば良い」
肩をきつく掴まれ上体を起こされた。
そのまま光秀を床に押し付けると、ようやく膨らみ始めた腹部に触れる。
まだほんの小さな膨らみ。
それでもその中で息づいているのは紛れもない信長の子なのだ。
少しずつ大きくなっていく腹を毎日見てきた。
愛しそうに己の腹部を撫でる光秀の姿に、生まれてくる子を楽しみにするようになったのはいつからか。
初めての子でもないのに、気が付けば腹の子のことばかり考えている自分に苦笑したのも少なくない。
それなのに母親である光秀がその命を捨てようというのが許せなかった。
「信…」
「貴様の腹にいるのは、この信長の子、ぞ。ならば流すのも信長が行ってやるのが道理」
ぐ、と腹に触れている手に力を入れれば光秀の顔色が変わった。
「や…っ、お止めください! 私の子です!」
「だが、貴様は望んだのであろう。戦に出たいと」
「私はただ…!」
「ならば腹の中をすっきりさせてから出陣すればよい」
ひたりと見据えた瞳に光秀が怯えたように顔をゆがませた。
暴れる身体を床に押し付け、片手で光秀の両手を拘束する。
細い身体だ。組み敷くのも動きを抑えるのも信長にとっては大した労力にならない。
恐怖に震える光秀に、不思議と憐憫の情は感じなかった。
見る間に溢れてくる涙は、一体何に対してのものか。
胎動を感じるにはまだ早い腹部を軽く撫で、そして信長は拳を握りしめた。
「いやあぁぁぁぁ!!」
光秀の悲鳴が響いた。
- 11.04.18