明智光秀という人物の噂は、遠い土佐にも聞こえてきた。
信長が認めた逸材。
鉄砲の腕は遠く離れた蝶すら射落とすほど正確で、明晰な頭脳は打てば響くように返り、戦場で剣を振るえば1000の敵が地に伏せると。
それなのに姿は天女の如く優美。
信長が寵愛して片時も傍を離さないことから、身体で主君を籠絡したのだという話も聞こえてくるが、不思議なことに織田家家中から批判の声は驚くほど少ない。
天女のようでありながら鬼神の如き働き。
その反する噂に興味があった。
そうして初めて会った彼は、正に噂と何一つ違わない――むしろ噂以上に麗しい存在として元親の目に映った。
万時控えめでありながら己の信念は決して曲げず、相手が信長であろうとも意見を曲げない姿は好ましく見える反面、随分と生きづらい人間だと思ったものだ。
驚く程の艶と美を纏いながら本人はそれに無自覚で、彼の笑顔一つに動揺する武将のあまりの多さが可笑しかった。
成程この美貌ならば信長とて落ちるだろう。
確かにこの美貌ならば男であったとしても手を出したくなる気持ちはわかる。
古の物語に記されている天女とは、このような人物だったのではないかと思うほどの美しさなのだ。
しかもこの戦乱の世に生きているとは思えないほどに世の中の汚いことを知らない。
その無垢な心と身体を自分の色に染め上げるのは随分と楽しいだろう。
そんな下心がなかったかと問われれば、おそらくほとんどの武将が否定できないはずだ。
それほど光秀は男の心を騒がせるものを持っていた。
話をしてみればその高潔な人柄に好感を抱き、色恋を抜きにしても親密な友好関係を築いていきたいと思うのだが、一目見ただけでは親しくなるというよりも手に入れたいと思わせてしまうのだ。
稀有な存在だ。本人にとっては喜ばしいことではないだろう。
そんな光秀と思いもよらず深い親交をつなぐことになった切欠が何だったのか、元親は覚えていない。
外見に惚れたのは事実。だがそれ以上に中身が魅力的だったことは嬉しい誤算だった。
利害抜きに友好を深めるようになり、そうして光秀にとって一番近しい友人だと自負できる程には親しくなっていた。
そうして抱いた疑問。
嫡男でありながら戦を厭い、家臣から「姫若子」と揶揄されながらも女の衣装を身に纏っていた元親だからわかる、ほんの些細な違和感。
光秀は男にしてはあまりにも線が細いのだ。
肩も首も、そして剣を握る手ですら男のものにしては細く白い。
これだけの視線に晒されていながらも気取らせないのは流石だと思ったが、だが見る者が見ればわかる程度のものだ。
織田家の連中は気づいていない者がほとんどのようだが、元親がすぐに気づいたように、もしかしたら他にも知っている者はいるのかもしれない。
それでもいい、と思った。
男だから女だからというだけで人を蔑む理由にはならない。
信長がわかっていて己の傍に置いている以上、誰が咎めるような内容でもない。
元親は光秀を認めているから親しくなりたいと思ったのであり、男だから認めたわけではないのだ。
友人だからと言って何もかも告げなければならないわけでもあるまい。
ただ、もったいないとは思った。
これだけの美形だ。着飾れば息を呑むほどに美しいだろう。
尤もそれを選ぶかどうかは光秀の自由だが。
元親にとって光秀は良き友人。
それで十分だった。
だからこそ目の前の『美女』を前に元親は満足そうに笑う。
紺地に白と紫の小花をあしらった小袖は羽織る相手を選ぶ豪奢な柄だ。
それを難なく着こなしている様は見事で、化粧一つ施していないくせに輝くほどの美しさは感嘆に値する。
やはり、自分の目に狂いはなかった。
「あぁ、いいな。そういう恰好の方がお前には似合う。凄絶に――美しい」
久々の再会での第一声がそうなったのは、元親にとっては当然のことだった。
◇◆◇ ◇◆◇
「元親殿…」
突然の襲撃者――もとい訪問者に驚いたのは光秀の方だ。
何しろこの屋敷は信長が厳重に警戒しており、織田家家中の誰もこの屋敷に光秀がいることを知らないのだ。
それをいきなり襲撃。
しかも信長の私邸である。即刻で斬られても文句は言えない。
光秀は盛大にあきれ返ったが、そんな光秀の前であっけらかんとしている元親に何と言えば良いのか咄嗟に言葉が出てこなかった。
まず、最大の問題である光秀の姿について元親は何も言わない。否――言った。最高の賛辞を。
何て恰好をしているのだと言われなかったということは、もしかして元親には正体がばれていたのだろうかと顔色を変える光秀に、元親はにやりと笑った。
「他の連中は気づいていない。安心するんだな」
「や…あの、でもなぜ元親殿は…」
気づいたのだと言いたかったが、言いよどむ光秀の言葉の続きを元親は汲んでくれたらしい。
侍女が持ってきた茶を飲みながらあっさりと答える。
「どれだけ木の葉の中に隠れようと花は、花。愛でる者は気がつく」
「はぁ…」
相変わらず光秀は己が花――それも極上の天上花だということに気が付いていないらしい。
まぁ、それも光秀らしいと言えばそれまでだ。
武勇に秀で国内外でも名が高いくせに、決して驕りもせず謙虚な性格のまま。
だからこそ織田家でこれほどまで出世したのだろうし、こうして変わらず信長の寵愛を得ているのだ。
それにしても、と光秀は思う。
この美貌ゆえに多くの男から言い寄られたであろう光秀を、こうもあっさり落としてしまう信長という男は凄い。
何しろ光秀は一見押しに弱く流されてしまうように見られがちだが、その芯は強くよほどのことでは折れはしない。
朝倉家を出た理由は将軍・足利義昭を上洛させるためだと言われているが、それは表向きのものだ。
勿論それも理由の1つだが、最大の原因は主君である朝倉義景が光秀に手を出そうとしたからである。
権力にものを言わせて手籠めにしようとした義景を見限って出奔したという話は公然の秘密として囁かれてるものであるし、元親はその真相を他でもない光秀自身から聞いている。
そんな光秀を手籠めにした挙句、こうして独占しているのだ。
始まりこそは光秀の意にそぐわぬ形であろうと(光秀が望んで信長に身を任せるとは思えない)、今こうして信長の庇護を受けているのは紛れもない事実。
光秀ならばたとえ相手が信長だろうと拒絶するべきことはしっかりと拒絶するだろうし、逆に言えば今の状況を甘んじて受けているという時点で光秀が信長を受け入れている証明でもある。
ただの暴君では、個人としての光秀は勿論、武将としての光秀すら手に入れることはできないだろう。
まぁ、姿を消した当初は監禁でもされているのではないかと思ったのだが、若干痩せてしまったこと以上に変化は見られないし、むしろ表情は明るいのだから問題はなさそうだ。
「それにしても、久しぶりに会えて安心しました」
そう言って微笑む姿は以前と同じ。
だが、次いで発せられた言葉に元親はやはりと苦笑した。
「みなさん、変わりはないでしょうか。戦などは起きていないようなのですが…」
「…やはり、貴様は何も知らぬ、か」
「え…?」
「織田と毛利の戦は、ますます苛烈を極めているぞ」
「そんな…信長様はそのようなこと一言も…」
どうやら信長の寵愛は、元親が考えているよりもずっと深いらしい。
近隣の大名が同盟を組んで信長包囲網を打ち出しているのは有名な話だ。
武田・上杉が代替わりをして多少規模は小さくなったものの、それでも織田家に対する他国の評判は最悪で、事あるごとに小競り合いが起きているのも珍しくなく、特に毛利とは雌雄を決する大規模な戦になっている。
勿論織田が有利であることに変わりはないが、多くの武将が戦に出陣している状況を光秀が知らないということは、それだけこの屋敷や周辺に対して箝口令を強いているからだろう。
そこまでして信長は光秀を戦に関わらせたくないのだ。
それが単なる悋気なのか、それとも…。
元親は膝に置かれていた光秀の手を取る。
白く、綺麗な手だ。
この手が剣を取り敵を屠っていくとは想像もできない。
だが、美しいだけでなく血に濡れたこの手が、元親は好ましい。
手折っただけで萎れてしまう花など興味はない。
するりと指を絡める。
驚いたように手を引こうとする光秀に、だが元親はさせまいと逆に己の方へと引き寄せた。
細い指。爪の先まで美しい。
「あ…あの…元親殿…」
「俺は明日、中国へ向けて出立する」
「え?」
「毛利の抵抗が存外強くてな。猿一人では手が余るらしい」
「そんな…」
光秀の顔色が変わる。
どうやら予想通り信長は現在の状況を光秀には何一つ与えていなかったらしい。
大切な花を己一人で囲いたい気持ちはわかる。
だが、この花はたった一人に愛でられるだけのか弱いものではない。
引き寄せた指に口づける。
ひたりと据えられた視線は光秀の瞳から離れない。
「さあ、お前はどうする?」
- 11.03.05