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雪・月・華 16


日々は穏やかに過ぎて行った。
家康の世話係を解任された光秀は、周囲の動揺を余所に安土城から少し離れた屋敷に留め置かれた。
信長が直々に用意された屋敷は決して広いとは言えないが、その分警備の目が隅々まで行き届いており蟻の子一匹入る隙もない。
光秀の部屋はその屋敷の中で最も庭の眺めの良い場所だ。
綺麗に刈りそろえられた常緑樹、邸内の配置を考えどの部屋からも美しく見られるように並べられた庭石。
庭の一角に作られた池は大きくはないが数匹の鯉が泳いでおり、時折猪威しの音が静かな庭に小気味よく響く。
現在は桜が咲き誇り庭の片隅では水仙がひっそりと咲いている。
そしてその横にひっそりと植えられている桔梗の姿。
さして珍しくもない花は、すべてを計算され尽くして作られただろうこの庭には些か不釣り合いだ。
だがそれは光秀がこの屋敷に移された日に植えられたものであり、信長が手づから摘んできてくれたものだった。
庭に植えるがよいと手渡されたそれは、信長にしては珍しく手折った花ではなく根が残された状態で。
信長の屋敷に明智の家紋でもある桔梗を根付かせるということは、おそらく信長の傍で光秀が生きていくようにという示唆なのかもしれない。

この屋敷に移されてからひと月。
政務の全てから手を引かされ半ば隠居のような形で連れてこられたこの屋敷は、当初は綺麗だけれどまるで自分を逃がさない檻のようにも思えたものだ。
だがそれが間違いだということはほんの数日で証明された。
毛利攻めで多忙の中、それでも1日と置かずに様子を見に来る信長。
どうしても時間が取れない時は蘭丸が話し相手として姿を見せるのも珍しくない。
そしてその時に必ず渡されるいくつかの品。
それは悪阻で食欲の落ちた光秀が少しでも何か口に入れることができるようにとの配慮からで、京で有名な店の葛きりや上品な甘さの甘味だったりした。
その中に必ず用意されている小さな箱。
小さな衣服や玩具は光秀が身の内で育んでいる新しい命のためなのは明白で、それに気づいてから光秀はようやく信長が自分をこの屋敷に移させた理由に気づいた。
妊娠初期の今ならば光秀の外見は普段と変わらない。
だが時間が経てばどうだろう。
光秀の中に芽生えた命は日々成長していく。
母である光秀の外見が変化するのは確実で、そうなれば光秀が女性であることが露呈するのは必至だ。
そうなればもう二度と武働きはできない。
それならば外見に変化のないうちに光秀を余人の目の届かない場所にやってしまえば問題は解決だ。
表向きは家康への接待役で仕出かした粗相の責任を取るという形での蟄居。
信長の怒りを買った光秀を正面切って訪問する武将はいないだろうし、仮に訪問しようとしても安土城内はおろか光秀の領地にすらいないのだ。
更にはこの屋敷の警備。
規模こそ小さいものの塀は高く死角が少ない。
一見して高貴な身分の人間が住むだろうと思われる外観は、上品ではあるが質素で派手好みの信長が持つ別宅らしくない。
その証明でもあるかのように、光秀はこの屋敷の存在すら知らなかった。
どうやら蘭丸も同様だったらしい。
側近中の側近である2人がそんな状況なのだ。
他の武将がここを知っているとも思えない。

「ここで子を産み、その後貴様が望むならば再び戻ってくればよい」

突然の懐妊に動揺していた光秀の気持ちを落ち着かせるために、信長はそう言ってこの屋敷を用意してくれた。
第六天魔王などと呼ばれているのに、信長は光秀には本当に甘いのだ。
女は子を産むための道具、子供は政略の道具。
そう思っている武将が少なくないことを光秀は知っている。
他でもない信長自身も己の娘を政略のためだけに家康の息子へ嫁がせたし、同盟を結ぶために信玄の娘を息子と婚約させたこともある。
だがその反面、信長は子煩悩と呼べるほど子供に対して甘いのも事実だ。
落ち着いて考えればすぐにわかる。
ここまでしてくれる信長が光秀の子を疎んじるわけがないのだ。

(きっと大丈夫――)

彼は父とは違うのだ。
そして自分も母とは違う。
何よりも、ここには八重がいない。

だから大丈夫。

光秀は未だ膨らむ様子のない腹部をそっと撫でる。



(この子は私と同じにはならない)



生まれてきた子が己と同じ運命をたどる。
それが、光秀が最も憂慮していたことだった。
光秀の半生は決して順風なものではない。
過剰なまでの母と乳母の愛に押しつぶされるような形で育った。
幼くして両親を失い、己の才覚のみで生きてきたのだ。
況してや光秀の血筋は異端としか呼べないもので、そんな自分の血を受けて生まれてきた子が幸せになれるかというのが唯一の気がかりだったのだ。
だが信長がこれほど気にかけてくれるのだ。

おそらく大丈夫だろうと、光秀の中で確信があった。
ふと、小さな衣擦れの音と共に凛とした涼やかな声が襖の向こうから聞こえてきた。

「御方様、公がお見えになりました」
「わかりました」

侍女の言葉に、光秀は小さく了承の意を返す。
御方様――貴人の妻に向ける呼称。
この屋敷の者は光秀をそう呼ぶ。まるでその呼び名以外に光秀の名を知らないとでも言うかのように。
選りすぐりの女中なのだろう。
詮索されることに慣れていない光秀にとってはそれがありがたかった。

少しして聞こえてくる足音に、光秀は自然と口元をほころばせた。





   ◇◆◇   ◇◆◇





とはいえ、生まれた時から武士の子として育てられた光秀である。
たとえ子を宿したところで本来の性格が変わるわけでもなく、悪阻が多少良くなれば外に出ようとして家人に止められることも増えていった。
勿論信長の厳命を受けている家人にとっては、光秀が簡単に外出してしまいそうになるたびに寿命が縮む思いで引き止めるのに必死だ。
特に今は織田家に恨みを持つ浪人の姿も多く、信長のお膝元の安土の町とて安全とは言い切れない。
武将ですら用心のために単独行動を控えているというのに、この無防備さには驚愕を通り越して頭痛すらしてくる。
光秀は女性。しかも信長の子を宿しているとなれば、暴漢のみならず敵対勢力の武将にとっても狙われること間違いない。
況してや絶世の美姫と呼んでも遜色ない美貌の持ち主なのだ。
信長に恨みを持つ者以外でも不埒な思惑の下で良からぬ事態にならないとも限らない。
彼らが引き止めるのも当然だろう。
更に彼らは光秀の素性を知らない。
信長が素性を知らせていないために、明智光秀と良く似た女性だという認識しかないのだ。
光秀が信長の勘気を被って蟄居させられたという、信長が意図的に流した噂のみしか知らない家人にしてみれば、この信長の子を宿した女性が明智十兵衛光秀だと当然思うわけがない。
密かに憶測が飛び交った結果、絶世の美貌を持つこの屋敷の女主人は光秀に縁の姫君で、いつ何時かは不明だがその美貌で信長に見初められたのだろうという意見で落ち着いた。
だからこそ家人は件の女主人が明智光秀その人であることなど知るはずもない。
勿論剣の腕はそのへんの武将ですら歯が立たないほどだということも当然知らない。
尤も知ったところで妊婦に刀を振らせるわけにはいかないので、たとえ事実を知ったところで家人の態度が改まるとは思えなかったが。
そして最も困ったのは、この女主人が大人しい外見と低い物腰でありながら、なかなかに頑固だということだ。
何度止めても外出しようとする。
侍女が平伏して懇願すれば思い留まるものの、それでも侍女や家人の目を盗んで外に出ようとする。
何度止めても無駄なのだ。
これは無礼を覚悟で信長直々に進言してもらうしかないだろうと、図らずとも安土城にいる武将達と同じ意見を抱き始めた頃――その事件は起きた。





慌ただしい気配が屋敷を包んでいる。
まだそれほど強くはないが、それでもどこか緊迫した空気が伝わってきて、光秀は読んでいた書物から視線を上げた。
外出が許されず暇を持て余す手段の1つとして用意された書物は、光秀が驚くほどの量があった。
以前読んだことがあるものも多かったが、時間を潰すものがそれしかないので目を通していただけで、それほど集中していたわけではなかったため気づくのが早かったのだ。

「何事です」

常に控えているという忍びに問いかけるものの、応えはない。
珍しいこともあるものだと思いながら庭に続く障子を開けてみれば、かすかにだが声が聞こえてくる。
何を言っているかまではさすがにわからないが、それでも押し問答を行っているようだということだけは理解できた。
しつこい物売りでもいるのだろうかと思ったが、それならば厨を預かる年配の侍女が応対するもだから、やってきた人物は不審者だということなのだろう。
す、と視線を険しくして足を進めようとして――小走りに近づいてくる気配に気づいた。

「失礼いたします」

珍しく光秀の返答を待たないまま勢いよく襖が開かれた。
現れたのは光秀の身の回りを世話している侍女だ。

「どうしたのです」
「不審な人物が現れたのです。主に会わせろとそれだけで…。何者かわからぬものですから御方様には避難を…あぁ、もうすぐそこまで来ております」

侍女の言葉通り、先程から感じていた不穏な空気は剣戟という形を成して光秀へと近づいてきていた。
殺気は感じない。けれどもこのような形で押し込んでくる人物に好意的な感情を持てるかと言われれば、答えは否だ。

「熙子は下がっていなさい。私が行きます」
「なりませぬ、御方様!」

光秀の言葉に、熙子と呼ばれた侍女は驚いたように顔を上げた。
この屋敷に連れてこられた際に、武器は不要だと信長に剣を取り上げられた。
そのため今の光秀は丸腰なのだ。
そして動きにくい女物の着物は歩幅を制限させてしまうため、どう考えても戦闘には不向き。
主を守るべき侍女がその言葉に頷けないのも当然だ。
仕えて間もない期間だが、この屋敷の家人達は心優しい女主人のことを大好きになっていたのだから。

「どうかお逃げくださいませ、御方様!」

緊迫した空気と金属が打ち合う音が響く中で、年若い侍女が光秀の手を引っ張り光秀は躊躇する。
このような状況で逃げたことなどない。
だがこの場にいる誰もが光秀が応戦することを良しとせず、涙を浮かべて懇願する侍女の瞳にどうしたら良いのかと視線を彷徨わせた。
そして気づく違和感。
これだけの騒動なのに、血の匂いがしないのだ。
匂いに敏感な今の時期だからこそ素早く感じた異変に光秀の足は止まる。
襲撃されたというには被害が少なすぎるのだ。
光秀に用がある相手ならば、他の家人は皆殺しにされてもおかしくない。
それなのに、この襲撃者は家人に傷一つつけていないようだ。
おかしいと思った。
悪意のある人物ならこのような手段は取らないはずだ。

そう思った刹那――。



「やはりここにいたのか」



どこか気怠げな声に背後を振り返れば、そこにいたのは目の覚めるような美丈夫。
鮮やかな銀の髪、片袖をはだけた傾いた格好。
その手には刀ではなく繊細な彫刻の施された三味線を持っている。
知らないわけがなかった。
数年前から交友を深めていた彼と瀬戸内で共闘したのはそれほど前のことではない。



「あぁ、いいな。そういう恰好の方がお前には似合う。凄絶に――美しい」



そう言って小袖姿の光秀を見て元親は笑ったー―至極楽しそうに。


  • 11.01.26