「懐妊にございます」
告げられた言葉の衝撃を何と言えば良いだろう。
瞬間くらり、とふらついた身体を慌てて支えたのは蘭丸だ。
「大丈夫ですか? どうぞ横におなりください。大事なお身体です」
蘭丸の表情は明るい。
主君である信長の血を継ぐ子が新たに誕生するのだ。
家臣として嬉しくない者がいるだろうか。
それも母親は光秀となれば、容姿・資質共に優れた子が生まれるのは明白。
信長の跡取りは信忠と決まっているが、優秀な子が増えるのは織田家にとって喜ばしいことだ。
特に信長は光秀に対して濃姫や他の側室とは明らかに違う執着を見せている。
その彼女が信長の子を宿したと聞けばどれだけ喜ぶだろうか。
そう思えば自然と笑顔になってしまうのも無理はない。
そして若干浮かれてしまうのも当然で、だからこそ蘭丸は光秀の変化に気づいていないようだった。
布団から半身を起して蘭丸にその背を支えられている光秀の表情は浮かない。
それどころか伏せられた視線は不安の色を一杯に湛えている。
どう見ても愛する男性の子を宿した喜びを実感しているようには見えないのだ。
それもそのはずである。
多くの女性にとっては喜ばしいことであるはずの懐妊という事実も、光秀にとっては吉事とはなりえなかった。
何しろ光秀は己の性別を偽っているのだ。
知っているのは信長と蘭丸、そして典医である目の前の老爺だけで、織田家のほぼ全武将が光秀を男性だと信じている。
子を宿した喜びよりも今後どうするべきか頭を悩ませてしまうのも無理はない。
光秀は信じられないように己の腹部に手を当てる。
まだ何も変化はない。
だが、いずれこの腹も子が成長するにつれて大きくなるだろう。
そうなった時に隠すことは難しい。
光秀の服装は日頃から重装備だが、それは女性特有の華奢な体格を誤魔化すためのものだ。
膨れた腹を隠すことなどできるはずがない。
況してや主君の子を宿した女を戦場に立たせるだろうかと考えれば、その答えも否である。
武家では女は不浄のものとされている。
特に妊婦は触れれば戦に負けると言われているほどであり、そうなれば光秀が戦場はおろか政務から遠ざけられることも考えられるだろう。
むしろ古参の家臣などからそういう声は当然として上がるはずだ。
彼らは濃姫が戦に参戦していることすら気に入らないのだから。
そうなれば、自分はどうなるのだろう。
信長の側室として屋敷の奥に押し込められるのだろうか。
それとも同僚を謀っていた罪で追放でもされるのだろうか。
彼らが優しくしてくれるからこそ、その罪が露呈されることが恐ろしくてたまらない。
情緒不安定になっているのだろう、思わずじわりと涙が浮かんできそうで光秀はきつく拳を握りしめた。
己に子ができるなど、考えたことがなかった。
そもそも、自分が誰かと情を通じることがあるとも思っていなかったのだ。
こんなときどうしたらいいのだろう。
相談するべき人物を、光秀は知らない。
「明智殿?」
様子が可笑しい光秀に気づいたのだろう。
典医が光秀の顔を覗き込むように訊ねた。
懐妊を告げたと同時に瞳に宿った色を典医は気づいていた。
それがあまりよろしくないものであろうことも。
あの怪我が元で光秀と接する機会が多かった典医は、光秀が思いつめやすい性質であることを知っている。
そして己の存在を過小評価しすぎているということも。
何となく不安を感じて声をかけたのだが伏せられた瞳が再び典医に向けられた時、彼は己の判断が間違っていないことを実感した。
縋るように向けられた視線。
そのぬばたまの瞳はうっすらと膜が張っていて。
「子は…産まなければいけないのでしょうか」
そう問いかけた光秀の心情を如実に現していた。
◇◆◇ ◇◆◇
光秀の言葉は一瞬でその場の空気を凍らせた。
救いは信長がいなかったことか。
もしこの場に信長がいれば空気は一気に氷点下まで下がったことは間違いない。
「光秀殿…?」
情に篤く誰よりも優しい光秀から出たとは信じられない台詞である。
目を瞠って光秀を見れば、彼女は途方に暮れた子供のような顔をしており、ようやく蘭丸は自分が彼女の心境を考えていないことに気づいた。
妙齢の女性。しかも絶世の美女である光秀だが、今の表情は道に迷った幼子のようだ。
肌は蒼白と言ってよいほど白く、きつく握られた拳は力が入りすぎて形の良い爪が皮膚に食い込んでいる。
初めての懐妊に戸惑っているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
戸惑いというよりは不安、そして恐怖を覗かせた光秀の表情は蘭丸との温度差があまりにも大きすぎた。
「明智殿は、御子はいりませぬか?」
典医の言葉に光秀がゆっくりと首を振る。
蘭丸も光秀の言葉を典医と同じように解釈した。
だがそうではないのだろう。少なくとも光秀にとってはそういう意味ではなかったらしい。
「では、信長様をお厭いか?」
またもや首が横に振られる。
確かに最初こそ望まぬ形だったにせよ、ここ最近の2人は見ているだけで微笑ましくなってしまうほどの睦まじさだった。
それが演技でないことを知り、密かに安堵する。
己の心の内情をどう表現すればいいかわからないのだろう。
光秀はゆっくりと、たどたどしいと思えるほどの稚拙さで言葉を紡いでいく。
「違うのです。いらないとか嫌いとかそうではなくて…」
「そうではなければ、何と」
「わ…からなくて…」
明朗で少ない言葉ながらに核心をついてくる光秀から紡がれるとは思えないほど要領を得ない言葉。
だが、それがそのまま光秀の心の混乱を現しているようで、典医は静かに耳を傾けている。
蘭丸はそこにいることしかできない。
まだ人生経験も少なく、そして絶対的に信長の味方をしてしまう蘭丸では、光秀に答えを与えることができないのだ。
「わからないとは?」
「子を育てるとはどういうことか…母になるとはどういうことか…何もかもが不安で…」
「誰でも初めはそうでございますよ」
「ですが、私は武士です。戦場にて武功を立てることが信長様に対する忠義の証。…なのにこんな形で…」
「次代へ血脈を遺すことも、女子にとって大切な使命にございます」
「女子の使命など、私には無縁なことです」
「そのようなことはありません。どれほど武勇に優れたからとて、明智殿は女子にございます。いずれ妻となり母となるのが自然の流れ」
固く握りしめられていた手を、典医の皺だらけの手がそっと包み込む。
白く細い指はやはり女性の持つもので、武人でもない典医の手よりも小さく華奢だ。
強張っていく指を開いてみれば、うっすらと血が滲んだ爪の跡がある。
規格外の治癒能力を持つ光秀だからすぐに消えてしまうだろうが、それでもやはり痛々しい。
「子は授かりものと申します。言葉通り『案ずるよりも産むが易し』ではございませんか」
こういう時に培ってきた年数というのは効果があるのだろう。
医術に携わる人間としての言葉の重みもあるのかもしれない。
勿論本質を解決するだけのものではないのだが、少なくとも光秀にとって一筋の光明になることは確かだったようだ。
恐怖に彩られていた瞳にほんの少しだけ安堵の色が浮かんだのを見て、典医は内心で胸を撫で下ろした。
そして視線を静かに移動させる。
「ということでございます。信長様」
典医の言葉で反射的に視線を動かしたその先――。
感情の一切見えない信長の姿があった。
- 11.01.21