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雪・月・華 14


織田家でも随一の武勇を誇り常に前線で戦う光秀の突然の戦線離脱に、城内は一時騒然となったが不思議と反対意見は少なかった。
その原因に過日の光秀襲撃事件があることは間違いない。
血に濡れた瀕死の状態で安土城に運ばれてきた光秀の姿は、多くの武将にとってまだ新しい記憶だ。
九死に一生を得て奇跡的に回復することができた光秀が、碌に療養もせずに城下へ降りていく姿を好ましく思っていなかった武将の中には、信長が下したこの判断に内心で胸を撫で下ろしていた者も少なくなかった。
事情を知らない一部の武将達の中には光秀が信長の勘気を被ったのだと揶揄する者もいたが、生憎信長に仕えるほとんどの武将はそのような言葉を信じる者はいない。
誰が何と言っても大丈夫の一点張りで療養をしなかった光秀だ。
光秀を疎んでのことではなく何度言っても療養しようとしなかった光秀への強引な措置だと捉えていた。
事実多くの武将達は光秀にもう少し療養期間を与えるべきだと、信長に直訴していた者も多かったのだ。
そう思われても不思議はない。
むしろようやく聞き入れてくれたと安堵している者ばかりだったのが、光秀が織田家家中でどのように思われているかが明白だ。
そしてその結果、光秀の部屋の前には思いもよらぬ行列が作られた。
城下の屋敷に戻ることも許されず、況してや領内に戻るのなどもってのほかと言わんばかりに安土城内の一室に押し込められている光秀の元に、見舞いと称して武将が押し寄せるのも当然である。
過日の傷が癒えていないのだと誤解しながら訪れてくる武将達は違うという光秀の言葉には揃って耳を貸さず、土産やら見舞いやら暇つぶしの書物やらを光秀に押し付けて帰っていくのだ。
そんな武将が光秀の部屋の前に列を作っている姿は過日の見舞い騒ぎを彷彿とさせるものだったが、前回と違い今回は信長が咎めなかったために光秀の心労は今回の方がはるかに高い。
申し訳ないと思うものの、押しに弱いため断ることができないのだ。
そうして増えていく見舞い品はいつしか光秀の部屋を圧迫していった。
光秀は生来物に執着するということがない。
そのため安土城内に用意されている光秀の部屋には調度品の類は一切置かれておらず、見かねた蘭丸が必要最低限のものこそ用意した程度で、室内を飾る掛け軸も装飾品もない部屋は正に殺風景と呼ぶにふさわしい有様であった。
だからなのだろう、最初は珍しい菓子などを手に見舞いに訪れた武将が、このような寒々しい部屋では傷の治りも遅くなるだろうと勝手に解釈をして、その数日後には流行の絵師に描かせたという掛け軸や屏風などを手に再び見舞いにやってくるのだ。
始まりは秀吉だった。
派手好きの秀吉は前回の来訪の時にも感じていた光秀の質素と呼べる室内に我慢ができなかったらしく、狩野派の絵師とやらに描かせた掛け軸を持ってきた。
それを見た家康が、では気分が良くなるようにと香炉を用意したのだ。
そうすると今度は良いものがあったからと他の武将が香や花などを持ってくる。
光秀が固辞しようとしても、押し切って置いていかれてしまうために品物は増える一方だ。
話を聞きつけて信長がやってきた時には、最早最初の面影などなくなってしまうほどに室内は贈り物が溢れかえっていた。
その中で所在無さそうに佇む光秀の様子が何だかおかしくてつい笑ってしまったものだ。
皆を騙しているようで申し訳ないと小さくなる光秀に、流石に不憫に思ったのか、ようやく信長は1つの任務を与えた。
それは城内のみと行動が限定されるものの、久しぶりに与えられた任務に光秀は嬉々としてそれを了承した。
そうして生き生きとした表情で城内を歩き回る光秀の姿に、老将達が孫を見るような眼差しを向けるのは至極当然のことだった。





   ◇◆◇   ◇◆◇





自由に動けることがこれほど素晴らしいことだったのかと、光秀は久しぶりに歩く城の廊下でしみじみと噛みしめていた。
蟄居という噂まで広まった安土城内。
だがその実は信長の過保護なまでの庇護欲の賜物であり、光秀が信長の勘気を被ったわけではないことは誰もが知っていたため、光秀を取り巻く城内の空気はいつもと変わらず明るかった。
むしろいつも以上に温かったと言えるだろう。

「光秀殿、もうお身体は宜しいのですかな」
「はい。ご迷惑をおかけしてしまい申し訳ありませんでした」
「何々、光秀殿は織田家にはなくてはならない御仁。ゆっくり療養して万全な体調でいていただかないと」

「おや、明智殿ではございませんか。もう起き上がって大丈夫なのですか?」
「はい。皆様にはご心配をおかけしてしまいまして…」
「そのような水臭いこと申しますな。織田家にとって明智殿は大切な御方なのですから」

行く先々でそのような声をかけられることすら嬉しい。
毛利との戦が激化していく中、それまで前線で戦っていた光秀が戦力から外されたことに対して批判する声はない。
登城するほとんどの武将は光秀が負傷した姿を目撃しているからか、光秀の姿を見かけた武将からは好意的な視線を向けられることがほとんどで、こうして光秀の身を案じる言葉をかけられることも珍しくなかった。
決して人付き合いが得意というわけではない光秀だが、己を身を案じてくれる言葉は素直に嬉しく、滅多に見せない笑顔を見せて応対するものだから光秀の周囲は常に誰かの姿があった。

職場復帰した光秀に最初に与えられた任務は、家康への接待だった。
同盟を結んでいるとは言え東の勢力を押さえる徳川家は、信長にとって単なる部下の1人ではない。
下手をすれば織田家にとって大きな脅威となるだけの勢力を持つ家康を一家臣と同等の扱いをするわけにはいかず、そのため久々に招かれた家康をもてなすために最高の贅を凝らした宴が催されることになっていた。
その中でも光秀が与えられた任務は重大だ。
だが気配りに関して織田家随一と言われる光秀である。
そんな重役もむしろ嬉々とした様子でこなしている姿はどこか頼もしい。
それでも光秀の顔色は少々悪いのだが、それに気づく人は生憎多くなかった。
多くはないが気づく者はいるわけで、光秀に負けず劣らず周囲に気を配る家康には光秀の変調は気づかれていたようだ。

「何やら顔色が優れませぬが…」

城内を案内している時にはすでに気づいていたのだろうが、光秀自身が気づいていないようだったのであえて言葉にするつもりはなかった。
だが、明らかな顔色の変化に流石の家康も黙っていることができず、ついそんな言葉が口をついて出た。
部屋には家康と光秀、そして数名の小姓しかいない。
小声で訊ねたために小姓には聞こえていなかっただろう。
光秀の様子を案じるような声に、光秀は小さく笑って首を振った。

「大丈夫です」

だがやはり顔色は悪い。
光秀自身も朝から軽い眩暈を感じてはいたのだが、仕事に支障が出る程ではなかったために敢えて無視していたのだ。
実はここ数日、光秀の体調はあまり良くなかった。
どこが悪いというわけではないが、倦怠感と嘔吐感が常に付きまとうのだ。
おかげで食欲はかなり落ちている。
信長も蘭丸も勿論光秀の変化に気づいているのだが、無理に食べさせようとすれば戻してしまうのだから強くも言えない。
どうやら匂いがきついものが良くないのだろうということはわかったために、部屋に置かれていた香炉は片づけられ、光秀の食事は胃に負担のかからないものが用意されていた。
それですら残す日々が続いていたからだろうか、元々白かった肌は今は透けるような白さになってしまっているのだが、光秀の容色を損なうものではなかったために気づく人物は少なかったのだ。
だが信長や蘭丸が気づいていたのだから他に気づく者がいても不思議ではなく、接待役として近い距離からその顔を見る家康には気づかれてしまっても無理はない。

「そのようなことより、どうぞこちらをお召し上がりくださいませ」
「これは見事なものよ」

室内に用意された5つの膳を見て家康が目を輝かせた。
遠方からわざわざやってきた家康のためにと料理を用意したのは光秀だ。
本膳から5の膳まで、贅を尽くした献立には山城国の名物である鰻や京で好まれた鱧などを始め、近江名物の鮒鮨など山海の食材を豊富に使われている。
織田家の繁栄を窺わせるには十分なほどの豊富な食材と家康が好むと言われている鯛をふんだんに用いた品は主賓である家康に対する光秀の気遣いに他ならない。
接待役なのだから食事の場に同席するのは当然だったが、家康の好みを凝らした膳から漂う香りがどうにも鼻についてしまう。
無意識のうちに表情が強張ってしまっていたのだろう。
申し訳ないと思いつつ口元を押さえた光秀に家康が不思議そうな顔をする。
何でもないと、気にしないようにと言おうとした光秀は、更にこみ上げてくる不快感に思わず膝をついた。
喉元をせりあがってくる嘔吐感はそれまでに類を見ないほどのもので、平静を保つことができなくなった光秀に流石に家康も顔色を変えた。

「光秀殿?!」

ぐらりと傾いた身体を家康が抱き留め、その拍子に膳が音を立てて倒れた。
慌てたのはその場に控えていた小姓である。
何しろ家康は信長が直々に招待した国賓である。
ほんの些細な粗相も許されない場所で、接待役である光秀が倒れるなどあってはならないことなのだ。
どうしたらよいものかおろおろするばかりの小姓達の前に信長が姿を見せた。

「光秀殿?! しっかりしてくだされ、光秀殿!」

家康の身体に凭れるように蹲ったままの光秀と、その身体を支えている家康の様子に信長の眉が吊り上がる。

「…何事だ」
「おぉ。信長公。光秀殿の様子がおかしいのです」
「光秀よ。何をしておる」

光秀の肩を引けば、乱れた黒髪の間から蒼白な顔が見えた。
きつく閉じた瞳にはじんわりと涙が浮かんでいる。
信長の存在すら気づいていないだろうその様子は明らかにおかしい。
光秀の体調がここ数日思わしくないことは知っていたために、すぐに蘭丸を呼んだ。

「蘭。光秀を連れていけ」
「はっ」

まだ少年で線の細い蘭丸だが既に身長も体格も光秀よりは逞しいため、細身の光秀の身体を支えるくらいは問題ない。
蘭丸は半ば意識を失いそうな光秀の肩を支えながら宴の間を後にした。
信長はその後ろ姿を睨んでいる。
不機嫌そうな表情は家康の接待役を務められなかった光秀に対する憤りか、それとも…。
家康はそんな彼らの姿を視界にとどめながら、一瞬浮かんだ疑惑を胸の奥に押し込めた。


  • 11.01.11