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雪・月・華 13


「ここで会えてようございました」

およそ二十年ぶりに再会した乳母は、最後に会った時そのままの笑顔でそう笑った。





聞きたいことは沢山ある。
母の死について。
八重の失踪について。
そして、別れてから二十年は経つというのに何一つ変わらないその姿について。
最初は娘なのかと思った。
八重が姿を消してすぐに娘を産んだのだとすれば、計算は合わなくない。
だが目の前の女性はどう見ても光秀が知る八重そのものであったし、第一目の前の女の態度が初対面の相手に向けるものではない。
艶やかで美しく大輪の薔薇を思わせるような存在感は、名前そのままの触れたら消えてしまいそうな儚い美しさを持つ母とは対照的だった。
その存在感を、いくら娘だと言え真似することは不可能だろう。

同一人物だと理解したからこそ、光秀は人気のつかない場所へ移動した。
光秀は安土城下では顔も名前も知られているし、八重の外見は誰もが目を奪われるほど目立つものだ。
彼女が何を考えているかわからないからこそ、人目につくのは極力避けたかった。
本来ならば久しぶりの知人との再会だ。
母代わりとなり育ててくれた女性に対する礼儀ではないのは重々承知している。
だが八重の登場はあまりに唐突だった上に彼女の行動に多くの違和感がある以上、光秀は個人として相対することができなかった。

あまりにもあやしいのだ。
八重の存在そのものが。
天下が織田家に傾いている現在、信長を狙う者は少なくない。
手段すら厭わなくなったそれに気を付けるのは臣下である自分の役目である。
だからこそほんの些細な変化にも神経を尖らせなければならないのだ。
光秀と乳母であった八重という存在は直接信長にとっての脅威にならないだろうが、八重の背後に何者かがいないとも限らない。
知己の――それも心を許した人物と再会した光秀から何かを探り出そうとして近づいたという可能性とて否定できない。
それ以外に八重が今、自分の元に姿を現した理由が思いつかないのだ。
警戒を隠さずに相対していた光秀だが、当の八重はそんな様子をまったく気にもかけていないようで、久しぶりに見る光秀に嬉しそうに目を眇めている。
ややしてうっとりとしたようにため息を一つ。

「本当に、姫様はお母上に良く似ていらっしゃいます。輝くばかりの美しさで、やはり同じ天女の一族とは申せ、直系の方は殊更格別なのですね」
「っ?!」

八重の言葉に明らかな動揺を見せた光秀に、八重はあらあらと笑みを深めた。

「そのぶんですと、ご自分でもお気づきになられておりましたか」
「な…にを…」
「姫様はまこと、天女の血を継ぐ正統なお方。尊き天人にございます」

己が薄々普通の人ではないことに気づいていた光秀だが、こうして面と向かって自分の出自を断言されてしまえば、流石に動揺は隠せない。
天つ一族の噂は知っていた。
外見はもとより一族特有の異能が、己のものと良く似ているということも。
もしかしたらと思ったことがないわけではない。
だから八重の言葉に反論できなかったのだが、まさか己が直系であるとは予想もしていなかったことである。

「姫様のお母上は、天つ一族の数少ない生き残りであり、天人の中でも数少ない高貴な血を継ぐ御方。その娘である姫様は、まさに天つ一族最後の希望にござります」

熱い眼差しで自分を見つめる八重から逃れようと、光秀は一歩後ずさる。
天つ一族が単なる伝承のものでないことは知っている。
自分がその関係者ではないかということも、想像していたからそれほど驚くことではない。
だから今、こうして八重から距離を取ろうとするのは己の出自に関することが原因ではなく、目の前の乳母だった女の様子が明らかに変化したからに他ならない。
表情は変わらない。
夢見るような眼差し、やんわりと笑みを浮かぶ唇。
誰もが思わず見とれてしまうほどの妖艶さを醸し出しているそれは、光秀には再会を喜ぶだけにしては常軌を逸しているように見えたのだ。
その証拠に、武人である光秀の警戒心は益々強くなっている。
ただの女。そう思えない何かが八重にはある。
正直に言えば――怖いのだ。
八重の言葉が、存在が、光秀の大切な何かを壊すような気がするのだ。
すぐに城に戻りたいという気持ちが強まる中、八重はそんな光秀の胸中を知ってか知らずか言葉を続ける。

「姫様。光秀様。どうか後生でございます。八重の願いを叶えてくださいませ」

言葉は懇願。
だが向ける表情の何と挑戦的なことか。

「お前の願いとは…何なのです」
「八重は帰りたいのでございます。姫様と八重が真実住まうに相応しいあの国へ。姫様と共に帰りたいのでございます」
「国…とは」
「我ら一族の故郷です、姫様」

妖艶に微笑み、白く細い指がゆっくりと天を指す。
光秀は眩暈を感じた。
伝説となった一族。その伝承に相応しい美貌の八重。
あの一族はどこから落とされただろうか。

「八重…」

荒唐無稽だと笑うことすらできない。

「我らは天つ一族の末裔。そして姫様は真実我らが主と定める方の御子孫にございます。一族を天に還すのは主君の務めにございますれば」

どうぞ、八重と共に天へ還りましょう。





   ◇◆◇   ◇◆◇





それから光秀は八重に何と答えたのか、どうやって城まで戻ってたか良く覚えていない。
ただ、怖かった。
天つ一族だと言われただけならまだ良かった。
彼らは伝承では天女の子孫となっているが、その実態は定かではないものの確かに存在はしていたのだから。
だが――己を天女の末裔だと言われてすんなりと受け入れることが出来る人間がどれだけいるだろうか。
直系なのだから一族を空に還す義務があると言われても、はいそうですかと聞き入れることなどできるはずもないし、そもそも天に還る方法など光秀は知らないし帰りたいとも思えない。
光秀が過ごしてきた場所はこの地なのだ。
だがそのような言葉は、おそらく八重には通じないだろう。
あの目は己の信じるものしか認めない目だ。
自分の信じるものが全てで、それのみが正義であると瞳が語っていた。
だから光秀の言葉を八重は決して認めないだろうと、何故か確信があった。
間違いなくこれからも現れるであろう八重のことを信長に話すべきか悩んだが、これはあくまでも己の問題で信長に迷惑がかかるような状況でない以上伝える必要もない。
信長にとって光秀は家臣の1人に過ぎず、今受けている寵とて信長の気紛れから起きているものだ。
妻でもなく恋人でもない、そんな相手の私事を告げたところで信長が煩わしく思うだけだろう。
そして――何よりも信長に八重の存在を知られたくなかった。
父に対してあれだけの敵愾心を向けていた八重のことだ。
己と信長の関係を知られてしまえばどうなるか想像することすら恐ろしい。
だから言えなかったのだと小さく呟けば、信長はどう思ったのだろうか無言だった。

「光秀様。――その、八重という女性は…」
「それから一切の接触はありません。私が四国へ赴いていたからかもしれませんが、彼女が諦めたとは思えません」

蘭丸の問いに答えながら、光秀は改めて己の状況を理解した。
八重がこのまま諦めるはずがない。
恐らく近いうちに再び姿を見せるだろう。
そしてまた言うのだろう。
天に還せと。
そのようなこと、できるはずがない。
光秀は天女ではなく、ただの人間だ。
確かに人より傷の治りは速いかもしれないが、人として生まれ人として生きてきた。
それ以外の何者にも光秀はなれない。

「――光秀よ」
「はっ」
「その女はまた現れると、貴様は思うのか」
「…はい。恐らくは必ず」

あの眼差しを思い返せば背筋が寒くなる。
戦場でも抱かない恐怖を、八重は眼差し一つで光秀に与えてくる。
小刻みに震える指をきつく握りしめて耐えた。

「ならば、貴様はこの信長から離れることまかりならん。常に信長の視界に入っておれ」

言われた言葉の真意がわからず、光秀は目を見開いて信長を見つめた。
小姓である蘭丸や妻である濃姫ならまだしも、武将である光秀が常に信長に侍る必要はない。
況してやもうすぐ毛利との戦が始まる。
同盟相手である長宗我部を接待するのが光秀の任務なのだから、そのようなことできるわけもない。
任命したのが信長なのだからそのくらいわかっているはずだ。

「誰も戦の最中まで傍におれとは言わぬわ。安土の城内まではその女とて入ってこれぬであろう」
「ですが…」
「貴様はしばらく屋敷への帰参を禁止する。よいな」
「…御意に」

信長の居城である安土城には、忍びすら侵入が難しい。
確かにここにいれば八重が現れることはないだろう。
辞退の言葉を許さない信長の言葉に、光秀は流されるように頷いた。


  • 10.12.16