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雪・月・華 12


光秀の様子がおかしい。
時間が空いたからと城下へ下りていったものの、数刻経っても戻ってこないことに気付いたのは誰だったか。
そういえば光秀殿はいつ戻ってくるのだ、おかしいですねいつもならば戻ってきている時刻なのですが、どこかで具合でも悪くされているのではないか、いやもしかしたら先日の刺客がまた光秀殿を襲ったのかもしれぬ等々。
すっかり保護者気分の老将達が騒ぎ出せば若年の武将達もそわそわと落ち着きがなくなり、では誰か調べて参れと佐久間信盛が立ち上がった頃になってようやく戻ってきて周囲を安心させたものの、光秀の表情はどこか暗く元気がなかった。
それからだ。
光秀は常に何かを考え込むように硬い表情を浮かべ、心もここにあらずといった様子で空ばかり見ている。
どうしたのかと問えば儚い笑みを浮かべて何でもないと言われてしまい、それ以上訊ねることができない。


そしてその異変に気付かない信長ではなかった。
だが問い詰めることはできない。
光秀が城にいないからだ。
光秀の様子が変であろうとなかろうと政務に公私混同はしないのが信長であるが、適任者がいないために四国への使者に光秀を任命してしまったのは失敗だった。
更には戦が近づいていることもあり信長自身も多忙となってしまい、光秀の異変に気づいていながらどうすることもできないまま数日が過ぎ、ようやく落ち着いたのは更にその数日後であった。
長宗我部元親を迎えての宴の後、信長は光秀が来るのを自室で待っていた。
ややして襖に人の影。

「光秀、か」

問いかければ小さく是の声。
入ってこいとの声に姿を見せた光秀は、宴の席でも感じたが少しやつれていた。
意外と自分のことに関しては無頓着な光秀のことだ。
普段ならば多忙にかまけて食事を疎かにしたのだろうと思う程度だが、そう思えないのは明らかに暗い表情を浮かべている光秀の様子に他ならない。
褥に近づいてきた光秀の頬に触れれば、びくりと怯えたように硬直するくせに、その瞳は不安げに揺らめいている。
まるで行くあてを失くした子猫のようだ。

「…何があった」

問う声が多少険を含んでしまうのは仕方ない。
信長は元々人を気遣うことに対して器用ではないのだ。
だが一度懐に入れた人物を簡単に見捨てるようなことはしない。
本当は光秀が自分から相談してくるのを待っていたのだが、一向にその気配がないものだからこうして問いかけている。
それすら信長にとっては破格の待遇なのだが。
光秀は驚いたように目を瞠った。
己の不調を気取られているとは思っていなかったのだろうか。
それならあまりにも迂闊すぎる対応だ。
光秀の変調ならば城の誰もが気づいている。
ただ、あまりにも深刻そうだったために誰もが気を遣って口を噤んでいただけだ。

「この信長にも言えぬことか」
「いえ…」

ただ、と光秀は小さく呟いた。
己の膝の上で握りしめた拳の意味を信長は知らない。
何が光秀を悩ませているのだろうか。

「…怖い、のです」
「何がだ」
「私の…ことで、信長様にご迷惑をおかけしてしまうのが…」
「戯けが」
「…え?」

弾かれるように視線を上げた光秀の表情は初めて見るものだが、この表情は信長は好きになれそうにない。
不安に揺れ今にも泣きそうな表情は光秀に似合わない。

「光秀の迷惑などこの信長にとっては取るに足らぬことよ。気を遣う必要などあるか」
「信長様…」

口調とは裏腹に真摯な信長の眼差しに、光秀の瞳から涙がポロリと零れた。
どのような状況でも涙を見せたことなどなかった。
泣いても誰が助けてくれるわけではないと知ったのは、もうずっと幼い頃。
それから光秀は涙を封印していたのだ。
だから家族を失おうと家を飛び出そうと、この年までたった一人で生き抜いてきた時も涙を流したことなどない。
それなのに、今。
こんな信長の些細な一言で心がどうしようもなく揺れてしまった。
嬉しい――と。
たとえ気紛れにしても信長が光秀のことを気にかけてくれていたという事実が、そして理由も知らないのに光秀に手を差し伸べてくれる優しさが、とても嬉しかった。

また一滴零れた涙を信長の無骨な指が拭う。
交わされる視線。
ふと、光秀の心が何かを感じた。
ゆっくりと伏せられる瞳。
唇に触れるぬくもりが、たとえようもなく愛しい。
すがりつくように信長に抱きついた光秀を、信長はゆっくりと褥に横たえた。





   ◇◆◇   ◇◆◇





久しぶりの逢瀬は予想以上に濃密なものとなった。
光秀の心に生じた変化は身体にも起こっていたようで、信長の愛撫に光秀の身体が過剰なほどの反応を見せたのだ。
己の変化に戸惑い、だが抵抗も見せずに溺れていく様を目の前で見せられては、信長とて理性の箍が外れるのも無理のないこと。
況してやそれまででも悦楽に耐える光秀の姿は眼福だというのに、素直に身を任せる光秀のいじらしさと妖艶さは、女の媚態など見慣れているはずの信長ですら抗うことが難しいほどに惑わされるものだった。
その結果、信長は朝まで光秀を離すことができず、蘭丸が信長の起床を促すために部屋を訪れた際に見つけたのは、精も根も尽き果てたように昏倒する光秀と、久しぶりに満足した表情を浮かべる信長の姿で、光秀が何をされたか想像に難くない蘭丸は、そんな主君の無体を眼差し一つで咎めて見せた。
基本的に主君には無条件で服従する蘭丸ではあるが、こと相手が光秀だと蘭丸の天秤は光秀に傾くらしい。
兄とも姉とも慕っている人物だから仕方ないだろう。
信長自身、そんな蘭丸と光秀の関係を面白く思っているから咎めることもない。
そんな理由もあり、朝一番で事情を聞こうと思っていた予定はずれにずれ、仕切り直しの如く光秀が部屋に呼ばれたのは翌日の深夜のことだった。
部屋には蘭丸もいる。
昨夜の信長の言葉が光秀の心を軽くしたのだろう、光秀の表情は昨夜とは比べものにならない程穏やかだ。

「さて、光秀よ」

当然信長もその変化に気づいているからこそ、あえて普段と変わらぬ声で問いかける。

「貴様が悩んでいる瑣末事、聞かせるがよい」
「恐れ多いことでございますが…」

光秀は低く頭を下げ、ゆっくりと話し始める。
幼い頃姿を消した乳母が姿を現したこと。
乳母の外見が昔と何一つ変わっていないこと。
その乳母が光秀に告げたこと。
言葉にするのは正直まだつらかった。
長年生き別れていた乳母との再会は、正直嬉しさよりも困惑の方が勝っている。
何故なら、彼女の言葉は今までの光秀のみならず、これからの『明智光秀』の存在すら否定するものだったからだ。

「彼女が言うには、私は天つ一族最後の直系なのだそうです」

信長と蘭丸の瞳が見開かれる。
光秀はきつく唇を噛みしめた。

『だから、姫様』

あの時の八重の言葉が耳に甦る。
長年音沙汰のなかった彼女が、今どうして光秀の前に現れたのか、理由はその後に発せられた一言にある。



『共に天へと還りましょう』



彼女は自分を連れに来たのだ。


  • 10.12.10