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雪・月・華 11


光秀が再び城下に足を運ぶようになったのは、襲撃が起きてからわずか十日後のことだった。
傷は完全に癒えたとは言え、一時は生命に関わるほどの重傷を負った者とは到底思えない無防備さで、相変わらず光秀は供も連れず一人でふらふらと城下を歩いている。
当時の状況を知る者――特に三成や清正は光秀が徒歩で登城してくること自体を良く思っていないのだが、彼らは所詮は秀吉の子飼い武将である。
身分も遠く及ばないために2人は光秀に直接言上することはできない。
尤も光秀自身は身分などまったく気にする性格ではないのだが、己の行動が主君である秀吉の評価に繋がることを考えれば、たとえ光秀がどう思わなくても言葉にできないのが現状である。
だが表情には出てしまっているために、2人の不安そうな表情を見かねた秀吉が、光秀にそれとなく忠告するのはほぼ日課となってしまっている。
それでも大丈夫だからと行動を改めることがないのはやはり光秀だからなのだろう。
今日も今日とて時間が空いたからと城下へ赴く光秀の姿を眺めて秀吉と三成はため息をついた。

「普通は生命を狙われたら慎重になるはずなんじゃがのう」
「まったくです。無防備にも程があります。ご自分のお立場をもう少し自覚していただかないと」

などと零しあう姿も珍しくはない。
2人にとって光秀とは言ってしまえば政敵であるのだが、どうしてだか秀吉は光秀をそのように見ることができない。
光秀に野心が欠片も見られないのが原因かもしれないし、信長に対して一片の曇りもない忠誠心を見せているからかもしれない。
政敵というよりも同僚、それよりももう少し親しい友人関係になれればいいと思うこともあるが、生憎信長の視線が怖くてそのようなことはとてもじゃないが口に出せない。

「おや、明智殿はどちらへ行かれたのだ」
「先程城下へ参ると出ていかれました」
「まったく、先日あれほどの怪我を負ったばかりじゃと言うのに…」
「誰ぞ供にでもついていけばよかったのじゃ。大の男がこのように端に集まってむさくるしい」

周囲で聞こえる嘆き声に視線を移せば、そこには織田家譜代の家臣がずらりと並んで窓の外を眺めている。
勿論視線の先にいるのは光秀だ。
大の男が未練がましそうに門の外に消えていく後ろ姿を目で追っている姿は、確かに見苦しいことこの上ない。
それだけ光秀が織田家家臣に好かれていることの証拠でもあるのだが、彼らもまた秀吉と同様に光秀と気安く話すことができない間柄だ。
何しろ光秀は信長の気に入りであり、信長は気に入った人物は独占する傾向が強いのだ。
特に蘭丸と光秀は有能なだけでなく見目も麗しいので、それこそ片時も傍を離さないと言ってもいい。
光秀が単独行動をする時は部屋で執務を行っているか城下を散策している時ぐらいなのだが、その時を狙って光秀に声をかけようとすれば、必ずと言っていいほど信長に気付かれてしまい後々恐ろしい目に遭う確率が高い。

かつて光秀の美貌に惑わされた一人の家臣が、信長の目が届かない時期を見計らって光秀に近づいたことがあった。
知己を深めたいという理由ではなく、邪な思惑でだ。
あまりにもあからさまな行動だったが、生憎光秀は彼の思惑に気付かなかったために男の行動はほぼ未遂に終わったのだが、それに気付いた信長がその男を辺境の領地へと改易してしまったのだ。
主の目から隠れるように光秀に近づいた男の行動が何故信長に知れることになったのか。
勿論光秀が奏上したわけではない。
光秀は己がその男に欲の対象と見られていたことには気付かなかったのだから。
では誰か。答えは簡単だ。
光秀に親しげに近づく男の態度が許せなかった多くの武将が信長に告げ口をしたのだ。

『あの男が明智殿に対して邪なことを考えておるようです』

そう奏上するのが1人や2人だったら信長も取り合わなかっただろう。
気に入らない人物を讒言で陥れることは戦国の世ならば珍しいことではない。
だが譜代の家臣がこぞって奏上してくれば話は別だ。
おそらく光秀自身に話を聞いたり、場合によっては蘭丸を使って調べさせたりしたのだろう。
どこの親衛隊だと思わなくもないが、自分達が親しくできないのに他の男が親しくなるのは許せないという心理はわからなくもない。
尤も己は光秀にとって多少親しい部類に入るかもしれないので、彼らほどの悋気を起こすつもりはないが。
だが、そんな秀吉ですら今以上に親しくなることは不可能だとわかっている。
光秀は気にしないかもしれないが、事件の後に最初に見舞いをしたのが秀吉であることが知られた時に感じた視線は正直かなり痛かった。
秀吉が美女に目がないことを知っているからなのだろう。
あまり近づくなと直接言われたことも一度や二度ではない。
勿論それは秀吉だけではなく、多くの武将に言えることなのだが。

『明智光秀に不必要に近寄るべからず』

そのような不文律が出来たのは一体いつからだったろうか。
元より信長の寵愛している家臣に手を出すほど命知らずではない。
第一秀吉はどれほど美人であろうと男には興味ないのだ。
確かに光秀は女性よりも遥かに綺麗だし気立ては良いし近づけば花のような香りがして血迷ってしまいそうになることも何度かあったが、それでもあくまでも男なので秀吉の食指が動くことはない。
時々、本当にごく偶に男でもいいかなと思ってしまわなくもないが、それでも生命を賭けるつもりはないのでぐっと我慢しているのだ。

「光秀殿が女性であったらのう」

思わず呟いてしまった本音は他の武将に聞かれることはなかったが、生憎隣にいる三成にはしっかり聞かれてしまったらしい。
じろりと見やる視線は主君に向けるものとは思わないほど冷たいのは、多分三成が光秀を武将として尊敬していることもあるが、それ以上に三成が秀吉の正妻であるねねの味方だからだろう。
秀吉に対しては無条件に従う三成ではあるが、彼の女癖の悪さだけは良く思っていないらしい。

「は…はは、冗談さ」
「当然です」

主君の威厳はどこへ行ったのやら、三成に冷ややかな視線を向けられて秀吉は嘆くようにため息を落とした。





   ◇◆◇   ◇◆◇





「もし、お武家様」

控え目な声が届いて光秀は足を止めた。
安土城下で光秀の顔は相当知れ渡っているため、このような人物を特定しない呼び方をされたことはほとんどない。
光秀に用事がある民は光秀の名前を呼ぶ。
それこそ不敬だと言われそうではあるが、尾張では領民あっての武士だという考えが徹底しているため、信長を初めとして多くの武将はその程度で目くじらを立てるようなことはない。
ごく一部不機嫌になる武将がいなくもないが、そういう輩はそれほど高い地位にいる人物ではない。
特に光秀は頻繁に城下に足を運ぶことから名前以外で呼び止められたことがないのだ。
だから最初は自分のことを呼んでいるのではないとも思ったのだが、生憎人通りのそれほど多くない通りだったために、念のため確認のために足を止めて振り返った。
少し離れた店の軒先にいたのは、若い女。
頭巾で顔を隠しているから素顔は良く見えないが、すらりとした身体と僅かに見える目元から相当の美女であることが分かる。
そんな女の姿に光秀はどこか既視感を感じて目を細めた。

見たことがあるような気がする。――どこで?

「あぁ、やはり良く似ていらっしゃる」

女は光秀の前へ歩み寄ってくると、ほぅ、と感心したようにため息をついた。
そして優雅な仕草で頭巾を取る。
はらりと零れる黒髪、ぬば玉のような黒い瞳。雪のように白い肌。
優美でありながらも凛とした佇まいの美女は、光秀の記憶の何かを呼び覚まさせる。

「貴女は…」

まさかと思う。
気丈さが表に目立つこの女性の顔立ちは、確かに光秀が知る人物のものと酷似している。
目を奪われるほどの美女を、光秀は2人だけ知っている。
己の母である雪と、その乳姉妹だ。
母の死と同時に姿を消した彼女の行方は杳として知れないが、確かに記憶に残る乳母と目の前の美女は同じ外見をしている。
だがそれは遠い昔。
母が亡くなってもうすぐ20年近くになる。
彼女の娘だろうかと思うが、そうするとこの女性が光秀の顔を知っている理由がわからない。
光秀の外見は確かに亡き母に瓜二つだが、当時の彼女に子供はいなかったはずだ。

「わたくしをお忘れですか?」

鈴を転がすような声は自信に満ち溢れていて。
それすら記憶のものと重なる。
まさかと思う。
だが、しかし。

「八重…」

言葉なく呟いた声に、女はにっこりと笑った。

「覚えていてくださいましたか。わたくしの姫様」

背は光秀よりも小さく、年の頃は同年かそれより下に見えるこの女性。
だが柔らかく頬を撫でる白い手は幼い頃のものと何一つ変わりがなくて。

紛れもなく彼女はあの乳母なのだと、光秀は確信した。


  • 10.11.21