それから3日もすれば光秀の傷はすっかり塞がってしまった。
流石に動けるようになれば城に留まる理由はなく、光秀は秀吉達が見舞いに訪れた数日後に安土城下の自分の屋敷に戻った。
その頃には動かしてもほぼ痛みも不自由も感じないほどには回復していたのだが、余人の視線がある手前布で腕を吊っている姿はやはりどこか痛々しさを感じるのだろう。
向けられる視線は予想以上に大きかった。
当然のように歩いて帰ろうとした光秀に、信長や蘭丸以外の周囲から猛反対にあい、結局駕籠を用意され仰々しい視線の中で自宅に戻る羽目になってしまったのだ。
丁度戦もない時期であるため数日は療養しているようにとの許可も貰っていたのだが、結局翌日には普通に登城してきて事情を知らない周囲からやきもきされたのも当然と言えよう。
信長はこの目で見ているために光秀の傷が最早手当ての必要などないことを知っていたが、秀吉や柴田勝家などがあまりに心配するのを見かねて、登城する際には典医に傷の様子を見てもらうようにと公の場で光秀に告げた。
そのため光秀はいつものように誰よりも早く登城し、典医に簡単に傷の様子を見てもらった上で信長のもとへ赴くのである。
今朝もいつもと同じように典医の元を訪れた光秀は、肩をはだけて典医に傷の様子を見せた。
肌を見せるのが恥ずかしいのだろう、典医に背を向けていながらも頬を羞恥で染めている姿は、やはりどう取り繕おうとも光秀の本質が女性のそれであることを十分に表している。
濃姫のような妖艶さとは違う楚々とした品の中に見える艶は、高嶺の花という言葉が正に相応しいほどに美しい。
普通に育っていればどれだけ多くの男性が妻にと望むか考えてしまえば、やはり勿体無い。
「具合は如何ですか?」
ほぼ形式となってしまった台詞を口にしながら、典医は光秀の傷跡を指で押す。
一見すると完治しているように見えるが内部の傷がどうなっているかわからないため指圧をして光秀の反応を窺っているが、昨日と同様で特に痛みも感じないらしい。
「何ともありません」
答える声に無理をしているようにも見えず、また、表情もごく普通のものだ。
成る程、信じがたいが確かに完治しているのだろう。
怪我をしたという証であるかのように、そこだけ白い皮膚がうっすらと赤味を帯びているものの、おそらくそれもここ数日のうちに綺麗に消えてしまうだろうと、これまでの経過から典医は診ている。
何箇所か指で押し、肩をぐるりと回して不具合がないかを確認して診療は終了。
手当てする必要がないのだから早くて当然だ。
だがあまりにも早すぎると疑念を抱かれかねないため、診察を終えた後は共に茶を飲むことが恒例になっている。
尤も万が一の可能性を考えて解毒作用のある薬湯なので、こちらも治療の一環と呼んで間違いはないのだが。
「それにしても、まこと不思議なこともありますものですな」
微妙に眉を顰めて薬湯を飲む光秀に、典医がしみじみと呟いた。
珍しいと言えば珍しい。
むしろ奇異と呼んでも可笑しくないのだが、典医はむしろ光秀の容態は奇跡でも起きなければ助からない重症だったのだから、これはこれでよかったと思っている。
勿論信長も蘭丸も同じ意見なのだが、唯一それで懊悩しているのが当の光秀本人だった。
だからこそあくまでも感心したように呟いた典医の言葉はどうやら光秀の琴線に触れてしまったらしく、見る間に表情が暗くなっていく光秀に気がついたが、生憎一度口にしてしまった言葉は取り消せない。
「確かに…このようなこと、わが身に起きていても未だ信じられません」
光秀は生まれた時から自分は他の人とは違うのだということを意識しながら生きてきた人間だ。
性別は勿論なのだが、文武の才能も光秀は同じ年の子供に比べれば遥かに優れていた。
そのため周囲の目は常に特別なものを見るような視線で、それは幼い光秀にとってひどく苦痛だった。
周囲から逸脱した存在という苦痛を良く知っている光秀にとって、他者より優れていると言われることは決して喜ばしいことではないのだ。
人は己の知る枠からはみ出る人物を好まない。
それは幼い頃から屋敷内でも感じていたことであるし、仕官してから先でも嫌というほど痛感していたことである。
織田家中の者は信長自身が突出した存在であるためか才能溢れる人材が豊富で、そのため光秀が優秀であっても妬みや僻みの類は他の家とは比べ物にならないほど少ない。
自然体で過ごすことを許されている今が心地良いため、ありえない回復能力などを知られて胡乱な目で見られる事態になりたくないのだ。
だから、思わず出てしまった言葉は光秀の弱音以外の何物でもない。
典医はこうして話すようになって初めて、光秀が己のことをあまりにも過小評価していることに気付いて驚いていた。
何しろ信長との関係云々以前に、織田家で髄一の武働きと統治力を評価されている光秀である。
誰もが信長の片腕と認めている。
第一織田家家臣として他国から警戒されているからこそあのような襲撃にあったのではないかと普通なら考えそうなものだが、生憎光秀は違った。
たまたま供も連れずに歩いていたから狙われたのであって、新参者の自分よりも譜代の家臣の方がもっと危険な立場にいるのだと信じて疑っていない。
間違っていないが正しくもない。
普通の家臣を暗殺するのなら、凄腕の忍びを数十人(清正に聞いた)で取り囲むことなどまずありえないのだが、それに気付かないからこそ光秀である。
「私は、一体何者なのでしょうか…」
誰にも心を開かない、というよりは人付き合いが得意ではない光秀にとって、このような弱音を吐くことはひどく珍しい。
それだけ典医には心を許してくれたということなのか、それとも光秀の何倍も生きている年寄りなら何か良い言葉をもらえると思っているのだろうか。
視線を伏せたまま呟いた声がひどく寂しそうに感じ、典医はまるで幼子にするかのように光秀の頭を撫でた。
「私はあくまでも匙。説法は得意ではございませんが、そのようなことを存じている人など1人もいないのではないでしょうか」
「ですが…」
「傷の治りなど個人差がございますれば、遅いより早い方が良いのは当然のこと。これ幸いと思うておるくらいで丁度良いのです。日の本は広いゆえ、明智殿のような体質の方も探せば他にいらっしゃるのではないでしょうか」
「…そうですね」
光秀の人とは思えない回復力を『体質』の一言で終わらせてしまった典医に、光秀は一瞬驚いたように目を瞠ったもののその好々爺のような笑顔につられるように小さく笑みを浮かべた。
◇◆◇ ◇◆◇
「戯けが」
典医と話していた内容を聞かれた光秀が正直に話せば、返ってきたのは実に信長らしい辛辣な一言だった。
時刻は深夜。
場所は信長の私室。
典医から問題なしだが何事も程ほどにと、光秀が閨に侍る許可をようやく得たのが今朝のことである。
信長は当然のように光秀を残らせ(若干諸将の「病み上がりなのに残業とは酷なことを」という視線が痛かったのは事実である。勿論ひと睨みで黙らせたが)、夜を待って部屋に呼び久方ぶりの光秀の艶姿を堪能したばかりの台詞がこれである。
興が醒めるのも当然だ。
信長にとって光秀が人であろうとなかろうと構わない。
それこそ女性であっても変わらず重用していることからわかる通り、信長にとって人材とは優秀であれば人であろうが物怪であろうが問題ないのだ。
勿論これは信長が規格外なだけであり、多くの人間が化生と呼ばれる生き物を忌避していることは事実である。
だが、それを抜きにしても光秀を手放そうとする人物がいるかと問われれば答えは否だ。
男の姿のままならわからないが、光秀が女性だと知ればそれこそ国が傾くほどの執着を見せる武将は少なくないだろう。
それほどの才能と美貌と身体の持ち主なのだ。
信長とて例外ではない。
事情を知らない者から見れば有能な武将を重用しているだけにしか見えないが、事情を知る者が見れば光秀への態度は重用というよりは寵愛、あるいは独占欲といった感情の方が強い。
初めは興味本位だった。
光秀が己の下へ仕官してきた本心を知りたいという気持ちと、ほんの少しの悪戯心。
この女性のように綺麗な顔が欲に歪むことがあるのだろうかという好奇心から、信長は光秀と対面する時、室内に催淫効果のある香を焚いたのだ。
勿論それほど強いものではなく、酒に酔ったと同程度の症状しか表れないような些細なものだった。
だがどうやら光秀の体質には効き過ぎたらしく、己の変化に困惑し身悶える光秀の姿があまりにも魅惑的だったために思わず組み敷いてしまったというのが、実は信長と光秀の関係の始まりである。
だがそれがなくてもいずれ遠くない未来には手を出していただろうと思う程には、信長は光秀という人物を初めて見た時から気に入っていた。
そうして手に入れたのだから手放す気はない。
たとえ相手が閻羅王であったとしてもだ。
光秀は信長のもの。
それでいいのだ。
自分が何者かなど、光秀が気にする必要はない。
信長は褥に横たわる光秀の秘所へと手を伸ばした。
先程まで信長を受け入れていた秘所は汗と蜜と信長が放った精によってしとどに濡れており、忍び込ませた指を中で動かせば淫靡な音が室内に響く。
「………っぁ…」
「貴様な信長のもの、ぞ」
「の…ぶなが、さ、ま……待っ」
信長に攻められ幾度も果てた身体は、ほんの些細な刺激にも反応するほど敏感になっている。
弄られている箇所から背筋にぞくりと官能が甦り、ほとんど無意識に光秀は信長の指を締め付けていた。
放そうとしないその動きは勿論無意識だ。
身体の反応に心がまだ追いついていないのだ。
だが確実に与えられる愛撫に染まっていく光秀に、信長は満足したように唇の端を持ち上げる。
「どうやらそのような戯けたことを言う余裕はあるようだ。病み上がりだからと加減をする必要もなかったか」
「そ……っ、ん……」
「ならばこのまま朝まで付き合ってもらおうか。よいな」
組み伏せたままそう告げれば、光秀の顔があからさまに強張った。
だが否定の言葉を言わせるつもりはなく、信長は少々乱暴に光秀の唇を奪った。
◇◆◇ ◇◆◇
「あった…」
深夜に近い時刻、典医はようやく探していたものを見つけて目を輝かせた。
古い文献。
薬草についての記述があるからと念のため取っておいたその書物は医術書ではない。
以前信長から拝領したこの書物に特異な体質を持つ人物のことが書いてあることを思い出して昼から探していたのだが、室内は大量の書物に埋もれていたために発掘するのに手間取ってしまいこんな時間になってしまった。
もう少し整理をしなければいけないだろうと思いながら書物の埃を払い文机の前に座る。
明日でも良いとは思うのだが、己の体質に憂慮している光秀に微力ながらでも朗報を届けられるのなら急いだ方が良い。
ぺらぺらと頁をめくっていく。
元々が古い書物は補完状態があまり良くなかったせいで、所々が虫に喰われたり変色したりしていた。
何とか解読はできるものの後で写本しておくほうがいいだろう、などとつらつらと考えながら文字を追っていた典医の視線がある記述で止まった。
そこには典医が望んだ通りの記述が記されてあった。
だが同時に光秀にとって歓迎できない事実をも同時に記されてあったのだ。
『その者、刃を用いても傷一つつけることあたわず、毒を用いても弑逆すること適わず。正に天つ一族は神の化身なり』
- 10.11.15