致死量の毒を盛られた上に、つい先程まで生死の境を彷徨っていたとは思えないほど光秀の様子は普段と変わらなかった。
それどころか慌ててやってきた蘭丸にどこか異常はないかと言われた時には、少し考えるように視線を彷徨わせてから何かに気が付いたかのように僅かに眉を顰め、
「口の中が苦いです」
と、発言したのだから驚くというよりは呆れるしかない。
毒による後遺症の心配はなさそうだったが、何しろつい先程まで生死の境を彷徨っていたのである。
肩の傷も深い上に大きな血管を傷つけてしまったために相当の出血量だったこともあるせいか、顔色の冴えない光秀をいつまでも起こしておくことはできず、典医の診察が終わると同時に信長は部屋を後にした。
目覚めたことは喜ばしいことだがあまりにも回復が早いのは周囲に不審感を抱かせる恐れがあるということで、夜が明けても光秀の回復は周囲には隠された。
数日すれば問題ないだろうと言う典医に、蘭丸の脳裏には顔色を失くすほどに光秀を心配していた若き武将の姿がよぎったが、信長が是としたものを反論するつもりは蘭丸にはなかった。
今この状況下で光秀を城下の明智屋敷に戻すのも不自然であるために光秀はそのまま安土城内に留め置かれたのだが、連日見舞いと称して様子を窺おうとする武将が後を絶たず、それらの対処に蘭丸が追われることになったのは誤算だったが。
だが光秀の回復力に驚くのはこれだけではなかった。
「何と…」
翌日の朝、傷の状態を確認した典医は言葉を失った。
傷口に早くも肉が盛り上がっているのだ。
光秀の傷口は決して浅いものではない。
むしろ大きく抉れた傷口は、光秀の白い肩にぽっかりと穴が開いたかのように酷いものだった。
それ以外にも血管や筋肉を大きく傷つけてあったために、傷口からは白い骨や千切れた筋繊維が見えていたほどだ。
これはもう二度と動かすことは適わないだろうと、光秀の武人としての人生は終わったと典医が断言するほどには酷かった。
このような短い時間で出血が止まっているだけでも奇跡だというのに、多少不自由だが指も腕も動くという事態は、常識を考えても不自然極まりない。
それだけでなく全身に現れていた毒の兆候すら綺麗に消えているのだから驚くなというほうが無理だ。
少なくとも典医が診た患者の中で、ここまで回復力の高い人物というのはいなかった。
怪我をしてもすぐに回復し毒も効かない人物となれば、それは最早人と呼んでよいものだろうかと典医は思う。
おそらく本人も自身の回復力に気付いていなかったのだろう。
光秀の武勇は織田家中でも髄一で、度重なる戦においても光秀が大きな怪我をしたという記録はなく、又、今まで女性であるということが露呈していなかったことを考えても光秀が大きな怪我を負ったことはないのだろうと推測できる。
このまま行けばおそらく傷跡は綺麗に完治するだろう。
そう信長に報告すれば、無表情ながらもどことなく安堵した様子が窺えた。
僅か1日程度の看病で気付いてしまった信長と光秀の関係は、典医にとって驚きだったが同時に微笑ましいものを感じたのも事実。
ぶっきらぼうながらも光秀のことを気にかける主君の姿は吉法師と呼ばれていた頃と何ら変わっていない。
勿論言葉に出すような愚はしないが。
ただ、魔王と呼ばれ誰からも恐れられている人物の、そのような人間らしさは非常に好ましいのだと思うだけだ。
その翌日には顔色も戻ったために、ようやく城内の武将に光秀の意識が戻ったと通達された。
元々人付き合いが上手とは言えない光秀だったが、その美貌と武功は諸将にとって羨望を集めていただけに、ここぞとばかりに見舞いに訪れる人が殺到した。
それを捌いていくのは蘭丸だ。
本来ならば信長の小姓である蘭丸がそのような些事を行う必要などなかったのだが、どういうことか信長直々のお達しであるという。
「光秀殿に任せては全員にお会いになろうとするだろうから、との事にございますれば」
笑顔でそう言われてしまえば光秀に否やは言えない。
それに蘭丸は光秀の秘密を知っている数少ない人物である。
何かあった時に頼りにするにはこれ以上の人選はない。
そうして選ばれた見舞い客の最初の人物は、やはりというか秀吉と子飼いの武将2人だった。
秀吉は光秀が強襲された際に助けてくれた人物だ。
しかも清正は倒れた光秀を城まで運んでくれた命の恩人であるため、最初の人物としては当然の人選だろう。
「おぉ、光秀殿。よくぞ回復してくだされた」
「秀吉殿。わざわざすみません」
喜色満面の表情で入ってきた秀吉とは対照的に清正・三成の表情は冴えなかったが、光秀の顔色が予想以上に良かったためか、顔を見るなり安堵の表情を浮かべた。
だがやはり顔色の優れない三成の様子に気が付いた光秀は、目が合うなり平伏した三成に目を丸くした。
「石田殿? どうかしましたか?」
「…此度の件、誠に申し訳ございませんでした」
「…何が、ですか?」
心底不思議そうに問われて、三成は拍子抜けした。
秀吉が特に目をかけて可愛がっているとは言え、三成はたかだか小姓に過ぎない。
そんな三成を庇って織田家中でも一、二を争う重臣である光秀が怪我を負うなど言語道断のことで、織田家重臣の中ではその責任を取って腹を切れという意見がないわけではなかった。
それを抑えていたのが秀吉であり信長であったのだが、誰が言わなくても自分の責任を最も痛感していたのは三成だ。
寝ることはおろか食事も碌に取ることもできず、ほんの数日でも憔悴は見てとれるほどで、見かねた秀吉が信長に相談して今回の見舞いが可能になったという経緯がある。
そんな事情など何一つ知らない光秀は、そもそもあの襲撃は光秀を狙ってのことであり、三成が狙われたこと自体が己の巻き添えだと理解していたために、庇うのは極当然のことであって間違っても三成から謝罪を受ける理由などないと思っている。
本来なら三成の言うことが正しく、身分にこだわらない光秀だからこその解釈なのだが、生憎自分が間違っていると思っていない光秀は沈痛な表情をする三成の心情など理解できない。
恐る恐る顔を上げてみれば、本気でわけがわからないという表情の光秀が首を傾げている。
演技でも何でもないその様子に、流石の三成も何と言ってよいものやら言葉がでてこない。
秀吉は恐らく光秀がどういう態度を取るかわかっていたのだろう。
にやりと笑うと三成の肩を軽く叩いて上体を起こさせた。
「こいつは自分を庇って光秀殿が傷ついたのを気にしていたんさ」
「そんな…。あれは私が原因ですし、石田殿に何の罪もありませんよ」
「そう言っても小姓は主を守るのが仕事さ。光秀殿は三成の主じゃないが、それでも謝らねば己の気が済まんかったんじゃろう。許す許さないは別にして、こいつの謝罪を受けてやってくれんかのう」
「どうぞ、如何様にも処分してください」
「そういうことでしたら…」
まだよくわかっていない様子の光秀だったが、素直に謝罪を受けた方が三成の気持ちが楽になるのだろうと思えば固辞する必要もない。
何かを考えるように視線を彷徨わせ、ややして光秀はいいことを思いついたというように三成を見た。
「では、石田三成殿。貴方に1つ罰を与えましょう」
「…何なりと」
はらりと肩に落ちた羽織を蘭丸にかけ直してもらいながら光秀が言う。
どのような命を受けるか不明だが、それが償いになるのなら構わなかった。
だが、言われた内容は驚くほど簡単なもので。
「…あの…もう一度おっしゃっていただけますか?」
問い返した三成に、光秀は笑顔で答える。
「ですから、城下にある茶屋で店主自慢の新作菓子を6つと串団子をそれぞれ6本ずつ買ってきてください」
子供の使いのようなそれは、罰としてはあまりにも軽い。
言われた三成もそうだが、傍にいた秀吉と清正もきょとんとした表情で光秀を見つめている。
笑いを堪えているのは蘭丸だ。
彼らよりは付き合いの長い蘭丸は、光秀がそれほど酷い罰を与えるとは思っていなかったのだが、あまりにも意外且つ光秀らしいその言葉がおかしくて仕方ない。
「先日の菓子は持って帰ってこれませんでしたからね。石田殿が買ってきてくださったら皆で茶でも飲みましょう。ああ、石田殿。早くしないと売り切れてしまいますよ」
あの店の菓子は評判が良いので、午後には売り切れてしまうのです。
楽しそうにそう言われて、ようやく三成の肩から余計な力が抜けた。
行って参りますと言うなり飛び出していった三成は、一刻もしないうちに無事その手に菓子を持って帰ってきた。
その頃にはひと段落ついてやってきたらしい信長の姿もあり、三成と清正はまさかの織田家当主の休憩に相伴するという貴重な体験をすることになる。
- 10.11.02