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雪・月・華 08


苦無に塗布されていたのは烏頭だと判明した。
烏頭は猛毒で、今の日の本にこの毒を解毒できる人物はいない。
即死していてもおかしくないと典医は言った。
おそらく体内に入った量は致死量で、今息をしていることすら不思議で仕方ないのだと。
信長にそれを告げるのは典医としても命がけだった。
信長が吉法師と呼ばれていた頃から典医として務めているため、彼の気性は十分過ぎるほど知っているのだ。
信長が周囲で噂されているほどの無頼漢でないことは承知だが、ひとたび彼の勘気に触れればただでは済まないことを承知していたからだ。
況してや自分は光秀の性別を知ってしまった。
蘭丸や信長が顔色一つ変えないところを見れば2人は知っていたことだろうが、他の武将はそのことを知らない。
手当てに参加した小姓にすら光秀の肌を見せないように配慮していた蘭丸の様子から考えて、光秀が女性であることを他者に知らせるつもりがないことは明白だった。
その秘密を知ってしまった上に助けることができないとなれば、間違いなく自分の首は飛ぶだろう。
己の命を惜しむのは当然。
だが偽りを告げても信長には通じない。
第一症状を偽証するなど医術を志す者として許されることではない。
だからこそ信長お抱え典医として首を斬られる覚悟で真実を伝えたのだが、信長からはまだ命がある限り全力で手当てに当たれという言葉のみで己の処遇に関しては何も告げられなかった。
とりあえず首の皮一枚で命が繋がったということかと、典医は自室に戻り部屋に保存しているいくつかの薬草を探し出した。
烏頭の解毒は解明されていない以上、該当する解毒の薬を思いつく限り作っていくしか方法はない。
体力があるから助かるというものでもないのだ。
だがそれを信長に告げるだけの度胸は流石になかった。
乳鉢を使っていくつかの薬草をすりつぶし薬湯を作る。
どろりとした深緑色したそれは、薬湯と呼ぶよりは液体のような形状をした物体と呼ぶほうが相応しい。
可能な限り解毒作用がある薬を混ぜ合わせたらこのような形になってしまったのだが、飲むのは意識がない光秀なので見た目は気にならないだろう。
味はとんでもないものだと思うが。
だがこれが気付けになって多少なりとも意識が回復してくれれば良い。
運び込まれた当初から意識がなかった光秀は、時間が経った今でも意識を取り戻す気配がない。
馬上ではうわ言らしきものを言っていたそうだが、それも運ばれた時にはまったくなくなっており、消えそうな呼吸しか残っていなかった。
浅く速い呼吸は最早手遅れとも思えたが、不思議なことに時間が経つにつれてその呼吸も穏やかなものになっていった。
大きな血管を傷つけてしまったらしく止まる様子も見せなかった出血も、今ではすっかり止まっている。
静かに布団に伏せている姿はまるで眠っているようにしか見えず、その状態は彼が知るどんな毒の症状にも当てはまらなかった。
昏睡作用のある薬でも盛られたのかと最初は考えたが、調べた結果そのような薬は使われていなかった。
使われていた毒は烏頭で間違いはないのだが、現在の光秀に烏頭特有の嘔吐や呼吸困難は見られない。
本当に、ただただ眠っているようにしか見えないのだ。
忍のように幼い頃から毒に対する耐性をつけていたならまだしも、武士の子である光秀がそのようなことをしているとも思えず疑問は増すばかりだ。
もしや光秀自身が特異体質で毒が効かないのかとも思ったが、真実は当人に確認してみなければわからない。
当初よりも多少は気持ちが軽くなった典医は、それでも予断を許せない状況には変わりなく、こうして数刻おきに薬を処方しているのだ。
そんなことを考えながら新しく作った薬と、万が一目覚めた時のためにと鎮痛作用のある香を手に光秀の部屋へ戻れば、入り口には蘭丸の姿があった。
光秀の性別が原因なのだろう、最初の処方が終わると同時に助手として用意した小姓を蘭丸は部屋から追い出した。
代わりに蘭丸が光秀の傍に侍り、助手として片時も傍を離れない。
信長付の小姓である蘭丸が己の意思でそうするとも思えず、命じたのは信長であることは明白だ。
典医が薬を処方するために部屋を後にする時も、蘭丸は光秀の枕元で額の汗を拭っていた。
その蘭丸がどうして部屋の外に出ているのだろうかと首をひねりながら部屋に入れば、疑問はすぐに解決した。
枕元に佇む信長の姿に一瞬足が止まる。
時刻は間もなく深夜になる。
信長は確かに家臣思いの君主ではあるが、負傷した家臣の見舞いに来るには若干遅い時間である。
だがここは安土城内であり、光秀は信長の側近中の側近であることを考えれば、特に不思議に思うことはなかった。
況してや普段の光秀の寵愛ぶりと彼――否、彼女の性別を知ってしまえば、信長の行動はさして不思議でもない。
無礼にならない程度に近づき、信長の背後に平伏する。

「――どうだ?」
「相変わらず、まるで眠っているかのような容態でございます」
「…で、あるか」

典医の言葉を受け、信長は光秀の額へと手を伸ばす。
僅かに乱れた髪が頬に触れているのをそっとかきあげ、光秀の頬をひと撫でする。
まるで恋しい人を慈しむような仕草に、無表情の信長の内面を垣間見たような気がして彼は年甲斐もなく顔に熱が集まるのを感じた。
あぁ、そうかと思った。
気付いてしまえば光秀に対する厚遇も態度も納得だ。
たかが一介の典医如きが知るには恐れ多い感情だが、気付いてしまえば見て見ぬふりもできない。
そっと薬の入った碗を差し出した。

「信長様、こちらは明智様の薬にございます」

信長がその碗を手に取り、その量と色と臭いに眉を顰める。
当然の反応だと思うが、それを飲まされる光秀の方がもっと大変なので我慢してもらいたい。
眠っている人物に薬を飲ませるのはこつがいる。
上体を起こし首を支え、そして口から零れないように飲ませる。
看病を経験した者でないと少々難しいそれは先程までは典医と蘭丸が行っていたのだが、今は信長に任せても良いだろうと典医は身分を考えればとんでもないことを思う。
だが信長が反論しなかったために典医は静かに頭を下げた。

「それでは私は隣に控えておりますので、何か変化がございましたらお呼びくださいませ」

信長の返事を待たず、典医は静かに部屋を後にした。
襖の前で控えている蘭丸も予想していたのだろう。
戻ってきた典医がすぐに部屋を出て行くのを視線で追うだけで問いただそうとはしなかった。
部屋の中は静かで何の音もしない。
表面上は普段と変わらない態度で過ごした信長だが、秀吉から手渡された包みを見て表情を強張らせた。

『光秀殿が、信長様と蘭丸殿にと買うてきたものです。生憎潰れてしまいましたが…』

信長が城下に下りる際に懇意にしていた店の菓子だった。
蘭丸も信長の供として何度か邪魔したことがあるが、甘味好きの信長が大層気に入っていた店で、蘭丸自身もこの店の団子は格別だと思っていた。
包みの中には新作だという菓子と蘭丸が好んだ胡麻餡がかかった串団子。
潰れてしまったそれは食べられたものではないけれど、信長と蘭丸が喜ぶだろうと思って買ったであろうその心遣いが伝わってくる。
光秀は控え目ながら気配り上手で、誰が何を好んでいるか言われなくても知っていた。
蘭丸があの店の胡麻団子を好きだなんて、多分信長ですら知らない。
それなのに光秀は気付いていて、何かの折にはこうして土産に持ってきてくれるのだ。
本当に少数。ほんの2〜3個だ。
機嫌取りでもなく賄賂でもなく、ただ単純に喜ぶ顔が見たいからと買って来てくれるそれには光秀の分は含まれていない。
必ず共に食することになると言うのに、光秀は毎回恐れ多いと辞退しようとする。
本当に無欲で、だからこそ好ましく思う。

このまま逝かないでほしい。
光秀にしてもらったことの多くを、蘭丸はまだ返すことができていない。
何よりも信長のために生きて戻って欲しいのだ。


(光秀殿…どうか…)

蘭丸はそう祈った。





   ◇◆◇   ◇◆◇





燭台の灯りに照らされた横顔は白い。
長い髪を肌に張り付かせて白い肩を見せて眠る姿は情事の後のそれと大差ないが、今の状況はその時とは大きく違う。
剥き出しの肩には大きく巻かれた包帯。
瞼が閉じているのは眠りではなく昏睡。
額に浮かぶ汗は情事の名残ではなく、己を苛む毒と戦っているためだ。
色を失った唇に手を当てれば僅かに聞こえてくる呼気は穏やかだが、その意識がいつ戻ってくるかは典医であっても分からないと言う。
信長の典医は国一番という呼び名の高い腕前だ。
自身も幼い頃から幾度となく世話になっているし、その実力は高く評価している。
その典医を以ってしても今後の容態が分からない。
烏頭の解毒剤は開発されておらず、又、あったとしても致死量を超える毒をその身に受けているのだから生きていることが奇跡だと言われた時には流石に怒りで目が眩んだものだが、多少の時間の経過と共に頭の中は冷静になったようだ。
蘭丸が傍についているため何か異変があれば報告に来るはずなのだが、いつまで待ってもそれは来ない。
即死していてもおかしくないほどの重症だというのに、だ。
我慢できずに光秀の下へ足を運べば、そこにいたのは驚くほど静かに眠る光秀の姿で、ピクリとも動かない身体には最早魂が入っていないのかと思ってしまうほどに白かった。
らしくなく部屋に入ることを躊躇ってしまった信長に、蘭丸は落ち着いて頷いた。

『随分と呼吸も穏やかになり熱も下がってきております』

少し前までは熱に浮かされて辛そうだったが、今は顔色の白さを除けばただ眠っているようにしか見えない。
定期的に飲ませている薬は解毒だけでなく解熱や増血、その他現在の光秀に必要だと思われる諸々が含まれているらしい。
何が功を奏したのかは不明だが、今の状況は光秀が運ばれてきた当初に比べればずっと良くなっているように見えると蘭丸は言う。
信長は己の手にある碗を見る。
緑とも黒とも呼べない異様な色の液体は、通常の薬湯とはほど遠いほどの臭いを放っていてどうしても眉を顰めてしまう。
だが、これが光秀の容態を安定させているのなら飲ませないわけにはいかない。
傷に障らないようにとうつぶせてあった身体を抱き起こす。
意識がない身体を抱き起こすのは慣れている。
己の腕に抱え、碗の中身を一気に煽る。
どろりとした液体は信長に予想以上の苦味と不快感を与えるが吐き出すわけにもいかず、信長はそのまま光秀の唇に己のそれを重ねた。
ゆっくりと流し込めば少しずつだが嚥下していく。
一度で飲みきれる量ではないそれを繰り返し行い光秀に薬を飲ませていく。
ようやく全部飲ませ終える頃には信長の味覚は麻痺してしまったようで、苦味も何も感じなくなっていた。

「この信長を置いて先に逝くこと、許さぬ」

人形のように白い顔をゆっくりと撫で、信長はもう一度その唇に触れた。
ふと、唇に感じた違和感に信長が顔を上げる。
僅かに眉が寄せられ、唇からは小さな吐息。
目を見開く信長の前で光秀の長い睫がふるりと震えた。

「ぅ……」

ゆっくりと開かれていく瞳はぼんやりと宙を漂い、そして己を抱きしめている主へと移された。
パシパシと瞬きを繰り返す姿は寝起きに良く見られる仕草で。
至近距離から見つめる主に気付けば目を見開き、次いで己が主の腕の中にいることに気付いて気恥ずかしそうな表情を浮かべるのも見慣れた仕草だ。

「信長様?」

不思議そうに首を傾げる様子は、どう見ても今まで生死を彷徨っていた人物のものには見えないが、それがかえって信長を安心させた。

「……戯けが」

信長は小さく呟いた。


  • 10.10.29