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雪・月・華 07


安土城は騒然としていた。
ほとんどの武将が登城を済ませても尚未だに姿を見せない光秀と秀吉に、さて珍しいこともあるものよと話していた最中に、荒々しく馬で乗りつけたのが秀吉子飼いの小姓扱いの加藤清正だった。
一国一城の主ですら下馬するのが当然である正門前まで乗り付けてきた無礼に眉を顰めた武将は少なくない。
だが普段は礼節正しい清正がこれほどの無礼をすること自体例がなく、何事かと顔を覗かせた武将の目に飛び込んできたのが血に濡れた光秀だったのだから騒ぐなという方が無理だった。
無礼を詫びながら馬を下りた清正はその腕に光秀を抱いて城内へと飛び込んできた。

「どなたか! 匙を!!」

清正の腕にいる光秀はくったりと力なく、その顔色は蒼白を通り越して紙のように白い。
ややして慌てたように姿を表したのは、やはりというか意外というか信長の小姓である森蘭丸で、清正から光秀を受け取ろうとしたのだが一刻を争うと言われてそのまま清正ごと奥の部屋へと招き入れた。
そこは光秀が主に城内で執務を行う時に使われている部屋で、部屋には既に典医が待機していた。
用意された布団に傷口が触らないようにうつぶせに寝かせたところで、清正は典医から追いやられてしまい部屋の隅へと移動する。

「何と…これは…」

何となく気になって部屋を辞することができなかったのだが、衣を裂く音が聞こえると同時に典医の悲痛な声が聞こえてきて思わず身体が硬直した。
光秀の姿は見えない。
典医と蘭丸の身体で陰になっているからだ。
だが、連れてきた清正には光秀の出血が相当量だったことから相当の深手を負っていることはわかっていた。
そして光秀を傷つけた苦無に大量の毒が塗布されていたことも。
凶器の苦無は秀吉が持っていった。
今頃は捕らえた忍びと一緒に信長の下へ届けられているだろう。
清正は毒に詳しくないが、忍びが暗殺に用いる類のものだということは容易に推察できる。
そして忍びがあの状態で殺傷能力の低い毒を使用するわけがないということを。
典医が顔色を変えたのは、光秀の身体が毒に冒されていることがわかったからだろう。
水を持ってくるようにという典医の声が室内に響き、控えていた小姓が慌てて清正の横を通り抜けて部屋を出て行った。
それを見るともなく目で追っていると、閉められた襖が開いて信長が姿を見せたので、清正は慌てて膝をついた。
平時ですら圧倒される威圧感を持つ信長の表情は時折見るよりも遥かに機嫌が悪そうだ。

「信長様…」

声をかけたのは蘭丸だ。
信長は清正に一瞥をくれてそのまま光秀の下へと足を進めた。

「ふむ…どうだ」
「傷が深いせいか出血がひどうございます。その上毒も盛られていたらしく、全身に毒の兆候が見られ…正直助かるかは…」
「ならぬ。必ず助けよ。光秀が命、失うことになればうぬの首が飛ぶと思え」
「…は、ははっ」

声に含まれる鋭い怒気に清正自身が叱責されたような気がする。
信長が来てしまった以上光秀の様子を窺うことはできず、かと言って部屋を出て戻るにも容態が気になって仕方ない。
どうすることもできずに動けない清正の肩を蘭丸が叩いた。
こちらへと声もなく連れ出されたのは廊下を挟んだ部屋で、蘭丸が襖を閉めると同時に気が抜けたせいか膝から畳へとへたり込んだ。
そんな清正の前に水の入った手桶が差し出された。

「手をお洗いください。…服も、そのままではお困りでしょう」

言われて初めて清正は己の身体を眺めた。
両手はべっとりと血糊で汚れている。
服も同様で冷静に見れば戦場でもないのに血に濡れた格好は酷く物騒だ。
桶に手を浸せばあっという間に水が赤く染まる。
洗い流した手を蘭丸がしげしげと眺める。
何事かと思ったがややして蘭丸が安心したように吐息をついた。

「どうやら傷はないようですね。解毒の必要はなさそうです」
「解毒?」
「そちらは光秀様のものでございましょう」

言われて初めて気が付いた。
光秀を傷つけたのは毒を塗布した苦無だ。
当然傷口から流れた血にも毒は付着しているはず。
だが、ここまで警戒するとなれば、それは相当の猛毒ということになる。

「まさか…」
「確実には言えませんが、おそらく緑青か烏頭ではないかと匙は診ております」
「烏頭だと?!」

烏頭は猛毒だ。
忍びが良く用いるものであるし、解毒剤がないため暗殺にはこれ以上ないほど最適である。
だがそれなら光秀はどうなる。
少量でも命を落とす毒だ。
血が毒を流したとは言え、そんなのはせいぜい傷口付近に付着していたほんの僅かな量でしかない。
体内に入ってしまった毒は流れることなく光秀の全身を蝕んでしまう。
清正はまだ知人の死に立ち会ったことがない。
つい先程まで楽しそうに笑っていた人を失うかもしれないという事実を受け入れるには、清正はまだ若かった。
言葉を交わしたことは数える程度、それでも温厚な人柄は好感を抱くには十分で。
初めて会った時は女性と間違えて淡い気持ちを抱きかけた相手だ。
死んでほしくない。
だが、清正にはそれを止める手段が何一つない。
清正は己の手を見た。
つい先程までこの腕に抱いていた人を思い出す。
軽い身体だった。
細身だと思ってはいたが、装束の重さを入れてもまだ想像よりも軽くて驚いた。
まるで羽のようだなどと状況にそぐわない感想を抱いてしまうほどに、光秀の身体は光秀より小柄な三成や秀吉より軽かった。
そんな細い身体で、今、光秀は死と戦っている。
勝てるかどうかわからない戦だ。
思わず光秀の下へと進みかけた身体を蘭丸が制した。

「なりません。信長様がおられます」
「あ…あぁ…」
「大丈夫。光秀様は強い方です。信長様の許しなくその命、無駄に散らしたりはなさいませんと、蘭は信じております」
「…そうだな」

根拠のない言葉だが、清正はかろうじてそれを肯定した。
蘭丸の言葉が真実かどうかはともかく、蘭丸がそれを信じようとしているのを感じたためでもあるし、何よりも自分自身がその言葉を信じたいと思ったからだ。

「ともかくお召し替えをなさってください。その服も処分しなければなりませんので…」

主君の城内で、いつまでも毒の付着したままの服を着ているわけにもいかないのは当然だ。
清正は蘭丸が用意した着物に着替え、汚れた着物は蘭丸が汚れに触れないように風呂敷に包んで持っていった。
この部屋にいることを咎められたわけではないが、いつまでもいるわけにもいかず、仕方なくいつも自分が登城した際に用意された小姓部屋に向かったのだが、そこには自分と同じかそれ以上に消沈した三成がいた。
壁に背を預け幼い子供のように膝を抱えて座っている姿は痛々しい。
三成は実直で真面目で、責任感の強い男だ。
そんな三成が己の失策が原因で光秀に瀕死の重傷を負わせてしまったのだから、己を責めるなというほうが無理だろう。
むしろ心痛は清正の比ではないはずだ。

「佐吉…」

名を呼べば大仰なくらい肩が跳ねた。
泣いているのだろうか。

「佐吉」

清正はもう一度名を呼んだ。
三成はゆっくりと顔を上げた。
泣いてはいなかったが瞳が不安定に揺らめいている。

「明智様は…」
「まだ治療中だ。傷よりも毒が危険だと…」
「そうか…」

そういうなり三成はまたもや膝に顔を埋めてしまった。
その姿が落ち込んでいるだけではなく何かを抱え込んでいるように見えた清正が三成の上体を起こせば、三成は小さな風呂敷包みを抱えていた。
藍色の風呂敷包みは清正も見覚えがある。
信長への土産だと言っていた。
内緒ですよと笑っていた姿を見たのはつい先程だ。

「俺が…」
「佐吉?」
「俺があの時止めを刺さなかったから…」

あの時、三成が仕留めたと思っていた忍びは瀕死の状態ながら生きていた。
光秀と秀吉はほとんどの忍びを殺してしまうだろうと思った三成が、あえて首謀者を聞きだすために生かしておいたのだ。
しばらくの間動けないだろうと思っていたのだが、どうやら忍びは三成の予想以上にしぶとかったらしく、最期の力を振り絞って苦無を投げたのだ。
光秀ではなく三成を狙ったのは、己を仕留めた男に対する意趣返しだったのだろうか。
清正が怒りに任せて叩き斬ったせいで確認する方法は最早ない。
結果として三成を庇った光秀の肩に苦無は突き刺さり、光秀が傷を負ったということである。
三成の取った行動はおそらく間違っていない。
忍びを放ったのがどこの武将か知る必要があったのは事実だし、少なくとも1人か2人は生かしておかなければいけなかったのだ。
清正もそう考えてはいたのだが、刀を交えてしまえば実戦経験のない清正が手加減なんて出来るはずもなく倒した忍びは絶命してしまったが、光秀と秀吉もそれをわかっていて1人ずつ生け捕りにしていた。
間違ってはいなかったのだ。
ただ相手の手足を封じておかなかっただけで。
いくら知識があったとしても初陣もまだの三成にそこまで求めるのは厳しいだろう。
襲撃に遭遇したのも偶然なら、三成たちが参戦することも突然だったのだ。
捕縛する道具など用意しているはずがない。

「俺のせいだ…」
「それは違う、佐吉」
「違わない」

清正が言うのに、三成は静かに首を振る。
清正を見上げて泣きそうに顔を歪める。

「俺は…怖かったのだよ」
「佐吉…」
「刺客とは言え人の命を奪うのが怖かった。生け捕りにする必要もあるだろうと思ったのは確かだが、あの方がそれに気付いていないわけがないこともわかってたのだ」

武人でありながら人を斬ることを躊躇した。
何よりも許せないのはそんな己なのだろう。
子供の頃から一緒に暮らしているが、このように弱気な三成は初めて見る。
かける言葉が見つからなくて言いよどんでいると、襖が開いて秀吉が姿を見せた。

「佐吉が随分気にしてるではないかと思うておったが、やはり当たりだったようじゃな」

お前は光秀殿に憧れておったからなぁという声に、三成の身体が目に見えて震えた。
誰に対しても尊大な態度を崩さない三成だが、秀吉以外に敬意を持って接している武将と言えば、実は光秀だった。
清正と同様あまり接する機会はないが、時折会えば穏やかに挨拶をしてくれる光秀に対してだけは態度が普段よりも柔らかかった。
上背はあるが細身の光秀の戦い方は、同じく体格に恵まれていない三成にとって学ぶものは多いのだろう。

「佐吉。儂らは武士じゃ。戦で武功を立てるのが仕事だが、戦じゃのうても常に命の危険には晒されておる。光秀殿とて例外ではない。むしろ信長様の片腕と呼ばれる光秀殿は儂らよりも余程危険な立場に立っておるんさ。このような危険は、光秀殿だけでなく儂にとっても正直珍しくない」
「…わかっています」
「光秀殿だって己の命を粗末にするようなお人じゃない。今回はちょっとばかりヘマをしてしもうたが、何、光秀殿ならば信長様が閻魔大王に喧嘩を売ってでも取り戻してくださるから安心せい。そんなことより、光秀殿が気が付いた時に佐吉が自分を責めてばかりいては、あの人はその方が悲しむに違いないぞ」

くしゃりと頭を撫でられて、三成は途方に暮れた子供のような顔をした。
秀吉の顔は明るい。
だがそれは光秀が回復すると信じている顔ではない。
三成にそう信じさせるための演技だということは清正にもわかった。
秀吉にとって光秀という人物は微妙な立ち位置にいる相手だ。
同僚としては頼もしいし間違いなく有能だと認めている。
だがいずれ自分の天下を狙おうと目論む秀吉にしてみれば、信長から一番の信頼を受けている光秀は目の上の瘤と呼んでもいい。
光秀に出世欲がまるでないためにお互いの関係は良好だが、ここで光秀に万が一のことがあれば秀吉の織田家での力は益々強くなる。
光秀が瀕死の重症を負っていること、三成が無事だったこと。
それらは秀吉にとって喜ばしいことなのだが、だが、そんな損得勘定抜きにするほど光秀の容態は気にかかっている。
それはこのまま光秀が亡くなったら三成の心に傷を負わせてしまうという危惧もあるが、それ以上に秀吉は無欲でありながら実直な光秀のことをかなり気に入っていたからだ。
だから、助かってほしいと素直に思う。
清正も頷いた。

「佐吉。蘭丸殿は明智殿は強いから大丈夫だと、死なないと信じていると言った。俺も…信じたいと思う」
「虎…」
「信長公も蘭丸殿も秀吉様も。皆が明智殿が助かると信じているんだ。俺達も信じようじゃないか。なぁ」

城へ向かう途中、朦朧とした意識の中でも光秀は己の怪我は三成のせいではないと言っていたのだ。
くれぐれも気に病むなと。
毒に冒され苦しい息の下からそう呟いたのを、清正は聞き逃さなかった。
三成がいつまでも落ち込んでいるのは光秀に対して失礼だ。
そう諭せば、藍染の風呂敷を握り締めた三成がようやく頷いた。


  • 烏頭…うず。ぶすとも呼ばれる。毒として用いるトリカブトの別名。
  • 10.10.25