城へと続く道を歩いていた光秀は、そのまま横道へと足を進めた。
それは光秀が登城することを知らない者から見たら極自然な動作で、だからこそ周囲を歩いていた者は誰1人としてその行動を訝しんだりしなかった。
その道は街道へ続く近道となっているのだが、通常使われる道ではないためあまり足場が整っていない。
又、景色の美しい道ではあるけれど急勾配などが多いため馬や荷台の通行には適さず、それ故に利用者も少ない道だった。
そのため城下町からそれほど離れていないというのに通行人の姿はいない。
それでも躊躇なく歩いていた光秀は、城下の声がほぼ聞こえなくなった頃になってようやく足を止めた。
人気はないが景色は良い。
だが景色を楽しむためにこの場所へ来たわけでない光秀は、店主が丁寧に包んでくれた土産を木の切り株に置いて声を出した。
「さあ、出てきなさい」
店を出てからしばらくして、光秀は自身を尾行してくる人影があることに気付いていた。
不自然な強い視線は常人ならば気付かないだろうが、生憎光秀は歴戦の将である。
又、自身の性別を隠していることもあって他人の視線には鋭い。
よくよく意識して気配を探ってみれば、背後の男の他にも数人光秀の後をついてきているようだった。
おそらく忍びの類だろう。
信長の領内に侵入してくるだけでもそれだけの手練だと分かる上に、城下町まで入り込んでいるということはただの草の者ではない。
間違いなく何かの任務を受けている忍びだろう。
光秀自身注意しなければわからないほど微弱な気配はそれだけ相手の実力が優れている証拠で、後をつけてくるとは言っても攻撃してくる気配はなかったのだが、安土城下を探っている忍びがいると知ってしまった以上、光秀としてはこのまま見過ごすことはできない。
「出てこないのならば、こちらから仕掛けますが良いですか」
幾分声を厳しくして鯉口に手をかければ、ガサリと上空の枝が揺れた。
風を斬る音がして飛んできた何かを避ければ、それが地面に突き刺さった。
忍びが使う苦無だと視界の端に留めながら視線を転じれば、上空から2人の忍びが降ってくるところだった。
振り下ろされる刀をかわし胴体に一閃、背後から迫ってくる人影を躊躇なく返した刀で斬りつけた。
声もなく地に伏した忍びに、背後にいた人物が怯んだ気配を見せる。
「どこの手の者です?」
感情の篭らない声はあくまでも静かで、瞬時に2人の忍びを斬り捨てたとは思えない。
怜悧な眼差しがひたりと刺客に向けられる。
全身黒に身を包んだ装束はどこの忍びも同じ。
情勢から考えれば島津か毛利。それとも北条か。
北条ならば風魔。彼らは総じて手練で目的のためには手段を選ばないために少しだけ厄介だ。
1対3では流石に分が悪いが、光秀とて腕に覚えのある武将。
そう易々と不覚を取るつもりはない。
血飛沫を上げる身体をもう1人へと押しやり交わそうとして飛び上がった瞬間を狙い足へと斬りつけた。
切断する勢いで斬りつけたのだが、生憎相手もそれを読んでいたらしく身を捻ってかわされてしまい片方の足に傷を負わせる程度にしかならなかった。
だが足を封じてしまえば、それほどの脅威にはならないだろう。
忍びの俊敏さは当然だが、光秀も身のこなしも十分に軽い。
それは武将というよりもむしろ忍びのそれに近いほどのものだが、知っている人物は意外と少ない。
戦場で戦うために必要なのは剣技であり、光秀は神速と呼ばれるほどの剣技の持ち主だったために、身のこなしまでもが神速だとはあまり知られていないのだ。
だからなのだろう、僅かな時間で3人の仲間を切り伏せられた相手が明らかに動揺を見せた。
商人の格好をしているけれど、この男も間違いなく忍びだろう。
普通の商人は足場の悪く人通りの少ない道を選んで行商などしない。
「私の質問に答えてもらいましょうか。織田にたてつく者なら容赦はしませんよ」
織田家髄一の武将と呼ばれる光秀だが、本来の性質は穏やかで無闇に血が流れる戦を好まない。
殲滅を望む信長に対して勘気を受けることを承知の上で必要ないと進言することとて一度や二度ではない。
甘いと言われることも少なくないが、流れる血が少なければ少ないほど覇道には価値があると信じている光秀は、こうやって無感情に敵を屠る戦をしたことがなかった。
だが、いくら甘い光秀とて守るべきものは何かということは重々承知である。
ここは安土城下。
信長のお膝元を敵国の忍びが我が物顔で闊歩することなど許しておけるはずがない。
「もう一度聞きます。どこの手の者です」
血に濡れた剣を相手につきつけ、光秀は問う。
幾分低くなった声と、すうっと細められた眼差しが光秀の本気を表している。
光秀の持つ剣は秀逸だ。
高名な鍛冶師が己の心血を注いで作り上げた逸品。
霊剣布都御魂と名付けられたそれは過日の戦の褒美として信長から拝領したものだが、宝剣のように美しいだけでなくその切れ味も鋭い。
本多忠勝の蜻蛉斬に勝るとも劣らぬ刃は大岩をも簡単に両断し刃こぼれ一つしないほどだ。
装飾にいくつか宝石を使っている上に鋼なのだからそれ相応の重さもあるはずなのだが、光秀の手にあってはまるで羽の如く軽く感じられる優れ物であり、正に霊剣の名に相応しい傑物なのである。
ただでさえ神業めいた実力を誇る光秀にそのような刀が加われば、たかが一介の忍びなど取るに足りない相手だ。
陽光を受けて輝く白刃を前に、商人に扮した男は逃げ出すべきか否か悩んでたたらを踏んだが、光秀を前に逃げ切れないことを悟ったのだろう、その右手が高々と天へ上げられた。
次いで多方面から放たれた手裏剣。
光秀は己の剣でそれを防ぐ。
どうやら予想以上に刺客は多かったらしい。
それとも光秀がこの道に誘導したことに気付いて周囲の忍びを総動員したのだろうか。
最初に感じた気配は大人数ではなかったために、おそらく後者が正しいのだろう。
どちらにしろ1人では手に余るほどの人数が光秀の周囲に降り立った。
流石の光秀も人海戦術に出られては少々分が悪い。
1人1人切り伏せていくことは可能だが、いくら何でも城下町からそれほど離れていないこのような場所で死闘を繰り広げるのは好ましくない。
かと言ってこのまま逃げるわけにもいかず、さてどうしようかと周囲に視線を配ると前方から何者かが馬を駆ってやってくるのが見えた。
敵か味方か見極めるべく視線を移した光秀は、馬に乗る人物を認めて僅かに目を見開いた。
「光秀殿! ご無事か?!」
「秀吉殿」
やってきたのは豊臣秀吉。
そして彼の子飼い武将である加藤清正と石田三成だった。
何故と思う間もなく気色ばんだ忍びが襲いかかってきたため、問いに答えることもできずに光秀は剣を振るった。
ばたばたと斃れていく姿に感心したように秀吉が口笛を吹いた。
「こりゃあ、儂の出番はいらなかったようじゃの」
そう言いながらも馬を下りて駆け出した。
「お前らもできたら加勢してくれ。但し、くれぐれも怪我をするでないぞ」
「承知しました」
「普通に無理でしょう、それは」
秀吉の言葉に清正は嬉々として頷き、三成は柳眉を寄せた。
どう見ても手練の忍び。
対して自分達は初陣こそ済ませたもののまだまだひよっこの小姓だ。
怪我をするなというのは無茶だと三成が呟くものの、そう言いながらも持っていた鉄扇で忍びを撃退している姿は自身がひよっこと思っているよりは余程頼もしい。
「秀吉殿。どうしてここが?!」
「何、ちょうど城下を歩いていたら何やらきな臭い感じがしたものじゃからの。寄り道して正解じゃった」
「ご協力は感謝しますが、あなたが怪我をしたら奥方が哀しまれますよ」
「うひゃあ、それを言われるとつらいのう。大丈夫、せいぜい怪我せんように頑張るさ」
軽口を叩きながら敵を切り伏せている姿に、清正と三成は手を止めて呆然と見つめた。
秀吉の実力が秀でていることは知っている。
小姓として共に戦に付き従ったことがあるからだ。
だが光秀の実力は噂でしか聞いたことがない。
神のような剣技を持つと聞いてはいたが、噂は得てして大袈裟になるもの。
せいぜい秀吉と互角もしくは若干劣るだろうと思っていたのだが、こうして目の前で見る光秀の動きは噂よりも遥かに秀でたもので、まるで舞を舞うかのように動き一太刀で忍びを切り伏せている姿は、普段穏やかに笑んでいる姿しか知らない清正や三成にとっては予想外でしかなかった。
武将の中では細身で腕も成長期の清正より細い。
三成は2人倒しただけで息が切れているというのに、あの細い身体のどこにそれほどの力があるのか不思議で仕方ない。
あれほどいた忍びの数も、気がつけば数えるほどしか残っていない。
逃げた忍びも僅かながらいたが、ほとんどが光秀と秀吉に斬り捨てられていた。
「凄いな…」
「あぁ…」
これが信長最大の懐刀と呼ばれる男の実力かと見やっていれば、程なくして立っているのは光秀と秀吉だけになった。
「ご助勢ありがとうございます。お陰で助かりました」
「何の。光秀殿にとってはこの程度大した相手ではなかろう。邪魔をしたかと案じたが、僅かでも手伝いができたならよかったさ」
秀吉の言葉に笑顔を浮かべる光秀は、とてもじゃないが先程まで虫でも払うかのように刺客を屠っていた男には到底思えない。
僅かに息が上がっているだけで特に疲れた様子も見られないのだから、流石と言うしかないだろう。
体格に恵まれているとは言えない三成にとって、光秀の戦い方は参考にするべきだろうと先程の動きを脳裏に焼き付ける。
尤も己が真似できるかと言われれば非常に心許ないのだが。
「ん? 光秀殿。それは何だ?」
刀を収めた光秀が切り株の上から風呂敷包みを取り上げたのに気付いた秀吉が首を傾げる。
光秀はああと笑みを浮かべた。
「城下の茶屋で新作の菓子が出ていたのです。信長様が喜ぶかと思いまして」
「なるほど。あの店は信長様もお気に入りじゃからの。さぞお喜びなさいますじゃろうて」
「だといいのですが。多めに買いましたので、秀吉殿もよかったらどうぞ。加藤殿や石田殿も」
「…良いのですか?」
「勿論です。生憎それほど多くはないので、こっそり頂くことになりますが」
内緒にしてくださいねと子供のような笑顔を浮かべる光秀に、思わず至近距離から直視してしまった清正と三成の顔が赤くなる。
普段はどことなく他者と壁を設けているような光秀だが、時々こういう風に無邪気に笑うことがある。
ただでさえ傾国と呼ばれても可笑しくない美貌の持ち主なのだ。
思わず目を奪われてしまうのも無理はないだろう。
それよりも早く城へ戻らなければと呟いた光秀に、三成が馬を引いて近づいた。
「良かったらこちらの馬を使ってください」
「ですが、そうしたら石田殿が…」
「私は清正の馬に乗せてもらうから大丈夫です。――虎、いいか?」
「あぁ。城まではまだ少しあります。どうぞ乗ってください」
「ですが…」
「光秀殿。佐吉は一度言い出したら聞かぬでな。不都合がなかったら使ってくだされ」
城まで距離はあると言っても歩いていけない距離ではない。
申し訳ないからと辞退しようとする光秀に、三成の性格を良く知っている秀吉が助け舟を出す。
三成は言葉こそ少ないものの気配りは秀吉の配下では髄一だ。
そんな三成が自分より身分が上である光秀を徒歩で行かせるわけはなく、このままではどちらも引かないだろうと思ったのだ。
そこまで言われて断っては三成も気分が良くないだろう。
疲れているわけではないが、大掛かりな立ち回りをしたばかりだ。
一刻も早く信長に報告もしなければならない。
ここは厚意に甘えておくのが礼儀に適う。
光秀が頷いたので三成は馬の手綱を光秀へと手渡した。
そのまま清正の元へ行こうとした三成は突然背後に違和感を感じて振り返ろうとしたが、背中から覆い被さってきた何かと一緒に地面に押し倒された。
ふわりと薫る花のような香りに一瞬意識を取られる。
誰かが三成の背中に覆い被さっているのだと気付いたのはすぐだった。
秀吉と清正は既に馬上にいた。
誰がなんてこの状況では1人しかいない。
「明智様!」
「光秀殿!」
2人の鬼気迫る声にただならない事態だということがわかった。
何とか身体を反転させてみればやはり自分に覆い被さっていたのは光秀で。
だが、その表情は先程まで見せていたものとはまるで違う。
苦悶に眉を寄せ、額には脂汗。
「何が…」
ずるりと崩れ落ちる身体を咄嗟に支えようと手を伸ばせば、ぬるりと嫌な感触があった。
助け起こそうとした身体はくったりとして意識もない。
見れば左の肩に苦無が刺さっていた。
徐々に広がっていく赤い色に、相当深く刺さっていることがわかる。
どこから飛んできたのかと視線を巡らせば、倒れ伏していたと思われる忍びが半身を起こしていた。
「あ……」
目の前が暗くなる。
三成が倒したはずの忍びだった。
- 10.10.22