光秀は城下を歩くのが好きだ。
自分の治める領地を視察するのは領主の務めだが、そういう大義名分を抜きにしても光秀は好んで単身で城下へ下りることが常だった。
領民が安らかに過ごしているか不逞な輩が徘徊していないかなどは城内にいるだけでは分からないことが多い。
特に光秀が治める近江国は京に繋がる街道がいくつもある場所であり、京への不審人物の侵入を阻止する役目を担っていることもあり、国内の治安は何よりも重要視するものだ。
だが光秀が好んで城下へ下りる最大の理由は領民の笑顔を見たいという単純な気持ちが強かった。
己の治める所領のみならず安土城の城下へも好んで歩き、気軽に民へ声をかける。
それは特に光秀に限ったことでもなく、光秀よりも信長の方がお忍びで城下へやってくることの方が多いかもしれない。
他国では魔王と呼ばれる信長であるが領民への心配りは細かく、そのため尾張国の領民はとりたてて明るい表情の人が多い。
むしろ信長の悪名が犯罪を防ぐ抑止力となっているようで、光秀が知るどの国よりも尾張の治安は良いと言っていいだろう。
信長は新しいものを率先して取り入れる。
先年導入した楽市・楽座のお陰で城下には歌舞音曲が絶えることはない。
至る所で能や歌舞伎の演目が紹介され大道芸の類も多く、それらを見ているだけでも飽きることはない。
光秀の領地は治安も良く領民も心優しい者がほとんどだが、尾張のような活気は残念ながらない。
穏やかな近江と活気溢れる尾張。
これも治める者の人柄を反映しているのだろうと思えば何となく面白くて光秀は小さく笑った。
多くの武将は誤解しているかもしれないが、織田信長という人物はあれでかなりの領民思いだ。
いずれ信長が天下を治めれば、日の本全土がこのように活気の溢れる場所になるのだろう。
その手伝いを出来ることは光栄なことのように思えた。
光秀が仕官してから数年。
武将としても織田家重鎮に席を置き、信長のお忍びに同行する姿も珍しくなかったためか、安土城下の領民に明智光秀の顔と名前は良く知られていた。
女性と見紛うほど繊細で秀麗な顔立ちとしなやかな動作は誰であっても見惚れてしまうもので、又、光秀自身身分など関係ないとばかりに気さくに話し掛けてくるものだから、尾張の民にとって光秀は信長側近の中でもとりわけ好ましい武将なのだ。
供も連れずに城下を歩く姿は無防備に見えるが、大仰に部下を伴って街道を闊歩する多くの武将に比べれば市井に溶け込むように行動する光秀の方が好まれるのも当然。
況してや光秀は誰それが難儀していると聞けば、それが山奥だろうが田舎だろうが足を運び改善できるよう信長に進言してくれるし、幼い子供たちには珍しい菓子などを配ってくれることもある。
そんな光秀にまず子供たちが懐いた。
そして子供たちに笑顔で接している光秀の姿に、年若い女性やら子供たちの母親らが好感を抱いた。
更にはその外見と物腰の低さが男達の目にも好ましく映り、今では光秀は城下ではかなりの人気者である。
歩いていれば多くの店から声をかけられることも珍しくない。
「明智様、明智様」
いつものように城下を散策していれば明るい声が光秀を呼んだ。
声のした方向へ視線を移せば茶店の主人の姿。
安土に店を構えて数十年という茶店は、店主の気さくな雰囲気と可愛い看板娘のお陰で城下でも有名だ。
勿論振舞われる茶や菓子が絶品であることも繁盛の理由の1つで、実は信長がお忍びで城下を歩く際に必ず立ち寄っている店でもあった。
信長のお忍びにはほぼ毎回同行している光秀の顔を覚えているのも道理だ。
「珍しいですね。今日はお1人ですか?」
「えぇ。少々時間が空いたもので、安土の活気を見たくなったところなんです」
「嬉しいことを言ってくださいます。近江も素晴らしい場所だと聞き及んでおりますが、安土の活気は日の本一ですからね。ささ、休んでいってください。妻が新しい菓子を開発したので、是非お味を見てやってくださいませ」
「かたじけない」
この茶店の菓子は団子が人気なのだが、店主の妻が作る創作菓子も中々のものだ。
実は甘味好きな信長が好んで寄るのは、休憩に適しているというのも勿論あるのだが、店で出される菓子が絶品だという理由も大きい。
品の良い甘さの菓子は口に入れるとふんわりと溶けるようで、滑らかな舌触りは極上の一言に尽きる。
決して高級な食材を使っているわけではない。
他の茶店と変わらない材料でありながらも突出した仕上がりなのは、店主がそれだけ手間をかけているからに他ならない。
光秀はそれほど甘味に詳しくないが、それでもこの店の菓子は美味だと思う。
新作が出たのならばここ数日城から出ていない信長はまだ知らないだろう。
蘭丸もここの団子が好物だ。
献上すれば喜んでもらえるだろうかと思い、店主にいくつか見繕ってもらうことにした。
用意された茶はほんのりと甘くて爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。
若々しい香りのする茶は菓子の甘さとはまた違う清涼感をもたらしてくれる。
たかが茶屋。だがそのこだわりは強く、これはどこそこの地域で作られた新茶だと嬉しそうに話す店主の話を聞くのも楽しい。
しばらくそんな話に耳を傾けていれば、そういえばと店主が話を変えてきた。
「最近城下で不思議な噂があるのですが、明智様はご存知ですか?」
「噂、ですか?」
「えぇ。何でも『世にも稀な美女がお武家様を探している』とか何とか。絶世の美女と言えばお市様が有名ですが、はてそんな美女が一体誰を探しているのかというのがもっぱらの話題でしてね」
「…その女が探している人物とは誰なんでしょうか」
「それがわからないんでさ。何せ美女に会ったという人すらわたしらは会ったことがないものでして…。お客さんから聞いてはいるんですけど、聞けば聞くほど変な話で…」
「変、とは」
声を潜めた店主に光秀が訝しげな視線を送る。
「人探しをしているという美女に会った人は少なくないんですが、美女と会った後の記憶がぷつりと消えているって言うんです。気が付いたら家で寝ていたとか、道で寝ていて衛士に起こされたとか。まるで狐に化かされたみたいだって口々に言ってます」
しかも武将を探していると言いつつも声をかけられるのは町民ばかり。
声をかけられるのは街道だったり宿場町だったりまちまちだが、多くが二十代の若者で見目が良い男が多かったという。
何かを盗られるとか危害を加えられるというわけではないが、目的が分からなくて気味が悪いと密かに噂になっているようだ。
「…確かに奇怪な話ですね」
目撃証言が少ないせいかそのような話は城には上がってきていない。
大体が城に話が届くのは民に被害が起きてからだ。
こうして話を聞いておけば事件を未然に防げることもあるだろう。
「わかりました。こちらでも対処は考えますが、とりあえず怪しい人物には近づかないように、お店でそれとなく話しておいてもらえると助かります」
「はい。それは勿論。ありがとうございます」
店主は深々と頭を下げる。
尾張国で民思いの領主と言えば数多くいるが、その中でも行動力があり発言力があるのが光秀だ。
君主である信長には直接奏上することなど恐れ多いことだが、こうして頻繁に城下へ足を運んでくれる光秀には確証のない噂話でさえも気軽に相談することができる。
たとえ小さな、それこそ子供の戯言に過ぎないような話でも、光秀は無碍にしない。
それを吟味し、必要とあらば信長に直接奏上してくれる。
結果として噂話でしか過ぎなかった野党や人買いを摘発できたことも一度や二度ではない。
だからこそ尾張の民は光秀に好意を抱き、そんな光秀を重用する信長を敬愛している。
土産の菓子を手に城へと戻っていく後ろ姿を、店主は晴れがましい思いで見送った。
彼らがいる限り、尾張国は平穏であり続けるだろうという確信を胸に抱きながら。
だが、そんな光秀の後姿を見送る別の視線があることに、店主は勿論光秀もまだ気付いていなかった。
- 10.10.15