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雪・月・華 03


幼い頃、光秀の傍にいたのは母と、乳母の八重のみだった。
物心ついた時から母と八重の光秀に対する執着は並々ならぬものがあった。
光秀に近づく人間は、2人によって徹底的に排除させられた。
父は勿論のこと、父の家臣達からも距離を取らされ、更には身の回りの世話をする侍女ですら母が許した人物とは口を利くことすら禁止させられるほどだ。
その中でも特に厳しかったのは父に対してで、父が光秀のためにつけた侍女が気に入らぬと、それこそ早ければその日のうちに交代させられてしまうことも珍しくなかった。
光秀の性別が露呈するのを避けるためなのだろう。
だが、2人のそれは少々常軌を逸していた。
それは父手ずから施された武術の稽古でも発揮され、道場へ連れて行かれては母の目が届かないからという理由で、光秀の稽古は庭先で行われることが常だった。
おそらく光秀が傷を負っても武術の稽古をやめないだろう父に対しての牽制もあったのだろう。
光秀の身体に傷がつくことを母はひどく嫌った。
光秀とて好きで怪我をしているのではない。
武術が上達するには多少の怪我も仕方ないと思っていたのだが、母にとってその理由は通用しなかった。
それでも最初のうちはそこまでひどくはなかったのだ。
母様は厳しいなという苦笑と共に、それでも父は嫌な顔をせず丁寧に剣術を教えてくれていた。
その頃の父は嫡男としての自分を確かに慈しんでくれていたし、母もそんな父と子の様子を見て嬉しそうだったように記憶している。

きっかけはある夏の日のことだった。
いつものように庭先で剣の稽古をしていた時のことだ。
遊戯のようなそれは父にとっては大した運動ではないだろう。
だが幼い光秀にとって竹刀は重いもので、又、精神を研ぎ澄ます剣術の稽古は意外に重労働で鍛錬が終わる頃には光秀の全身には滝のような汗が流れ着物の襟の色すら変わってしまうほどだった。
折りしも夏の陽射しが厳しい日だったために、流石の父も額に玉のように汗を浮かべていた。

『汗をかいたから川へ水浴びにでも行こう』

その父の一言が母の逆鱗に触れた。
水浴びなどをすれば女だとばれてしまう。
母にしてみたら必死だったのだろう。
母の拒絶は尤もだった。
だが父にしてみればそれこそ理不尽な我儘でしかない。
況してや何故そこまで頑なに反対するのか理解できないののだから尚のことだ。
父は何もおかしなことを言っていないのだから。
ただ、息子と2人で水浴びをしようかと。本当にそれだけのこと。
近くの川は川というより沢と言った言葉の方が相応しいほどささやかなもので、特に水が少ない今の時期ではいくら光秀が幼いからといって川に流されるような危険もない。
何よりも父が一緒なのだ。事故など起こるはずもない。
そう何度説いても母には通用しなかった。
烈火の如く怒り始めた母は泣きながら光秀を腕の中に閉じ込めて離そうとしない。
わけもわからぬまま、それでも父が折れるしかなかった。

その日からだった。
母はあからさまに光秀を父から遠ざけ、剣術の稽古ですら片時も目を離そうとしなくなり、たとえ稽古の一環であっても父が光秀に触れることに激怒した。
まるで敵であるかのように父を邪険にしている母に、だが光秀は母への絶対的な思慕を植え付けられていたために反発することもできず、結果、父の足は次第に母と光秀から遠ざかっていった。

外に男児を設けたと聞いたのはそれからほどなくのことだったが、母は「それは祝着にございます」と一言だけ。
まるで関心などなさそうな様子に、父の足は母の下から完全に遠のいた。
そんな母に外見は瓜二つの光秀である。
顔も見たくないのだろうか、それとも母の悋気を煩わしく思ってのことだろうか、剣術の指南は父ではなく家臣の役目となり、そうして父の足は光秀の下からも完全に遠のいたのであった。
その剣の指南役も基礎を教え終えた頃には母によって遠ざけられ、光秀は八重に武術の全てを手ほどきされることとなった。
乳母の八重は不思議な人物だった。
母に似た美貌の持ち主でありながらも女性としてのたおやかさをあまり持っておらず、文武においておよそ女性らしくない女性だったのだ。
いつだったか父が不在の頃に屋敷に男が乱入してきた。
父が仕えていた斉藤家の上役だった。
絶世の美貌と謳われた母の顔を見にきたのだと言っていたが、あわよければそのまま手慰みにと思ったのかもしれない。男は酒がかなり入っていた。
突然部屋に入ってきた男に、母も光秀も唖然とした。
特に父と少数の家臣しか大人の男性を見たことがなかった光秀にとって、目の前の粗野な男が一体何をしに来たのか想像もつかなかった。
男の眼差しが母に向かい、酒に酔った目がギラリと光った。
瞬時に何かを悟った母が光秀の腕を取り逃げようとするその前にひらりと躍り出た紺の袿。
すると目の前の男はごろんと床に転がりピクリとも動かなくなった。
八重が扇子で男の首をしたたかに叩き気絶させたのである。
騒ぎを聞きつけた門番が駆けつけるよりも早い、正に一瞬のことであった。
そういう経緯があってだろうか、光秀の武術の指南役に八重が名乗りを上げても父は反対しなかった。
尤も光秀の養育に関して父は口を挟むことを許されておらず、又、父にとっても母の癇癪に巻き込まれることが面倒だったために反対する気は最初からなかったのだろう。
その頃には父の愛情は全て義弟に行ってしまっており、光秀と父との関係は他人よりも遠い存在となってしまったのだが、幼き頃より幾分成長した光秀は自分の立場というものがわかっていたために、光秀自身も敢えて父に近づこうと思わなかった。
そのため光秀の周囲には母と八重しかおらず、光秀は人付き合いというものを育まれないまま成長していったのである。

母が亡くなり八重が去り、そして1人残された光秀が感じたのは空虚だった。
母以外に頼る術を知らず、乳母以外に甘える人を知らない。
父は生活の面倒を見てくれたがそれだけだ。
愛情を与えてくれるわけでも顔を見せてくれるわけでもない。
母が亡くなったために正室となった女性との間に生まれた2人の息子が可愛くて仕方ないのだという噂を耳にしてしまえば、光秀は父に甘えることなどできるはずもなかった。
真綿に包まれていたように育てられてきた。
それらを失った光秀には冷ややかな空気のみを纏う屋敷での生活が耐えられるはずもない。


元服を済ませた翌日に姿を消した光秀を、父は探そうとしなかった。





   ◇◆◇   ◇◆◇





光秀は父のぬくもりを知らない。
光秀を抱きしめてくれたのは母と八重だけで、それらは白く細くそして甘やかな香りがした。
だから、信長のように太く逞しい腕に抱きこまれてしまうとどうしていいかわからない。

伽を命じられた後は信長の腕に抱かれて眠ることがほとんどだ。
尤も行為の激しさに終盤の意識はほとんどなく、行為が終わると同時に意識を手放しているという言い方の方が正しいのだが。
本来ならば伽を命じられた者は、役目を終えれば部屋を辞すのが当然。
たとえ共寝を許されたところで眠る主を守るべく不寝番をするべきなのだが、閨の作法自体知らなかった光秀がそのような知識を持っているはずもなく、当然のことながら光秀は知らない。知る術がなかったのだ。
だからこそ主君である信長が一緒に寝るものだと言われれば素直に信じてしまうのも当然。
況してや光秀が信長の伽を務めていることを知る人物は信長と蘭丸しかおらず、本来ならば作法を教えてもおかしくない蘭丸ですら、主君から言わぬようにと釘を刺されてしまっているのだから、光秀が閨の作法について知ることはおそらくこれから先もないだろう。

「の、ぶなが…さま…」

うとうとと、最早瞼を開けているのも辛いだろう光秀が、だが、少々困惑したように信長を見上げてきた。
このまま眠っていいものか逡巡しているようでもあり、眠ることの許可を求めているようでもある。
そんな様子に年齢にそぐわない稚さを感じて信長は幼子にするように光秀の頭を撫でた。
絹糸のようにすべらかな髪は触っていてとても気持ち良く、止めるのも勿体なく感じて何度となく往復するうちにやがて光秀の瞼がとろんと落ちてきた。
家臣というよりは女性、いやむしろ子供のようなそれは、普段の光秀からは想像もできないものだが、何度となく見慣れた信長にとっては可愛らしいものでしかない。
すっかり眠りに入ってしまった光秀を腕に抱き、信長はしばし余韻に浸った。
光秀との情事は他のどの女性よりも充足感があり、普段ならば行為が済めば相手はすぐに部屋を追い出して一人寝に興じるのだが、どうしてか光秀にだけはそのような気にならなかった。
用意された布で己と光秀の身体を清めると、信長はまるでそうするのが自然というように光秀の身体を抱きこんで寝具に入る。
光秀は目覚める様子がない。
随分執拗に攻めてしまったということもあるが、それまでの疲労も重なったらしく泥のように眠っている。
恐らく朝までは目覚めないだろう。
信長の腕の中で目覚めた時の反応を思えばそれもまた楽しい。

信長が光秀を家臣に欲しいと思ったのは性別を偽っていたからでもなく、その容貌に惹かれたからでもない。
有能な人物がいるという評判を聞いたからであり、実際対面した光秀はその噂に何一つ劣るところなどなかったのだ。
部下としては誰よりも有能。
それだけでも十分だったのに、その武人が類稀な美女であったのだから信長としてはむしろ得をしたと思っている。
何しろ光秀は正に才色兼備、艶やかな黒髪と白磁の肌は言うに及ばず、涼やかな目元も整った鼻も普段はきつく結ばれている唇も、男としては勿論だが女性としても稀有な美貌の持ち主で、正に男ならば誰でも手に入れたいと思わせる存在だったからだ。
それほどの能吏。
仕える家をいくつも変えているということはそれだけ君主にとって扱いづらい人物なのだろうと思えば、性格は実直で勤勉。
己の頭脳を鼻にかけるようなことはせず、常に一歩控えて周囲を立てている姿は誠実というよりは卑屈にすら見えるほどだ。
だが求められた問いには即座に返し、提案した策が無謀だと判断したならば相手が君主であろうと指摘して最善の策を打ち出す。
正に得難いほどの傑物ではあったが、何故仕官が長続きしなかったのかと疑問を抱いたものだが、成る程光秀の秘密を知ってしまえばさもありなんと言ったところだ。
大方その美貌に惑わされた男どもから逃げるためだろう。
光秀の美貌はたとえ男色の趣味がない者ですら惹かれるものだし、その手の趣味を持つ者にとっては格好の標的のはずだ。
よくも今まで無事であったものよと、ある意味感心すらしてしまう。
だが、他家でのことなどどうでもいい。
光秀が無垢であったことは信長自身が良く知っているし、この先も光秀を手放すつもりなどないのだから。

「この信長に気に入られたことが、光秀にとって幸運か不幸か…さてどちらであろうな」

清らかな寝顔を見せる光秀に答えがないと知りつつも問いかけ、信長はようやく訪れてきた微睡に身を委ねた。


  • 10.09.24