静かな夜だった。
深夜も過ぎた時刻、巫女媛は1人水鏡の前に立ち揺らぎない水面を眺めていた。
広い神殿の更に奥、神に仕える巫女の中でも限られた人物しか入ることができない神託の部屋。
託宣や儀式の時にしか入らないであろう場所だが、神殿の長でもある巫女媛であるキラは誰に入室を咎められることはない。
禊を済ませたばかりの身に纏うのは白い着物1枚のみ。
足元まで届く長い髪はしっとりと濡れ、常の明るい色合いを深くしていた。
静謐な空気をたたえたこの部屋が、キラは大好きだった。
物心つくころから神に仕える巫女として神殿に入り、外界から隔絶されて育ってきた。
外出など数えるほどしかしたことなく、異性との会話などもってのほかだ。
神聖な国オーブの巫女媛としての立場は、ともすれば国王である父ウズミよりも尊い立場に位置するため、たとえ家族であろうとも御簾越しの対面となる。
巫女は神に仕える者。異性との接点は極力避けるように。
いつの頃からかそう言われて、十歳を過ぎたころから家族と会うことも制限された。
特に男子である父や兄と対面するときには、必ず他の巫女が傍に控えることになる。
家族同士の気軽な会話すら許されないのだ。
父ウズミはもとより兄カナードとも自由に会えないということはやはり寂しいものだけれど、だからといって家族を愛する気持ちが薄れるはずもなく、また彼らも忙しい公務の中から頻繁に時間を見つけて会いにきてくれることが嬉しかった。
何よりも双子の姉であるカガリが日に一度は会いにきてくれるために、家族と離れて暮らすことを寂しいと思ったことはない。
それは生まれた時からキラに仕えてくれる2人の友人のお陰でもあるのだけれど。
波一つ立たない水面に、白い手がす、と伸びる。
かすかに触れると水鏡がゆらりとゆらめく。
上空の満月を映していた景色が歪み、ややして違う光景が映し出された。
しんと静まり返った街並み。これは王都カグヤの様子だ。
神殿の奥から出たことのないキラだったが、この水鏡のお陰でオーブの様子はよく知っていた。
巫女長のみが持つ神力と言えばいいのか、キラは幼いころから自分の望む情景を水鏡に映すことができた。
オーブの異変、国内外の情勢。それらすべてがこの水鏡のお陰で手に取るようにわかる。
オーブが小さな島国でありながらも社会情勢に聡いのは、巫女媛の神力によるものが大きい。
特にキラの持つ神力は歴代の巫女長の持つそれとは比べ物にならない。
「今年は例年通り、かな」
水鏡に映る星を見ながら、キラはぽつりと呟く。
星見によって天候を把握できるのは、長い歴史上キラしかいないのだ。
元々天候には恵まれているオーブではあるが、だからといって嵐や旱魃がないわけではない。
特に王都から離れた地方では、度々水害が起きている地域もある。
地方からの報告が届くよりも早く対応できるのは、やはりキラの持つ星見能力のお陰なのだ。
だが、今キラが気になるのは天候のことではない。
「――…」
ゆらり、と水鏡が揺らめいて見知らぬ街並みが映し出される。
(また…)
ここ数日水鏡に異変があるのだ。
キラが望まなければ何も映さない水鏡が、深夜になると淡く光ることに気付いたのは2〜3日前。
何となく寝付けなくて、気分転換のために散歩していた時に偶然淡く発光する水鏡を発見したのだ。
神託の部屋に入れるのは、現在ではキラ1人のみ。
おそらくキラが気付かなければ誰にも気付かれることはなかっただろう。
不思議そうに覗き込んだ水鏡が映しているのは、今まで一度も見たことがない国。
掲げられた国旗から大陸にあるザフト帝国だということはわかったが、オーブから離れた国であるザフトを気に留めたことのないキラにとっては不思議なことだった。
今夜もまた同じ光景を映し出している。
オーブとはまるで違う、石造りの大きな都市。
活気に満ち溢れている様子は見ていて楽しいものではあるが、キラには何故水鏡がザフトを映し出しているのかわからない。
基本的に水鏡はオーブが関わる事項しか映し出さないものだ。
遥か遠くに離れた大陸ザフトとオーブがこれから関わるのだろうか。
まさか戦争になるとは思えないけれど…。
だが、細かい事情を抜きにしても、ザフトの様子はキラにとって興味深いものだった。
賑やかなのは大陸特有の行商人の多さだろうか。
活気が溢れているのは国が豊かな証拠だ。
オーブは他国との交易が少ないために、水鏡から見える世界はとても新鮮だ。
見知らぬ商品を並べている露店、沢山の旅芸人の姿。吟遊詩人の楽の音など、見ていて飽きない。
ふと映像が変わって映し出されたのは、広い一室。
机とソファくらいしかない質素なそこは、もしかしたら執務室なのだろうか。
机の上には大量の書類が置かれており、1人の青年が難しそうな顔をして机に向かっている。
(誰…?)
ザフトの人だろうか。
宵闇色の髪が頬に流れてその顔立ちを隠している。
水鏡がなぜこの青年を映すのかわからないが、何故かキラもその青年に目をひかれた。
何枚かの書類にサインをすると、青年は椅子から立ち上がって窓辺へと近づいた。
窓から見える景色は、先程キラが見ていたものと変わらない賑やかな城下の様子だ。
楽しそうな街の様子に、青年の口元にかすかに笑みが浮かぶ。
「……!」
明るい陽射しに照らされて青年の顔が明らかになると、キラは口元を覆った。
キラよりも少し年上だろうか、緑柱石の瞳が印象的な青年だった。
かすかに浮かんだ笑みが端整な顔立ちを優しく彩る。
その優しい笑みに、知らず顔が熱くなった。
初めて見る顔だった。
今まで一度も会ったことがない。
けれど…。
(…何、これ……)
とくん、と胸が鳴った。
顔が、熱い。
- 07.08.05