これは夢だ。
確認するまでもなくそう断言できるのは、目の前に広がる世界が原因に他ならない。
つい先ほどまで執務室にいたのだ。
確かにここのところ働きすぎだったし、ラスティにも休憩なり気分転換に外出なりしてこいと口煩く言われてはいたが、だからといって山積している仕事量を考えれば素直に言葉に従えることもできず。
結果としてアスランはラスティが休憩を取ると言って部屋を出て行った後も書類から目を離すことなく机に向かっていたはず。
父王の後継者として臣下や国民からの支持を受けているとは言えまだまだ自分は若輩者で、父のように仕事をこなしていくことができない。
最も今すぐ父と同じように仕事をこなすことなど誰も期待していないのだから、自分のできる範囲で頑張ればいいのだが、そうできないのがアスランの性格の面倒なところだ。
期待に応えようというのではなく、ただ自分の気がすまない。
勿論民にとってよりよい生活を送れるように努力することは苦にはならないのだから、アスランの仕事の手が止まることはほとんどないと言っていい。
幼馴染であり友人であり腹心の部下であるラスティにはそれがわかりきっているからこそ、小姑のように口煩く言っているのだろうけれど。
そんなラスティが戻ってくるまであと四半時はあるはずだった。
おそらくいつものように軽い食事と飲み物を手にやってくるはずだから、そうしたら小休憩を取ろうとさすがに疲れた身体を叱咤しながら決裁済みの書類を箱に戻したまでは覚えている。
そして、目が覚めたらこの場所にいたのだ。
視界に広がるのは鮮やかな青、瑞々しい緑、そして柔らかい薄桃色。
はらりはらりと花弁の舞い散る音しか聞こえないような、静かな場所だった。
ザフトではないだろう。
王太子という身分ではあるがそれなりに行動の自由が利くアスランは、時間があれば遠乗りに行くのが趣味だった。
城下は勿論、時間が許す限り帝都内を愛馬とともに見て回った。
これまでにも供も連れずに外出することは何度かあったが、それでもその範囲は城下のみに留まり、遠出をする時は最低でも1人供を連れていくことにしている。
護身術としては十分すぎるほどの腕前を持つアスランではあるが、帝国の後継者として迂闊な行動は慎まなければならないのだ。
それは誰が言うでもなく自覚した己の責任。
だから、これは夢なのだ。
見渡す限りの平原も、その向こうに見える穏やかな海原も、そして雪のように上空から降り注いでくる薄桃色の花弁もすべてアスランの知らないもの。
それはとても優美な世界だった。
「美しいな…」
天国というものがあるとすれば、このように美しいのだろうかとアスランは思う。
薄桃色の大輪の花に身を飾った木は、アスランにとって初めて見るものだ。
小さな花が枝に密集していて、とても華やかだ。
はらりはらりと舞い散る花弁は、まるで貝殻のように淡い色合いで、上空から降り注いでくる様はまるで薄桃色の雪のよう。
人の気配のない、だが不思議と心が落ち着く光景だ。
知らない場所なのに何故夢に見るのか気にならないわけではないが、ただただ目の前の美しい光景に目を奪われていた。
◇◆◇ ◇◆◇
この場所は時間の流れがひどく穏やかだ。
することもなく散策をしていても一向に飽きることがないからかもしれないが、日々激務に追われている立場にしてみればここはまさに楽園とも言えた。
おそらく自分は執務室の机で転寝をしてしまったのだ。
どうせ起きればイザークかラスティあたりに小言を言われるのだから、今だけはそれらを忘れてもいいだろう。
この美しい場所に、世俗はひどく似合わない。
薄桃色の森へと足を踏み入れ、アスランはそこに淡い色彩の絨毯に横たわる人影を発見した。
降り積もった花弁を褥にして眠っているのだろうか、アスランが近づいても動く気配はない。
全身を包む白銀の衣装、遠目からもわかる長い亜麻色の髪。
小柄な身体に女性だろうと推測するが、このような場所で転寝など無防備極まりない。
ほんの好奇心から歩み寄り、息を呑んだ。
淡い色の褥で眠る姿は、伝え聞く天女のよう。
白磁の肌に薄桃色の頬、安らかな寝息をたてる唇は小さく愛らしく、これほど美しい少女をアスランは知らない。
国一番の美貌と謳われたラクスでさえ及ばないだろう、どこか神聖さを帯びた美しさ。
(天女…か…?)
神の愛を一身に受けたようなその奇蹟の姿にアスランは声もなく見惚れた。
常の自分ならば貴婦人の寝顔をしげしげと眺めるなどという不躾なことはしたことがない。
だが、この少女から目を逸らすことはできなかった。
多くの美女を前にしても何一つ感慨を受けなかったはずの鼓動が早鐘を打っている。
まるで一目で魂を奪われてしまったかのようだ。
瞼の奥の瞳を見せて欲しいと思う反面、この寝姿をもう少し見ていたいとも思う。
この安らかな眠りを妨げたくはなかった。
どれほどそうしていただろう。
おそらくはそれほど短い時間ではないはずだが、身動き一つできないアスランにとっては瞬きをするかのような時間にしか感じなかった。
はらりと舞い下りてきた花弁が、少女の頬をかすめて落ちた。
その感触に気付いたのだろうか、瞼がぴくりと震えた。
ゆっくりと開かれた眼差しは、まるで宝石のように鮮やかな紫色。
一切の汚れを知らないかのように、ひどく澄んだ色だった。
長い睫が二・三度瞬きを繰り返し、ゆっくりと身を起こした少女はようやくアスランの姿に気付いたようだった。
菫色の瞳がぼんやりとアスランに向けられ、そして驚愕に見開かれた。
「アスランッ?!」
「――?!」
一陣の風が舞い、花弁の褥を舞い上げ消えた。
- 07.10.24