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Sincerely 01


ルカはため息をついた。
テーブルの上には飲みかけの珈琲と一枚のプリント。
つい1時間ほど前はそこそこ良かった機嫌は、今は地に潜るほどに低い。
季節は12月である。
まもなく冬休みになるこの時期、学期末のテストがある。
だが、それはルカの機嫌とは直接関係がない。
テストがあるのは学生として当然である。
これまでの学業の成果を確かめるのだ。
ほとんどの学生はそのための勉強に追われているが、生憎ルカにはその必要はない。
友人曰く『無駄に高い』と言われる記憶力は、一度聞いたことを忘れないため試験に備えて猛勉強する必要がほぼないからだ。
それでも試験前には一応テキストを読み返すくらいはしているのだが、それでもその他大勢の学生とは勉強量は雲泥の差であることは間違いない。
基本的に大学というのは入学が難しく卒業は簡単であると言われている。
だがルカが選んだ大学は全国でも五指に数えられるほど偏差値の高い学校であり、選んだ学部のせいか入学したからと油断しているとあっという間に単位を落とされると言われている。
それを知らずに入学してきて1,2年と青春を謳歌すると称して遊び回っていたゼミの同級生が知らずに後輩になっていたことも珍しくない。
尤も完全な自業自得であるため同情するつもりは毛頭ないのだが。
入学1年目となればその事実に気づかず学業を疎かにする生徒も少なからずいた。
だが1年次の成績を見て青くなり、2年以降は必死で勉学に励むというのがこの大学の特徴だ。
大学に入れば遊べると思ったのにと零す生徒は珍しくないが、それなら他の大学に入ればよかったのにという声しか上がらない。
何しろこの大学、独自のカリキュラムを設けているせいで必須教科がとんでもなく多いのだ。
受験前の下調べで十分に分かりそうなものなので、それに気づかなかったのは本人の怠慢に他ならない。
そのため残念ながら、ルカはその手の愚痴に付き合うつもりはない。
むしろ自分の周囲にいる友人と呼べる仲間達は最初からそれを覚悟で入学した人ばかりであるため、そんな愚痴を零してくるのはゼミが一緒だというだけの単なるクラスメイトだ。
同じ学生のルカに愚痴を言われたからといって代われるわけではないし、第一代わるつもりもない。
条件は全ての学生が同じなのだ。
そして、そんな学業に追われることもなくそこそこ自由に青春を楽しんでいるルカだが、さすがに目の前に置かれたプリントの内容には柳眉をしかめるしかない。
一体誰がこんな面倒なことを考えたのだと愚痴を言いたくなるが、犯人はわかりきっているためそれを言うことすら時間の無駄である。

ルカは入学当初から目立った存在だった。
整った外見とすらりと伸びた身長、成績は首位ではないが入学してから常に上位をキープしており、多くの人望を集めている。
更には学生ながらにして友人と2人で会社を立ち上げ、その経営手腕は学生のものとは思えないと各企業家から賞賛を浴びるほどである。
饒舌ではなくどちらかと言えば毒舌と言えるほど他人に対しても厳しい性格は、同年代や後輩からは尊敬の対象とされているらしい。
本人の意志とは無関係に注目を浴びているルカは、そのせいか教授達から時折助っ人を頼まれることが多い。
それは大抵において論文制作の助手であったりレポートの採点だったりする。
さすがにレポートの採点は本来教授の仕事であり、学生の成績に直接影響するものだからルカは毎回断っているのだが、教授達からの要請は何故か多い。
論文制作は一度ゼミの教授に頼まれて手伝ってから毎回頼まれるようになってしまったのだ。
後悔先に立たずとはよく言ったもので、その後も断ろうとしても断りきれなくて引き受けてしまうパターンが多い。
自分にも他人にも厳しいルカが唯一押し切られてしまうのはこの教授だけだ。
何をとち狂ったのか年末のこの忙しい時期に2つも論文を抱える羽目になった教授に、ほんの僅か仏心を出したのがそもそもの間違いだったのだ。
確かに論文は手伝った。
1つ目の論文で半ば魂を遠くに飛ばしていたから、仕方ないとため息をつきつつもう1つの論文はほぼルカが1人で制作したと言っても過言ではない。
教授は感謝して論文協力者に名前を載せると言われたけれど、それは丁寧に辞退した。
何となく嫌な予感がしたからなのだが、今、自分の第六感は間違っていなかったことがこうして証明されてしまった。
ルカは気持ちを静めるために珈琲へと手を伸ばす。
カップの中の液体はすっかり冷めてしまっている。
喉を潤す役には立つがぬるい珈琲とは何と美味しくないものか。
大学内のカフェテリアは値段の割りに珈琲の味はそこそこなのだが、冷めてしまっては台無しである。
もう一杯頼むべきか、それとも諦めて帰宅するか、そう思った時に目の前に缶コーヒーが差し出された。

「随分不機嫌そうだな」
「ユダ」

低く艶のある声。
聞きなれた声に顔を上げれば、そこにいたのは友人のユダで、口元には苦笑が浮かんでいる。
どうやらルカの不機嫌の原因を知っているらしい。
さすがは親友。
差し出された珈琲を受け取れば、ユダは当然とばかりに隣に椅子を引き寄せて座った。
ルカの前に置かれたプリントへと視線を向ける。

「成る程、来週のヨーロッパでの学会に参加するようにか。それはさすがにご愁傷様と言うしかないだろうな」

ユダの言葉にルカの眉が更に顰められる。
当然だ。ただでさえ忙しいこの年末の時期、何が哀しくて自分の仕事でもない教授の論文発表の代行をしなければならないのか。
しかも当の教授は同時期に行われる国内での論文発表に参加するという。
普通学生に押し付けるのなら国内の方を押し付けるのが筋というものではないだろうか。
しかも時期は試験の翌日からクリスマス前日までである。
何かの都合で帰国が遅れればクリスマスすらなくなってしまう可能性もあるのだ。
いくらルカがほぼ作成したとは言え、あくまでも代表は教授なのだ。
そう言ったところで無駄だというのは十分すぎるほどに理解しているのだが。
ルカにとってはそれほど苦労しないとは言っても試験終了後そのまま飛行機でヨーロッパへ15時間の旅というのは如何なものか。
渡航費用宿泊費食費その他を大学負担と言われたからと言って喜べるはずもない。
何であんな教授のゼミを選択してしまったのか、一生の不覚だ。

「教授に気に入られたのが運の尽きだと思え」
「他人事のように言っているが、お前だって似たようなものだろう」
「こちらは一泊二日。しかも国内だ。観光気分で楽しんでくるよ」

ルカと同様ユダも教授の助手を頼まれることが多い。
そして今回ユダは教授に同行することが決まっているらしい。
勿論不満はあるだろうがそれを表に出さないあたり、ユダの方がルカよりも一枚上手らしい。
しかも今回のユダはあくまでも同行だ。
ルカのように発表や質疑応答などはしなくてもいいのだ。
何となく理不尽だと思うのは間違いだろうか。

「あの、馬鹿親父が…」
「ルカ」

ポツリと呟いた言葉に、ユダが反応する。
ルカと教授であるゼウスは血縁上紛れもない親子である。
尤もルカが幼い頃に両親が離婚してルカは母親に引き取られたから、2人が親子ということを知っている生徒はほとんどない。
又、そんな関係だからルカとゼウスが公的でも私的でも親子らしい態度を取っていることは皆無である。
それでもゼウスは息子としてではなく生徒としてルカを可愛がっているし、ルカも父親としてではなく教授としてゼウスを多少は尊敬しているようである。
その事情を知っているのは友人ではユダだけだ。
他人に知られたくない事実をカフェテリアで呟いてしまうのは少々まずいのではないかと声をかければ、おそらく無意識で呟いてしまったのだろう。 ルカが僅かに目を瞠った。

「すまない…つい本音が出てしまった」
「俺は構わないがあまり聞かれて楽しいものでもないだろう。場所を移動しないか」
「そうだな。…ユダさえよければ私の家にこないか」
「…いいのか?」

ルカは秘密主義だ。
それはユダにも言えるのだが、どちらかと言えばルカの方がその傾向が強い。
自分のプライベートを知られるのを好まないのだ。
そのためルカとユダは自他共に認める親友でありながら、いまだにルカの自宅へ上がったことがない。
実は恋人と同棲しているのではないかと勘繰ったこともあったが、特にそういうわけではないらしく、母を亡くした後は弟と2人で暮らしているらしい。
弟は人見知りが激しいらしく、まだ一度も会ったことがない。
どうやらあまり弟を紹介したくないようだと察していたのでユダがそう訊ねれば、ルカはあっさりと頷いた。

「シンは今日友人の家に泊まると言っていたからな。家にはいないんだ」

それほど多くない弟の話題の中で、ルカは弟をかなり溺愛しているように感じていたのだが、こうして外泊を認めるということはそうでもないのだろうか。
それともその友人がルカから絶大な信頼を受けているかだろう。
一度くらいその『シン』を見てみたい気がしたが、目の前の男が頑固だということは重々承知しているのでユダは言葉にしたことはない。
親友であるルカの機嫌を損ねてまで会う必要はないだろう。

「では、邪魔させてもらおう。愚痴があるなら聞いてやるぞ」
「それは助かるな。久しぶりに飲みたい気分なんだ」

心底疲れ切った表情で目の前のプリントを握りつぶしたルカに、これは相当荒れそうだなと苦笑をもらした。


  • 09.12.07