Sub menu


雨に似ている 02


シンは入社してようやく2年になる、まだ新人と呼んでも差支えのない社員だ。
だが新人でありながらシンの知名度はそれなりに高い。
真面目な勤務態度は当然好感を抱く要素であるし、仕事も丁寧で性格。
万事控えめな態度は若干大人しい印象を与えるものの、彼の持つ独特の品の良さのためかその印象がマイナスに動いたことはない。
それどころかいつも穏やかな笑みを浮かべているシンがいるだけで取引先との交渉がスムーズに進むという噂すらあるほどだ。
これは決して揶揄ではない。
実際に決裂寸前の交渉をシンの機転で上手くいった経過があるのだ。勿論シンは無意識だったのだけれど。
更には社内でも影響力のあるゴウが目をかけて可愛がっているという事実もあり、シンという人物像は上層部ではそれなりに人気があるのだが、当然世間話に疎いシンが知るわけもない。
だからこそ信じられない。
憧れの人物であるユダが自分の顔を知っているどころか、食事を共にと誘われたことが。

シンにとってユダとは雲の上の存在だ。
実力重視の会社とは言え、社員の人数が数千人を越える巨大企業の中で入社数年で部長職に就任するという異例の出世を遂げているユダは、性別年齢を問わずに理想の人物として挙げられる程の有名人だ。
経営企画室という実力重視の部署に配属されただけとどまらず、史上最年少で室長というポストに就き、更には彼が就任して以来会社の業績は黒字を驀進中なのだ。
一部では福の神と呼ばれているとかいないとか。
とにかく会社にとってなくてはならない人物であることは間違いない。
片や自分は入社したばかりの新人同然の社員で、大した働きをしているわけではない。
上司のフォローが上手いために大きな失敗はないものの、まだまだ一人前にはほど遠い未熟者だ。
ユダが親しくしている人物は上司のゴウを始めとして社内でも名の知れた人物ばかり。
だから当然シンのことなど知らないと思っていたのだが。

「シン?」

名前を呼ばれて頭に血が上る。
仕事を認められたことで天にも昇る気持ちだというのに、食事に誘われたり名前を呼ばれたりと、まるで夢のようだ。
況してや相手は尊敬してやまないユダである。
姿を見ることができるだけで満足していたものだから、こうして声をかけてもらうことなど想像もしていなかった。
こうして面と向かって話をするのは初めてなのだ。
何しろユダとシンでは所属する部署が違う。
それどころか仕事をしている階すら違うのだから、通常の業務中でユダとシンが知り合う接点など皆無に等しい。
勿論シンはユダのことを知っているし、身の程知らずと思いつつも彼のように仕事ができる人間になりたいと思ってもいるが、シンがユダのことを知るようにユダがシンのことを知っている可能性などないと思っていたのだ。
誰かと間違えているのではないかと思うが、彼が呼んだのは間違いなくシンの名。
間違いでなければ悪戯だろうかと思ってしまうシンの脳内はかなりの混乱中だ。
「あ…あの…」
「何だ?」

聞き返す声は耳に心地良いバリトンで、優しい響きを含んだそれはシンの混乱を増大させるには十分過ぎる程の威力を持っていた。
目が合った途端、顔が赤くなるのがわかった。
頬が熱い。
おそらく一目でわかるほど真っ赤になっているのだろう。
シンは控えめと言えば聞こえはいいが、少々人見知りが激しい傾向があった。
そのため初対面の相手と上手に会話を成立させることが難しい。
一応社会人なので仕事中はビジネスモードに切り替えることができるのだが、今は勤務時間ではない。
しかも相手が相手である。
至近距離から見つめてくる蒼い瞳に自分の姿が映っていると認識した途端、脳内の何かが焼切れた。
混乱する脳内がようやく導き出した言葉は、まさかというかとんでもない一言で。

「ね、こが…」
「猫?」

自分でもわからないうちに発せられた言葉がそれ。
気が付いたらシンは脱兎の如く会社を飛び出していたのだ。







   ◇◆◇   ◇◆◇






後悔先に立たずとは良く言ったものだ。
途中で我に返ったシンだが最早戻ることなどできるはずもなく、シンは後悔と自己嫌悪に苛まれながら帰宅した。
涙目でこの世の終わりのような顔をして帰宅したシンを心配したのは、ルームメイトであり親友であり幼馴染にであるレイである。
そんな姿に友情って良いものだなぁと思っていたシンではあったが、事情を語り終えた途端に腹を抱えて大爆笑されてしまっては前言撤回したくなっても無理はない。

「まったくもう、シンらしいですねぇ」
「笑いごとじゃないんですよ…」

しゅんと肩を落としたシンにまあまあと宥めるものの、相変わらず笑いを残したままなので逆に更に落ち込ませてしまっているようだ。
シンとレイは幼馴染だ。
小中高大と同じ学校同じクラスで、しかも自宅も隣同士という親密さ。
更にはお互いの母親が従姉妹同士ということもあり、大学進学で自宅を離れる際に同居を始め、社会人となった今もこうして一緒に暮らしている。
友人というより最早家族と呼んだ方が相応しいかもしれない。
だからこそ遠慮も何もないのだけれど。

「それにしても、子猫のごはんを理由に上司の誘いを断るなんて。シンが帰ってこなくても僕がいるのは分かっているでしょうに。ねぇ、ガイ」

そう言ってシンの膝の上で寛いでいる子猫に同意を求めれば、わかっているのかいないのか細く長い尻尾がパタンと揺れた。
あの雨の日、拾って帰ったのはシンだが、泥だらけの身体を洗って温かいミルクを飲ませて病院に連れていったのはレイだ。
ガイと名付けられた子猫はシンとレイのどちらにも懐いているので、どちらが食事の支度をしようと気にしない。
シンが残業の時などはレイが食事を与えてレイの布団で眠ることが常になっているのだから、シンが上司の誘いを断る理由にはならない。

「まぁ、憧れの人が相手ではシンがパニックになるのはわかりますけどね」

シンの人見知りは筋金入りだ。
幼い頃から人の輪に入るのが苦手で、読書ばかりしていた子供だった。
人から好かれるタイプだったので友人はそれなりにいたが、それでもどこか遠慮していたような気がする。
特に急に話しかけられることは未だに慣れていないようで、外見のせいか女性と間違われてナンパされることも多いというのに毅然とした対処すらできないのは本当に困る。
気分はすっかり保護者のそれである。

「それで、どうするつもりですか」
「…明日、謝りに行きます」

ユダは多忙な人ではあるけれど、それでも少し話すくらいなら時間があるはずだ。
どうしても難しそうならゴウに頼んで2〜3分の時間を融通してもらうつもりである。
上司の力を利用するのは申し訳ないと思うけれど、ゴウはレイと同様幼馴染でもあるので多少我儘を言っても許してくれるのだ。
そうだ、そうしようと何とか覚悟を決めて顔を上げれば、レイが優しい顔でにっこりと微笑んでいた。

「気持ちの準備はできましたか?」
「はい。情けないところを見せて申し訳ありませんでした」
「気にしないでください。シンと僕の仲じゃありませんか」
「ありがとうございます」

ようやくシンらしい笑顔が浮かび、レイがよしよしと頭を撫でる。
そして、言葉を続ける。

「でも、明日は土曜日。会社は休日ですよ」
「……あ」
「ついでに言えば月曜日も祭日なので会社は3連休です」
「………」
「なのでシンは明日の午前中にガイを動物病院に連れて行ってくださいね」

予防接種なんですよと言いながら、猫用ゲージを手渡すレイに悪気はない。
ないのだが…。

「………」

もう少し優しくしてほしいと思うのは自分の我儘なのだろうか。


  • 11.12.02