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雨に似ている 01


彼を認識したのは、ある雨の日だった。
取引先との打ち合わせが終了し会社へと戻るタクシーの中。
会社の勤務時間は既に終了しているものの、生憎ユダが定時に帰社できたことなど数えるほどしかない。
終電を逃してタクシーで帰宅したことも珍しくなく、時と状況に応じて会社で朝を迎えたことも少なからずある。
勿論そこまで酷い状況など年に数回あるかないかという程度だが。
幸いなことに資料の作成は現在脳内で綿密に構築しているので、後は形に残せば良いだけだ。
これなら日付が変わる前に家に帰れるはずだと会議資料を5枚以内に纏める算段をつけたユダは、ふと車窓の様子へと視線を移した。

オフィス街ではあるが住宅街にもほど近いこの道には、多くの帰宅途中の会社員の姿が見える。
一様に疲れた表情なのは木曜の夜、しかも夜9時を越えていることを考えれば無理もないだろう。
そうして流れていく車窓の景色を見るともなく眺めていると、ユダの視線は1人の青年の姿を捉えた。
誰もが疲れた顔で家路に急ぐ中、黒い傘を手に立ち止っている青年の顔は見覚えがあった。
フロアで時折見ることのある人物だ――確か名をシンと言ったか。
ユダの同期であるゴウの部下で、大人しいがかなり優秀な人物らしい。
自分にも他人にも厳しいゴウが手放しで褒めるのはかなり珍しく、また、同じく同期入社で親友でもあるルカまでもが彼を高く評価していると聞いて驚いたのはつい先日のことだ。
ゴウが人材不足で手をつけられなかったプロジェクトを形にしたのが彼の力だということを知り、それほど有能な人材だったら自分の部下に欲しいと嘯いてゴウが不機嫌になったのを覚えている。
ユダの印象では、シンは男性でありながら楚々とした美貌が印象的な青年だ。
第一印象そのままに、雨の中、1人困惑した様子で立ち尽くすシンの姿は、不思議とユダの琴線に触れた。
タイミング良く彼が立ち止っているすぐ手前の信号にひっかかりタクシーが止まったため、ユダは好奇心に惹かれるまま彼を眺めた。

何かを失くしたのだろうか。
視線が不安定に彷徨っている。――いや、向けられているのは歩道と道路の境界にある生垣の下だ。

右へうろうろ、左へうろうろ。
覗きこんだりしゃがみこんだり。
はっきり言って挙動不審だ。

だが困ったように下げられた眉や彷徨うように動かされる腕のせいで、妙な庇護欲がかきたてられる。
何というか、動作の一つ一つが可愛らしいのだ。
成人――それも社会人として立派に働いている青年には相応しくない形容詞であることは重々承知だが、ユダにはどう見てもそうとしか表現できない。
思わずくすりと笑みがこぼれてしまい、タクシーの運転手が怪訝そうな顔をした。
慌てて口元を抑え、だが視線は先ほどから車窓のシンに向けられたまま、ユダは観察を続ける。
この信号はスクランブル交差点になっているのでタクシーが動き出すまでもうしばらくかかるはずだ。
一向に動く気配のないシンに、ユダは気になってタクシーを降りようかと考えた。
直接の部下ではないが友人の部下――それも特に目をかけている人物となれば声くらいかけても構わないだろう。
第一、明らかに不審な行動を取っているシンに理由を聞くのはそれほど可笑しいことだとは思わない。
だが、ユダが運転手に声をかけようとした時、ようやくシンが何か動いた。
生垣をかき分けるようにしゃがみ込み、そうしてゆっくりと起き上がった腕には何かを掴んでいた。

(犬――いや、子猫か)

泥に汚れた小さな塊は、何かの小動物のようだった。
僅かに見える耳から、それが猫であることがわかる。
シンの掌からそれほどはみ出ていない所を見ると、生まれて間もないのではないだろうか。
成程、とユダはようやく納得した。
大方帰宅途中に猫の鳴き声が聞こえて足を止めてしまったのだろう。
この近くには新興住宅地がある。
そして悲しいことにこの道路ではそれほど珍しくない頻度で動物が犠牲になっているのだ。
道路に近い生垣にいるということは少し間違えれば車道に出てしまう可能性が高い。
ただでさえ生後間もない子猫であれば車に対する警戒心も薄く、道路に飛び出してしまう危険度は更に高くなる。
シンは穏やかで優しい性格だと聞く。
だからこそ放っておけなかったのだろう。
視線の先、シンはようやく救出したらしい子猫が雨に濡れないようにと首元のマフラーを外して包み込んだ。
子猫が鳴いたのだろうか、視線を合わせてふわりとシンが笑う。

「――っ」

ユダは思わず見惚れてしまった。
何て綺麗に笑うのだろうか。
職業柄多くの男女と会話を交わす機会はある。
それなりに見目の良い女性から声を掛けられることも少なくない。
だが、シンのように柔らかくあどけなく、そしてどこか安心感を抱かせるような笑顔を浮かべた人物には今まで出会ったことがなかった。

「欲しいな」

点滅を繰り返す信号に急かされるように走っていくシンの背中を追いながら、思わずユダは呟いた。
あの笑顔を自分に向けて欲しいと思った。

それが部下にという意味か、それとも別の意味かまでは、流石のユダも気づいていなかった。







   ◇◆◇   ◇◆◇







ぱらり、とめくった資料のあまりに出来の良さにユダは僅かに目を瞠った。
先程部下が持ってきたのは、先日行われた会議の議事録だ。
会議の主旨や重要事項、更には今後の課題や欠点などが簡潔にまとめられていて見やすく、更には無駄な文章を1つも使っていないことから作成者の能力の高さが窺える。
誰が作成したものかと思い目をやれば、シンという文字。
成程、ゴウが自慢するだけあって有能なのは確かなようだ。
それに目を通し終えると時刻は丁度8時を指していた。
いつもより早い時間だが、きりが良いので仕事を切り上げることにした。
どうせ月末にはまた終電まで残業が確定しているのだ。
今日くらいは早く帰るのも良いだろう。
部下に挨拶を済ませエレベーターへと向かう。
どこかで軽く飲んでから帰ろうかと思いながらロビーを歩いていると、目の前に見たことのある後ろ姿があった。

「ゴウ」

ユダが呼べば振り返る。
ゴウは平均よりも背が高いので見つけやすい。
彼もまた忙しい部署だが、ユダと同様時間の使い方が上手いのかそれほど残業をしていない。
勿論、繁忙期の多忙さはお互い様なのだが。

「ユダか。今帰りか」
「あぁ。お前もか」
「俺はいつもこのくらいの時間だ」
「そうか。もし予定がなかったらこれから飲みにでもいかないか」

そう言えばゴウはあっさりと頷いた。

「構わないぞ。もう1人いても良いならな」

そう言われて初めてそこにいたのがゴウだけでないことに気付いた。
ユダにしては珍しい失態だ。
目立たなかったわけではない。
ゴウの背中に綺麗に隠れていて見えなかったのだ。
ユダが頷けばゴウが軽く笑いながら自分の背後に隠れていた人物を引っ張り出した。
淡い水色の髪。
女性と見まごうほど細い肢体に、整った小さな顔。
何故だか涙目で焦っている姿はユダが知っている人物だった。

「君は…」
「前にも話しただろう。俺の部下でシンと言う。中々優秀な人物だぞ」
「は…初めまして」

赤い顔のまま慌てたように頭を下げるシンにユダは正直驚いた。
まさかこういう形で会うことになるとは思っていなかったのだ。
大人しいという話は間違っていなかったのだろう、突然のことにどう対応したら良いものか戸惑っている様子が良く伝わってくる。
もしかしたら人見知りをするのかもしれない。

「会うのは初めてだったな。ユダだ」
「シンと申します。ユダ室長のお話は以前からお伺いしていました。お会いできて光栄です」

ユダとゴウ、そしてルカの3人は若手の中では異例の出世を遂げた人物だ。
入社してからの業績は偉業と讃えられているほど、会社に対しての貢献は大きい。
ここ数年で会社の株価が急上昇した理由の一因だとも言われているほどなので、一般の社員が尊敬するのも当然だろう。
間違いなく将来の重役コースに進むであろう彼らは、その知名度ゆえか様々な噂が周囲に飛び交っているのを知っている。
ユダと会長の孫娘が婚約をするとか、ルカが社長の隠し子ではないかとか、ゴウが来年取締役に就任するとか、真偽を問うのが馬鹿らしくなるほどに根も葉もない噂ばかりだ。
直接問い詰めに来る人がいないためか、ユダの耳に入った時には笑い話では済まないような内容も多くあったが、相手にするのも時間の無駄だと放置していた。
だが恐らくシンの言う噂はそういう意味ではないだろう。
何せ隣にゴウがいるのだ。
根も葉もない噂を鵜呑みにするような人物ならばゴウが傍に置くはずもない。
更には真っ赤な顔ではにかみながら微笑むシンが、そのような下世話な噂を知っているとも思えない。

「そういえば、先日の会議資料を纏めたのは君だったな」

つい先ほど見たばかりの議事録を思い出してついそう言えば、シンの眉が僅かに下がった。

「…違ったか?」
「いえ、私が作成したもので間違いありません。…あの、何か不備がありましたか?」

恐る恐ると言った感じで問いかけるシンの瞳は一瞬で不安に包まれている。
ユダは不思議そうにそれを見ながら、だが笑顔で否定する。

「いや、その逆だ。簡潔に纏まっていて分かりやすい。とても良い議事録だった」
「ありがとうございます」

瞬間、ふわりと微笑んだシンの笑顔が、つい先日見た笑顔と重なる。
あの時のような安心感のあるものではなかったけれど、やはり見ていてとても和む。

「ということで、シンも一緒だと嬉しいんだが、どうだろうか」
「構わない。丁度話をしてみたいと思っていたところだ」
「あ…あの…」

ユダが断るわけないということを知っているゴウがそう言えば、やはりユダから帰ってきたのは肯定で。
それに慌てたように顔を上げたのはシンだ。
不思議そうに向けられた視線の先、シンは困惑した表情でこちらを見つめている。
迷惑だったのだろうかと思ったユダの前で、シンは小さく呟いた。

「ね、こが…」
「猫?」

脳裏に浮かぶのは、あの雨の日にシンが拾って帰っただろう子猫の姿。
無意識に首を傾げれば、シンは申し訳なさそうに眉を下げた。

「あの…、猫にご飯をあげないといけないので…申し訳ありません!」

そう言って深々と頭を下げると、ゴウへの挨拶もそこそこに会社を飛び出して行ってしまった。
残された2人は一瞬何が起こったのかわからなかった。
だがやはり最初に声を出したのはゴウで。

「ふられたな」
「猫…?」
「あいつは人見知りが激しいからな。緊張の限界を超えたんだろう」
「成程」

今頃後悔して落ち込んでいるだろうと言いながらくつくつと笑うゴウに、おそらくシンのこういう行動は初めてではないのだと推察する。
確かに人に慣れていない感じはした。
人にというより世間に慣れてないような気すらするほどだ。
学生経験もあるし社会人経験もあるはずなのに、まるでまっさらの子供のような印象を与えるシンは、おそらくユダが初めて会うタイプの人物だ。
ユダが食事に誘って断った相手はいない。
それが男性であれ女性であれ、二つ返事で応じる人がほとんどだったため、シンの反応は凄く新鮮だ。
しかも断った理由が猫。
確かに子猫は目が離せないし心配だろうとは思う。
だが、会社の上司に食事を誘われて猫を理由に断る人がいるだろうか。
考えれば考えるほど可笑しくて、失礼だとは思いつつもユダも笑う。

「多分、明日あたり謝罪に行くかもしれんが、なるべくなら優しくしてやってくれ」
「そうだな。今度は逃げないでくれるといんだが」
「…ユダ」

ユダの言葉の奥に潜む多大な関心に気づいたゴウが胡乱な視線を向ける。
以前シンの話題が出た時、ユダは冗談で部下に欲しいと言っていた。
その時は有能な部下を奪われてはたまらないと抗議したのだが、こうやって会えばユダがシンに更なる興味を抱くのは予想していた事態だった。
伊達に付き合いが長いわけではない。
ユダの好みは良く知っているのだ。
まぁ部下としてのシンは奪われることはないだろうと、ゴウは重いため息をついた。


ゴウの予想通り、そう遠くないうちにユダはシンの恋人の座を手に入れるのだが、そのためには本人や同僚や親友、更にはシンが拾った子猫がこれでもかというほどにユダの邪魔をしたり、逆にキューピッドとなってくれたりとするのだが、勿論そんなことはユダはおろかそれに関わる誰1人として気づかないのである。


  • 11.11.01