ユダは不思議な青年だった。
シンとあまり変わらない年齢でありながらも落ち着いた雰囲気は、年齢にそぐわない余裕を感じさせる。
出会ったのはほんの偶然。
食事を済ませたユダが、宿泊先である部屋へ戻ろうと乗り込んだエレベーターの中で、崩れるように座り込んでいたシンを発見したのだという。
助け起こしたはいいもののシンの意識はすでにないに等しく、手荷物一つ持たずエレベーターの隅に蹲る様子はどうにも放っておけず、結局そのまま自分の部屋へ連れてきてしまったらしい。
顔色は蒼白で、酒の匂いを感じなければ泥酔というよりは昏倒といった感じだったようで、酒量の制限ができないようには見えず、またどう見ても普通の会社員にしか見えない外見のため、特に警戒もしなかったというユダの発言を聞いて、シンは開いた口が塞がらなかった。
「あの、それはどう見ても不審者なのですが…」
「だが放っておくわけにもいくまい」
咎めるような視線を向ければ、あっさりと言い切られてしまい二の句が告げない。
まあ確かにそれで自分は助かったのだから、有難いと思うのだが。
それにしても、とシンは思う。
当事者である自分が言うのも何だが、エレベーターで倒れている酔っ払いを部屋につれて帰るということ自体ありえない。
特に一泊三十万は下らないこの最上階に宿泊しているとなれば、目の前の青年はそれなりのVIPであるはずなのに、この呆れるほどの警戒心のなさは一体どういうことだろう。
もしシンが病気を装った強盗だったら、今頃無傷ではすまないはずなのに。
(…………いや)
たとえそうだとしてもシン程度の体格ならば押さえ込むことなど造作もないのかもしれない。
シャツ越しでも均整の取れた体格は十分に窺える。
だからといって見知らぬ男を連れ込んでいいというわけではないが。
「私が言うのも何ですが、やはりもう少し警戒したほうがよろしいかと思うのですが…」
「そうだな。次からはそうしよう」
反省の色なしの様子にシンはため息をつく。
豪胆なのか呑気なのか。それとも相当器が大きいのか。
目覚めたシンが謝罪を口にして帰ろうとするのを、「まだ顔色が悪いから休んでおけ」と強引にベッドに押し戻され、その後再び目覚めたシンをシャワー室に放り込み、言われるままシャワーを済ませればテーブルにはルームサービスで取り寄せたと思わしき食事の数々。
流されるシンもシンだが、見ず知らずの男にそこまでするユダは理解に苦しむ。
何よりもユダの言葉は何故か逆らう気になれないのが不思議だ。
普段のシンならばどのような経緯であれ、見ず知らずの人間がいる部屋で眠れるはずもないし、いくら強引だからと言ってもここまで他人の言葉に流されるようなことはない。
物腰が柔らかいから断りきれないのだろうか。
それとも自分は意外と押しに弱いのだろうか。
などとぼんやり考えてしまうのは、やはりこの状況をすんなり受け入れられないための現実逃避にしか過ぎず。
「ほら、シン。スープが冷めるだろう。早く席につけ」
食事を取るのが当然とでも言うように向かいの席を勧めるユダに、シンはあっさりと白旗を掲げた。
◇◆◇ ◇◆◇
ユダは何も聞かなかった。
彼が訊ねたのはシンの名前だけ。
身元も理由も何も聞こうとはしない。
それはシンが話し出すのを待っているのかもしれないし、大した問題ではないと思っているのかもしれない。
どうにもユダという人物は、常にシンの予想を遥かに上回る行動を取るために予測不可能なのだ。
だが事情を説明するにも食事の会話としてはあまりにも不適切だし、何よりも先程からタイミングを逸してばかりいるのも事実だ。
それに、正直ユダが質問してこなくてシンとしては助かっている。
そう、言えるわけがないのだ。
契約を締結させるために取引先の部長と寝て来いと上司に命じられたなどと。
あまりにも理不尽且つ非常識な事実は、未だにシンの中でも消化しきれていないほどで、冷静に説明する気力はまだ戻っていないのだ。
そんなシンの心中などわかるはずはないのに、ユダは向かいに座って穏やかな笑みを浮かべているだけ。
時折嫌いな食べ物はなかったか好みのメニューはあったかという他愛のない会話をするくらいで、基本的に食事中の会話を好まないシンにとって過ごしやすい時間だった。
そうして会話をするうちに、ユダの深い知識に次第に惹き込まれていきそうになる自分を感じていた。
食後のお茶を飲むころには、会話が得意ではないシンにしてみれば考えられないほどに饒舌になっていたようだ。
穏やかな時間は束の間だがシンの置かれている状況を忘れさせてくれた。
だがいつまでも逃避しているわけにもいかず、時計を見ればすでに夕刻を指している。
そろそろ現実に戻らなければいけない。
いくらシンにとって望まない現実であったとしても、このまま逃げ続けることなどできるわけがないのだから。
だが、先程まで抱いていた悲壮感は、今は綺麗に消えている。
まずは会社に行って上司に辞表を叩きつけよう。
雇用者という立場では上司の命令に逆らえないが、退職してしまえば理不尽な命令に従う道理などない。
働く場所など他に探せばいいだけの話だ。
昨日と打って変わって気分が晴れやかになっているのは、やはり目の前の青年のお陰だろう。
ほんの半日の猶予。それがなければ今頃どうなっていたことか。
鬱々と考えているだけでは決して辿り着けなかった未来にすんなりと辿り着けたのだから、どれだけ感謝してもしたりない。
「行くのか」
「ええ。貴方には感謝しています。わずかですがとても楽しい一時を過ごさせていただきました」
「俺もだ。お前と話しているのは存外と心地よかった」
本心からの言葉なのだろう、ゆったりと響く声はシンの心に染み渡っていくようだ。
「ありがとうございました。お礼は後日改めて…」
伺うと言おうとして、シンはユダの素性を何も知らないことに気が付いた。
ユダがシンのことを何も聞かなかったように、シンもまたユダの素性を何一つ訊ねなかったのだ。
それだけこの青年の傍が居心地よかったのだ。
知り合ってまだ半日。
いくら迷惑をかけた相手に対してでも、これほど信頼してしまうことなど普段のシンならありえないことだ。
不思議と居心地のよかった彼の傍ら。
他愛のない会話も、時折触れる指先も、優しく微笑まれる眼差しも。
何もかもがシンを優しく包んでくれた。
離れたくない、と思った。
そんなことできるわけないのに。
「シン?」
「あ…いえ、すみません。後日改めてお礼に伺いたいと思いますので、連絡先を教えていただきたいのですが…」
「その必要はない。特に大したことはしていないのだから」
「いえ、それでは私の気がすみません。どうか…」
このまま縁を切りたくなかった。
常の自分からしてみればありえないほどの強引さでそう告げると、ユダはわずかに首を傾げた。
「では、こういうのはどうだろう。今日の礼に俺の望みを1つ叶えてはくれないだろうか」
「望み、ですか?」
「ああ。駄目か?」
「いいえ。私にできることでしたらどのようなことでも」
そう言った瞬間、ユダの眼差しが悪戯そうに瞬いたのをシンは見逃さなかった。
何か企んでいると思った時にはすでに遅く。
「では、俺の秘書になってもらえないだろうか」
「秘書…?」
不思議そうに小首を傾げるシンの前に差し出されたのは、1枚の名刺。
そこに書かれていたのはここ数年で驚くほど業績を伸ばしている企業の名前で。
「代表取締役、社長…」
「ああ。一応な」
本日最後の爆弾投下に、さすがに慣れたつもりのシンも返答に詰まる。
「実は先日秘書が辞めてしまってね。新しい秘書を雇えと口煩く言われていたところなんだ。お前なら適任だと思うのだが、どうだろう? 俺の傍で働いてくれないだろうか」
「本当にあなたって人は…」
悪戯が成功した子供のような笑顔を浮かべるユダに、シンはため息をつきつつ頭を押さえる。
自分が辞職を決意していると知っていたのだろうか。
隠し事が上手だとはお世辞にも言えないが、かと言って何一つ事情を知らないユダにそこまで見透かされているとは思いたくない。
だが、会社を辞めることは覆せない事実で、そうなれば新しい職場を探さなくてはらないのも、また事実だ。
その矢先に降ってわいたヘッドハンティング。
あまりにもタイミングが良すぎるが、これがすべて偶然だと言っていいのだろうか。
だが、シンがユダと知り合ったのは間違いなく今日が初めてだし、シンの置かれている状況もユダとは何ら関係がない。
腑に落ちないところはいくつかあるけれど。
それでも偶然が重なった結果であることは間違いない。
本来なら受け入れることなどできるはずのない要求。
だが、新しい仕事を探さなければならないシンにとって魅力的な申し出なのは事実だ。
ただ、短い間でも十分すぎるほど伺えてしまったユダの性格に、これから先の未来が簡単に思い描けてしまえて嬉しいのやら悲しいのやら。
だが…。
これからも彼の傍らにいられるのなら、シンに断る理由などない。
「あなたは随分と人を驚かせるのが好きなようですね」
「性分なんだ。それで、答えは?」
「わかっているでしょうに」
「お前の言葉が欲しいんだ」
まるで睦言みたいな囁きにシンの頬が赤く染まる。
「私で務まるかわかりませんが、精一杯働かせていただきます」
「では、よろしくシン」
「ええ。よろしくお願いします。社長」
この人と一緒ならおそらくそれも楽しいだろう。
大きな手を握り返しながら、シンは笑みを浮かべた。
- 08.07.28