頭が痛い。
未だかつてないほどの激しい頭痛に、思わずシンは覚醒した意識をもう一度飛ばしたくなってしまった。
全身が重く、ひどく喉が渇く。
だがそれ以上に先ほどから止む気配のない頭痛と、こみ上げてくる嘔吐感の方がひどく、シンはベッドの中で小さく呻いた。
呻くことしかできなかった。
もっともそんな小さな声ですら脳天を揺るがすほどの激痛となって襲ってくるのは予想外だったが。
これが所謂二日酔いというやつなのだろうか。
生憎酒は強くないのだが、元々それほど好まない上に量を飲まない方なので、運良く今まで二日酔いというものには無縁だった。
なるほど確かに聞きしに勝る地獄だと痛感する。
もう二度とごめんだと言いながらも何度となく二日酔いを繰り返す同僚の姿を思い出して、意外と彼は根性があるのだな自分なら本当に二度とごめんだなどと見当違いのことを考えてしまうのは、少しでもこの痛みを紛らわせたいと思う無意識の現われである。
(最悪だ…)
昨夜、シンは珍しく深酒をした。
仕事の付き合いということもあったのだが、それ以上に現実から逃避したいという欲求があったからに他ならない。
事の起こりは終業直前に上司に呼びつけられたことである。
大企業とまではいかなくても、それなりに業績の伸びている会社の第二営業部に所属するシンは、控えめながらも誠実な性格が幸いしてか、入社してから数年順調に営業成績を伸ばしている真面目なサラリーマンである。
取引会社での印象も良く、最近では大手企業の担当も任されており、職場の同僚ともそれなりに良好な関係を築いており充実した日々を送っていた。
そんなある日、上司に呼ばれるまま会議室に入れば、そこにいたのは何故か営業本部長で、告げられた内容はシンにとって信じられない内容だった。
上司からつきつけられた理不尽な要求に応えるわけにはいかず、かといってただ拒否しては明日から自分の居場所はなくなってしまう。
所詮会社員。上司の命令には絶対服従なのだろうが、それでもどうあっても譲れないものはあるわけで。
上司に半ば連れ去られるように接待の場に連れてこられたものの、そんな簡単に割り切れるはずもなく。
咄嗟に深酒を煽って気分が悪いと逃げ出してこれたのは上々だった。
たとえ一時凌ぎにしかならないとわかっていても、それでもひとまずは逃げることができたのだから。
(それにしても…)
ぐらぐらと回る視界の中、眼鏡も外した状態ではよくわからなかったが、どうもこの場所は自分の部屋ではないようだ。
ほんのわずか動かすだけで襲ってくる頭痛のせいで今まで気付かずにいたが、目の前の整然とした室内はどう見てもホテルの一室――それも広さから考えるとここはスイートルームではないだろうか。
昨夜は逃げるように場を辞したことだけは覚えているのだが、如何せんその後の記憶がない。
あの状態で無事に家まで帰りつけたとは思えないし、ここが自分の部屋でないことは十分承知である。
ということは一体どこなのだろうか。
すると――。
「目が覚めたのか?」
未だベッドから起き上がることさえできないまま、かすかに目を開けていたシンの耳に心地いいテノールが響いた。
声のした方向へと――極力頭を動かさないように――ゆっくり振り向けば、そこにいたのは見たこともない美青年。
目を見開いたシンをどう思ったのか、青い瞳がどこか悪戯っぽく笑っている。
「冷たいレモン水があるが、飲むか?」
「あ、はい…」
差し出されるままにグラスを受け取ったシンは勿論状況が飲み込めていない。
目の前の人物やこの場所に疑問がわかないわけがなかったが、ひどく喉が渇いているのも事実だ。
よく冷えた水は枯渇した全身を潤すように染み渡っていった。
ほどよいレモンの酸味も、今の自分にはちょうどいい。
あっという間にグラスを空にすると、シンは目の前の美丈夫を見上げた。
おそらく初対面。
これほど特徴のある顔を忘れるはずなどない。
「あの、貴方は?」
「俺はユダだ。昨日のことを覚えてはいないのか?」
「はい…。何か失礼なことをしてしまったのでしょうか?」
記憶がないということは恐ろしい。
自分の酒癖が悪いという話は幸い聞いたことがないが、あの状況を考えてもここまで自力でたどり着けるわけがない。
となれば目の前の男性――ユダが連れてきてくれたとしか思えず、一応平均より軽いとは言ってもそれなりに身長のあるシン1人運ぶのは相当骨が折れただろう。
更に親切にも着替えまで済まされており、現在シンが身に纏っているのはホテルのガウンだ。
もしや泥酔のあまり粗相をしてしまったのではないか。
考えれば考えるほど悪い方へと思考が傾いていく。
見知らぬ男性に迷惑をかけたということが申し訳なくてならない。
不安そうに瞬く眼差しをどう受け止めたのか、ユダと名乗った男は小さく笑った。
「もっと他に思うことはないのか」
「え?」
「例えば…」
長い指が頬のラインをなぞってシンの髪を一房掬い取る。
そこに触れるような口付けを落とし、ユダは至近距離でシンの金色の瞳を見据えた。
「俺が無防備に眠るお前に何かした、とか」
「――っ?!」
大仰に驚いてしまい、シンは呻いた。
痛みに頭を抱えるシンの頭上から面白そうな声が降ってくる。
「記憶がないのだろう。何も覚えていないだけかもしれないぞ。俺が酔ったお前をホテルに連れ込んだと、どうして思わない?」
ユダはベッドサイドに腰を下ろした。
ぎしり、とかすかにベッドが軋む。
随分長身なのだろう。腰を下ろした状態でもシンより目線がかなり上だ。
意味ありげに目を細めて笑うその姿は、なんとも言えず蠱惑的で、同性でありながらもシンは動揺する。
「そんな…私は女性ではありませんし…」
「そうだな。確かに男だった」
着替えの際に確認したと揶揄されて羞恥にシンは頬を赤らめる。
「だが、それだけでは何もなかったと言い切れまい。お前はとても美しい」
「あ…」
顎をとられ強制的に上向かされると、理知的な青い眼差しが至近距離からシンを見据えていた。
深い湖面のような青に心の奥底まで読み取られそうで、シンはその視線から逃げようと俯こうとするものの、顎を掴む手は外れない。
痛みを感じない程度の強さではあったが、まるでシンの心の迷いを見逃さないように見据えてくる眼差しにシンは困惑する。
初対面の、しかも男性相手に随分と不躾な行動ではある。
だがそれを不快と思わない自分にも不思議だった。
シンは、元々人付き合いが得意ではない。
人見知りをするというほどひどくはないが、どうも口下手で相手と上手く話をすることができないのだ。
入社して数年、同僚とはそれなりに付き合えるようになったが、親しい友人と呼べるような関係の相手はおらず、シンが友人と呼べるのは学生時代からの付き合いがある数名と、ほんのわずかの例外だけである。
それなのに、目の前のユダにはどうしてだろう。
嫌ではないのだ。
むしろ言葉は辛辣だが触れる指先や向けられる眼差しから、自分を労ってくれているのだということが察せられて、それを嬉しいと思っている自分がいる。
初対面の相手に。
「…あ、あなたは…」
「何だ」
「あなたは、そのようなことする方ではない…と、思います…」
私の勘ですが、と消え入りそうに呟く声に、ユダは少し目を見開き、そして苦笑した。
「そんなに信頼されるとは光栄だな」
低い美声が耳朶をくすぐり、そして離れた。
「残念だ。先に手を出しておけばよかった」
「え?! ええっ?!」
「冗談だよ」
楽しそうに笑う姿は、どう見てもシンをからかっているとしか思えない。
だが、それでも彼を信じられるとシンは感じていた。
- 08.07.28