そこは『世界の楽園』と呼ばれていた。
大陸の最南端の半島にある、人口わずか10万人の小さな国。
国の名前はオリンポス。
神が住む神話の地を国名に命名したのは先代の国主だ。
天然ガスや宝石などの豊富な地下資源、温暖な天候によるリゾート施設として観光客も多く、
国としての規模は大陸のどの国々にも及ばないが、国益は大陸でも五指に入る。
更に美しい海岸を目当てに世界各国から旅行者が訪れるため観光の利益も莫大で、娯楽施設も多種に及んでおり、カジノでは一日に小国の国家予算レベルの金が動くと噂されているほどだ。
だがそんな豊かな暮らしをしているのは、実際にはこの国の民ではなく、この国を第二の住処と定めた各国のセレブと呼ばれる一部の者たちだけだ。
自らを選ばれた者と呼び、国の一等地に連なる高級住宅街をパラダイスと称する。
この地で叶わないことは何もない。金を払えば全てが手に入る。
富も権力も、そして若さですら。
そう揶揄されるほどに、この一角には全てが揃っていた。
「パラダイスか…」
眼下に広がる夜景を眺めながら、ユダは自嘲めいた笑みを浮かべる。
パラダイス――楽園。
この区画に入れない一般市民が憧憬と嫉妬の意を込めてそう呼んでいることは知っている。
知らないということは幸福なことだ、とユダは思う。
確かにこの国は豊かだ。
生活基準も平均してみれば他国のそれに比べて遥かに高いだろう。
世界の富裕層が全て集まる国という呼称もあながち比喩ではない。
選ばれた者――それは移住するための莫大な金額を一括で支払うことができる者という意味だ。
たとえそれが綺麗な金であろうと穢い金であろうと関係ない。
国主である大公が提示する金額を定められれば国民となれるのだ。
そうして集まってきたセレブはすでにこの国の人口の3パーセントを占める。
そして国の利益の8割がその3パーセントのセレブによって運営されているのだ。
残りの国民の生活が豊かかどうかなど一目瞭然。
そんな場所をパラダイスと呼べるのだろうか。
華やかな繁華街、プライベートビーチ、高級ブランド街。
他者にかしずかれるのが当然のように暮らす一部の人間のみに許された場所。
この国に生まれ育った純粋な国民はそんなセレブの影に隠れてしまう。
彼らは善良だが、生活は良くて中の下、決して裕福とは言えない。
貧困にあえぐというほどひどい生活をしていないから不平不満は形になって表れていないが、この国の内情は決して見かけほど綺麗なものではないのだ。
大公家の長子として生まれ育ったユダだからこそすべてを知っていた。
利権を狙って動くマフィアの存在、私腹を肥やしていく官僚。
専横を敷いていく国主。
国主としてのあり方を幼い頃から学んでいたユダにとってここ数年で激変した国政に納得することなどできず、次代の国主として約束された地位を蹴って野に下ったのが先年のこと。
父であるゼウスと袂を分かち、義弟のルカと共に現政権を倒すべく立ち上がったのだ。
カジノの利権を独占してマフィアとの癒着が囁かれている現大公と、私財を投げ打って格差をなくそうと奔走しているユダ。
国民がどちらを支持するかは明白だ。
退位してほしいわけではない。
ただ、今までの過ちを認めて本当の国民のためになる政治を行ってほしかっただけだ。
だがユダの謀反にゼウスの怒りはすさまじく、継承権を剥奪した上にマフィアにユダの始末を命じたという情報が入ってきては和解などできるはずもない。
(ゼウスは変わってしまった…)
かつては父としても指導者としても尊敬していた。
独裁を行っていた先代クロノスを退位させ国のために尽くしていたゼウスはユダの誇りだった。
だが今のゼウスはクロノスと同じ道を辿っている。
それならばそれを止めるのは息子であるユダの役目なのだ。
かつてのゼウスがそうしたように。
だが、早期解決を目指した決起はユダの予想以上に広がり、事態はこじれていくばかり。
先の見えない展開にユダはため息をついた。
◇◆◇ ◇◆◇
「暗殺?」
訝しそうなユダの問いにルカは真剣な面持ちで頷いた。
「あぁ、つい先程掴んだ情報だ。間違いない。ゼウスはどうしても我々を葬りたいようだぞ」
「形振り構っていられないというところか」
父親が子供を殺そうとする。
長い歴史の中でそれは決して珍しいことではない。
特に王位継承争いとなればそれは頻繁に行われていたことで、ユダの父ゼウスでさえも祖父クロノスに公然と生命を狙われていたことがあったほどだ。
だがまさか自分がその当事者になるとは思っていなかった。
いくらゼウスでもそこまではしないだろうと、心の奥でまだ父を信じていた自分が可笑しくてユダは小さく笑う。
それがルカの癇に障ったのだろう。
柳眉が顰められる。
「笑い事ではないぞ。ゼウス子飼いの暗殺者は有能だ。私達にすらその実態を掴めさせないほどなのだからな」
「わかっているよ、ルカ」
ゼウス子飼いの暗殺集団。
この近代の世に何という不釣合いな言葉か。
だが実際にゼウスには数人から数十人と言われるほどの暗殺者を飼っており、彼らはゼウスの言葉一つでその手を血に染めるという。
顔も名前も一切わからない彼らは、年齢や性別すら不明のままだ。
滅多なことでは表に出てこないが、その腕は確実。
ユダ自身一度も見たことはないが、数年前からゼウスの政敵が次々と亡くなっている背景に必ず潜んでいる彼らの影には気づいていた。
「ゼウスは本気だ。おそらく四聖獣が出てくるはずだ」
「四聖獣…」
総人数すら不明の彼らを束ねているのは四人の幹部だということだけは、ようやく突き止めた。
彼らの通称が四聖獣。その名の通り青龍、玄武、朱雀、白虎の冠を抱く人物らしい。
民意は今ユダに傾いている。
ここでユダを葬り、早急に事態を終結させて己の権力を確固たるものにしたいというのがゼウスの目的か。
だがユダとて何の覚悟もないまま反旗を翻したのではない。
生命を賭ける覚悟はとうに出来ている。
それでもそう簡単に捨てるつもりは毛頭ないのだが。
「こちらも警備を増やすぞ」
「必要ない」
「ユダ!」
「奴らが正々堂々と現れるとは思えない。警護を増やしたところでその中に紛れ込まれても厄介だ」
「相手は暗殺者だぞ!」
「だからだ。俺が狙いだと言うのなら、どのような手段を用いてでも俺を殺そうとするだろう。警護を増やせばそれだけ犠牲が増える」
ユダのためならばと命を賭ける者は多いだろう。
だが他人の命を犠牲にして、護ってくれる人の陰に隠れて身を守って、それで指導者たる人物だと言えるだろうか。
信念を持って行動していく以上、危険は覚悟の上だ。
実の父と敵対すると決めた日から既に覚悟は出来ている。
それに――。
「俺に何かあったらお前が引き継いでくれるのだろう」
ユダはルカを振り返る。
血を分けた義弟。
ゼウスへの翻意を決めた時に何も言わず味方になってくれた半身だ。
正妃との間に生まれた唯一の男子。
本来ならばルカこそが正当な後継者だったはずなのだが、彼はユダを主と定めて動かない。
生まれたのはほんの数ヶ月の差。
ほとんどの時を一緒に過ごしたと言っても過言ではない。
だからこそルカの能力はユダが一番よく知っている。
感情が表情に出ないだけで、ルカはとても情が深い。
多分、ユダよりも遥かに。
万一自分の身に何か起きても、ルカが自分の遺志を継いでくれると信じている。
それだけは誰に言われなくても分かっている真実だ。
そう気持ちを込めてルカを見れば、ユダの心境を理解しているが故に苦虫を噛み潰したようなルカの顔。
「勿論、そうならないように十分注意はするさ」
「…そうあってほしいものだな」
低く呟かれた声にユダは笑った。
- 09.03.01