日常が非日常に塗り潰される瞬間というのを、テツヤはこの日初めて知った。
何の変哲もない1日だった。
学校に行って授業を受け、昼食後を満腹感から襲ってくる睡魔と闘いつつ午後の授業をやり過ごし、放課後の時間は部活動に全精力を費やして帰宅する――――そんな珍しくも何ともない1日。
歯車がずれたのは些細な行動が原因だった。
愛用していたリストバンドの汚れが目立ってきたから新調しようと帰宅途中にあるスポーツ用品に行ったのだ。
だがしかし、たまたまその店にいつもと同じ種類の在庫がなかった。
違うメーカーのものなら置いてあったのだが、中学からずっと同じメーカーを愛用していたテツヤは品切れだからという理由で変えるのも気が進まず、かと言って唯一残っていたド派手なショッキングピンクのリストバンドを購入するのも躊躇われ、それならと店主が薦める別の店に足を延ばした。
たったそれだけのことが、テツヤを非日常へと導いた。
何故あの時、数日もすれば入荷するという店主の言葉に素直に納得しなかったのか、今となってはそればかりが悔やまれるが、過ぎてしまったことを嘆いても仕方ない。
ともかく、テツヤはたかがリストバンド1つのために己の運命を大きく歪ませることとなったのだ。
電車で2駅のその店は、所謂繁華街の外れにあった。
夜も更けると治安が悪くなるということだが、現在の時刻は19時。
酔客が増える時間でもないため、歩道を歩いている人は帰宅途中のOLやサラリーマンが多く、そんな中で学生服姿の高校生の姿は何となく異質に感じられて、テツヤは心持ち足早になりながら店主が教えた店の扉をくぐった。
飲食店街にほど近い立地条件のためか店内には2〜3人の客しかおらず、テツヤはそう苦労することもなく目当ての品を購入することができた。
そうして店を出てから、視界の端々にいかがわしい店の看板が目に付くことに今更ながら気づいたテツヤは、なるべく周囲を見ないようにと慌てて駅へと続く道を急いだ。
だが不慣れな街で周囲を確認せずに歩いていたのがいけなかったのか、道に迷ってしまったらしい。
先程見た景色とは随分と様変わりした様子にテツヤの表情が曇る。
どうやら駅から遠ざかってしまっているようだと気づいたのは、先ほどまで沢山見えていたサラリーマンの姿が少なくなっているからだ。
それだけではない、歩いている人の姿すら明らかに少なくなっている。
その代わりと言っては何だが派手な服装や髪形をした男性の姿が目立つようになり、それに比例するように周囲の看板に「ホスト」だの「キャバクラ」だのといった文字が目立つようになっている。
これは完璧に迷ったようだと周囲を見回してみても、道を訊ねる雰囲気ではない。
どうやら客引き要因らしい男性達は突然現れた異分子であるテツヤには興味を引かれた様子もなく、路地に集って煙草をふかしつつ仕事の愚痴などを零している。
あの中に入って道を聞く勇気はテツヤにはなかった。
携帯のアプリで現在地を確認しようと、テツヤは人気のない路地へと移動した。
雑居ビルの裏路地だが電波が届かないということはなく、テツヤは地図で駅までの道を確認して
一刻も早く家に帰るために一歩を踏み出そうとして―――――突如開いた扉から飛び出してきた男と正面衝突した。
「っ?!」
相手は中肉中背の30代前後の男だったが、平均体重を遥かに下回るテツヤはあっさりと当たり負けをして後ろにひっくり返った。
男はどうやらバランスを崩しただけらしく、体勢を整えるのも惜しいと言わんばかりに大通りへと走っていく。
まるで何かから逃げるかのように。
一体何が起きたのかと目で追うテツヤは、その男が突如小さく悲鳴を上げて前のめりに倒れていくのを眺めていることしかできなかった。
ピクリとも動かない男を助けようという者はいない。
当然だ、この裏路地は元々人の姿がなく、男が倒れたことに気付く者などそもそもいないのだ。
「ったく、逃げ足だけは早いんだからよ」
酷く――――酷く冷淡な声がテツヤの耳に届いた。
気が付いたらテツヤの前に2人の男の背中があった。
どうやら男が飛び出してきた扉から出てきたらしい。
180センチは余裕であるだろう。
地面にしゃがみ込んでるテツヤからは更に大きく見える。
2人は倒れている男に歩み寄ると、まるでゴミか何かを扱うようにつま先で男を小突いた。
ぐらりと仰向けに倒れた男の目はうつろで、口からは赤い泡を吹いている。
事切れているのだということは一目でわかった。そして原因が目の前の2人にあることも。
「逃げ切れると思ってたら、随分とめでてえ頭だよな」
「まぁ、赤司っちを怒らせた時点で地獄行きは確実っスからねぇ」
「つまんねーもん、殺っちまったな」
男の首筋から細い針のようなものを引き抜きながら、目つきの悪い男がつまらなそうに吐き捨てた。
何が起きたのかわからない。
ただ、倒れている男性が目の前の2人に殺されたのだということだけが漠然と分かった。
どうして、という理由はこの際関係ない。
それはテツヤが気にするべき問題ではないし、正直、そこまで気に掛けられる程の精神的余裕はなかった。
テツヤの脳内を占めるのは、一刻も早くこの場を離れなければということ。しかも目の前の2人に気付かれずに。
生来の影の薄さが幸いしてか、2人はまだテツヤの存在に気が付いていないらしい。
音を立てないように荷物を手繰り寄せる。
手も足も震えてまともに動くかわからないが、それでも物音を立てずに逃げなければ間違いなく殺されるだろう。
表情一つ変えずに人一人の命を奪った男たちだ。
目撃者であるテツヤを助けてくれるとは思えなかった。
男たちは倒れた男性をどうやって処分しようかと話している。
今のうちにと立ち上がろうとした瞬間――――テツヤの足元で携帯が鳴った。
「――――――――っ?!」
「なっ――――――子供?!」
ガタガタガタと震える音に反射的に振り返った男たちは、腰を抜かしたように道路に座り込んでいるテツヤを見て絶句した。
今の今までそこに第三者がいるということに気が付かなかったことに驚いたのだろう。
それはテツヤに初めて会った人全員が驚くことだからそれ自体は問題ではない。
テツヤは座ったままジリ、と後ずさった。
逃げなければと思うのに足が動かない。
すぐに携帯を取り、かけてきた相手に助けを求めるなり警察に通報するなりしなければいけないと思うのに、思考は凍りついたまま。
鳴り続く携帯の振動音だけがその場に響いていた。
色黒の男が頭を押さえてため息をつき、金髪の男が困ったようにテツヤを見ていた。
「―――お前のせいだかんな、黄瀬」
「え?! 何で俺なんスか?! どう見ても青峰っちのミスでしょ」
「やかましい」
「痛っ」
ガツンと拳で金髪の男の後頭部を殴りつけた男――青峰は、未だ道路に座り込んだままのテツヤを一瞥して再度ため息をついた。
「ったく、今日は赤司も緑間もいないってのに、面倒だな」
「かと言って無罪放免ってわけにもいかないっスよ。何せ見られてるっスから、アレ」
背後で倒れたままの男を目線で示して、黄瀬と呼ばれた金髪の男はテツヤへと歩み寄ってくる。
そしてそのままテツヤの痩躯を肩に担ぎ上げた。
「―――や……っ!」
「あぁ、大丈夫。暴れたりしなければ怖いことないから。てか、軽っ。君、高校生だよね。もうちょっと太った方がいいよ」
「何くっちゃべってんだよ。とっとと中に入れ」
「はいはい。青峰っちは人使いが荒いんだから」
「あの…、僕、帰りますっ」
「あーん? 目撃者を手ぶらで帰らせるわけねえだろうが」
「ということでちょっとだけ俺らに付き合ってね。まぁ、君は堅気みたいだし、殺しはしないよ。多分」
そう言われてビルの中へ連れてこられた黒子は、肩に担がれたままエレベーターへと乗せられた。
雑居ビルばかりが立ち並ぶ場所だと思っていたが、黒子が連れ込まれたビルは雑居ビルというには小奇麗だった。
繁華街はあまり歩かないが先程視界に入ってきていた雑居ビルはお世辞にも綺麗とは言えない建物が多く、そのせいだろうか、この建物がとても立派なものに見える。
恐らくは築年数が浅いのだろう白い壁には汚れ一つない。
BGMなのか微かに聞こえてくる音はクラシックで、怪しい雰囲気は欠片も見られない。
だが男がこのビルから逃げるように飛び出してきたのは事実で、その男を追うようにやってきたこの2人が男を始末したのも事実だった。
自分はどうなるのだろうと思うと身体の震えが止まらない。
だが逃げることは不可能だ。
自分を担ぐ男の身体は一見細いのに高校生であるテツヤを肩に担いでまったく辛そうな様子は見られず、そして前を歩く男は自分を担ぐ男よりも逞しい身体をしているのだ。
そして何よりも、テツヤの身体を拘束している腕の力は思ったよりも強く、テツヤがどれだけ暴れようとピクリともしないだろう。
泣きそうになりながらも、それでも最後の根性で涙だけは流さずテツヤは男の肩の上で己の無事を願っていた。
「さて、ここだよ」
連れてこられたのは12畳ほどの白い部屋。
椅子と机と段ボール。
そして、パイプベッドと数台のカメラ。
ひくり、とテツヤの喉が戦慄いた。
何がどうしてこの部屋に連れてこられたか理由はわからないが、とりあえず話し合いをする目的でないことだけは確かだ。
密室に用意されているベッドとカメラ。そしておそらく堅気ではない男たち。
楽観的な予想などとてもじゃないができない。
男はテツヤをベッドに下ろすと、その手に革製の手錠をつけた。
手錠には鎖がついており、男はそれをベッドに括りつけると、当然のように引っ張られたテツヤの身体はベッドへと沈んだ。
視界に天井が映る。
黄瀬がテツヤの身体をベッドに磔にしていき、青峰がベッドの周囲にカメラを設置し始める。
「おい、俺はパスな。胸のない男じゃ楽しめねえ」
「じゃあ俺が」
「好きにしろよ。ただ、しっかり撮れよ」
「それは任せて。自信あるっス」
聞こえてくる会話は不安と恐怖しか煽らない。
「お、学生証発見。黒子テツヤ、誠凛高校1年生。何だ、お前バスケ部なんだ」
テツヤの鞄を漁っていた青峰がどこか楽しそうにそう言う。
あまりにも緊張感がない声だったからか、テツヤは思わず青峰に声をかけていた。
「あの……何をするんですか…」
「あん? 口止めだよ、口止め」
「ですから……」
「まぁ、わかりやすく言えば『ハメ撮り』ってやつっスよ」
「ハ、メ……?」
「何だ、お前まっさらなんだな。そりゃ気の毒に」
言葉の意味が分からずきょとんとするテツヤに、青峰が一瞬だけバツが悪そうな顔をする。
対称的に黄瀬の表情は明るくなった。
「俺、思いがけず良い役ゲットできたのかも」
「あー、お前好きそうだもんな。こういう純情無垢って感じの奴」
「だって可愛いじゃないっスか、この子。それに何も知らない子を俺色に染めるって楽しいっスよ」
「流石、ゲス瀬」
「失礼な」
言われたことの意味はわからないけれど、これはきっと良くないことなのだということだけはわかる。
逃げられるものなら逃げたいのだが、両手をベッドに拘束されている以上テツヤが自力で逃げ出すことは困難だ。
にこりと笑った黄瀬の顔は女性ならばうっとりと見惚れる類のものであったが、生憎テツヤにとっては恐怖を増幅させる代物以外の何物でもなかった。
黄瀬の手がテツヤの学生服のボタンをはずしていく。
ゆっくりと見せつけるように外していくのは、もしかしたら撮影のパフォーマンスなのかもしれない。
白シャツのボタンも1つ2つと外し、剥き出しになった白い喉へと指を這わせた。
「―――――――っ」
「あは、敏感なんだ。可愛いね」
テツヤの反応に満足したのか、黄瀬は大きな手がテツヤの薄い胸を撫で回していき、もう片方の手でネクタイを緩めた。
気が付いたら青峰の姿はなかった。
興味がないと言っていたから部屋から出て行ったのだろう。
代わりにベッド脇に設置されてあるカメラに赤いランプがついているのが見えた。
黄瀬の手がやんわりとテツヤの下半身へと伸ばされ、そこでようやく己の身に何が起きているのか気が付いた。
本当に今更だ。どうして最初からその可能性に気が付かなかったのか。
「ぁ……、やめ……」
ふるふると首を振るテツヤを黄瀬は嬉しそうに見下ろした。
明確な意思を持って動き出した指の動きにテツヤの瞳に涙の膜が張る。
そんなテツヤの状態に気が付いていながら、それでも黄瀬は慈しみを込めるようにテツヤの頬へと手を添えて耳元で囁いた。
「大丈夫。初めてでも思いっきりキモチ良くしてあげるからね」
テツヤの瞳が絶望に彩られた。
- 14.01.11