この野郎、とテツナは笑顔で手を振る友人の幻覚に毒づいた。
現在テツナは見覚えのあるホテルの一室にいた。
そう、数か月前にテツナの度肝を抜く事件を起こさせてくれたあのホテルである。
こんな部屋二度と来たくなかったのにどうしてこうなったと嘆いてみせても逃げることは不可能だ。
都内の高級ホテルの最上階にあるセミスイートルーム。
スイートルームよりはお手頃価格となっているものの、一泊の値段は普通のシングルルームとは比較にならない。
いつものテツナなら決して足を踏み入れる場所でないのだが、そんなテツナがどうしてこの部屋にいるかと聞かれれば答えは簡単。
拉致されたからだ、目の前で悠然と座っている赤司征十郎に。
火神との契約――――基、約束を交わした翌日、テツナは産婦人科へ定期健診に赴いた。
エコーで見る限りお腹の子供の発育は順調だということに安堵して病院を出たまではよかった。
流産の可能性も低くなったこともあり少しずつベビー用品を買い揃えようかといくつかの店を回り、驚くほど小さい新生児用の服を数点購入して家路についたのだが、あともう少し、この角を曲がれば自宅が見えるという場所でテツナの足は凍りついた。
曲がりきる前に見えてしまった自宅前。
そこにででんと鎮座まして自己主張する黒塗りの車に思わず持っていたバッグを取り落した。
黒子家のものでないのは家族である自分が良く知っている。
そして、あのようなゼロがいくつつくのかわからない高級車に乗っている人物となれば、テツナの記憶では1人しかいなかった。
「さて、僕は何も見ませんでした」
今日は久しぶりにどこかのホテルにでも泊まってみますかね。
最近外出していなかったから、ちょっとくらい遠出するのも良いかもしれない。
幸い都内から2時間も電車に乗れば有名な温泉街がいくつもあることだし、そこでゆっくり骨休めをするのも良いだろう。
まぁ妊婦は温泉に入れないけれど部屋風呂がある旅館に泊まれば良いだけの話だし、とりあえずあの車が家の前からいなくなるのに1日もあれば十分。
そんなことを考えながらテツナは足元に転がったバッグを拾い上げると綺麗に回れ右をした。
何って、勿論この場所から一刻も早く離れるためである。
だがしかし、テツナの浅はかな考えなんてとっくにお見通しだった人物がいた。
誰だなんて言うまでもないだろう。
「やぁ、テツナ。久しぶりだね」
「赤司、くん………」
お前実はずっと後をつけていたんじゃないかと問い詰めたくなるほどの至近距離に、彼はいた。
おかしい。ミスディレクションは自分だけの特性だったはずなのに。
自宅前に車を置いておいたのは単なるカモフラージュだったということか。
あまりにもテツナの思考を読んでいる赤司である。恐るべし観察眼。
その後赤司に腕を掴まれ、テツナは埃一つついていない高級車に押し込まれた。
幸いテツナを押し込めた腕の力は優しかったのでお腹に負担はかかっていないが、連れ込んだ相手が赤司だったために精神的な負担は結構なものだ。
そうして連れてこられたのがこのホテルである。
何かもう嫌な予感しかしない。
部屋に連れ込まれふかふかのソファーに座らされ、目の前に置かれたのはオレンジジュース。
対面に座る赤司の前には珈琲が置かれていることも、テツナの嫌な予感を膨らませていく。
妊娠も4か月になり、テツナの体型はみるみる変わっていった。
体重の増加により頬がふっくらとしてきたし、胸も以前より大きくなった。
まさかの2カップ上昇に妊娠万歳と喜んだのはつい先日である。
何よりもテツナは細身なので腹部の膨らみが目立つようになったのだ。
そのため普段はチュニックなど目立たないような恰好をしているのだが、女性らしい恰好をあまり好まなかったテツナがそういう服装をすることが親しい人には不審を抱かせてしまうこともあるのだろう。
誰よりも聡い赤司が何も思わないはずがない。
どうして彼がと思えば、咄嗟に浮かんだのは唯一の相談者である火神の姿。
そういえば火神はキセキの連絡先を知っていた。
親しいわけではないくせに、それでも何故か携帯の番号やメルアドを交換していたのだと今更ながらに思い出した。
火神はテツナに「とりあえず本人と話し合え」と言っていた。
一応頷いておいたもののテツナは赤司と話し合うつもりは1ミクロンもなかった。
おそらく火神はそんなテツナの考えを読んでいたのだろう。
彼が赤司に連絡を取ったのだ。
そうに違いない。
そうでなければ報告した翌日に赤司が自宅前で張っているなんてことはありえない。
とりあえず火神には次回会った時にイグナイトを喰らわせておくべきだろう。異論は認めない。
それよりもまずこの事態をどうしよう。
正直針の筵に座っている気分なのだが、赤司が何も言わない以上テツナから何も言えなかった。
どうにかしてこのまま帰れないだろうかと扉を眺めるテツナに、赤司がくすりと笑う。
「テツナ。一度成功したからと言って二度目があるとは思わない方がいい」
「なっ、何がですか?!」
「僕から二度も逃げられると思うなと言ってるんだよ」
そう告げる赤司の顔は、この部屋から絶対に逃がさないと言葉以上に宣言していた。
テツナの背に嫌な汗が伝って落ちる。
赤司が何を言いたいか分からないが、それがテツナにとって良いものである保障はない。
それどころか聞きたくない内容である可能性の方が大きいだろう。
テツナは妊娠している。
それは疑いようのない真実だ。
相手は赤司だけれど彼がそれを知っているとは思えないし、万が一気づかれていたとしても赤司が歓迎しているとは限らない。
何しろ赤司はまだ学生だ。
交際していたわけでもないたった一度関係を持っただけの元友人を妊娠させてしまったということは赤司にとっても赤司家にとっても醜聞以外の何物でもないだろう。
赤司の家は指折りの名家だし、その嫡男である赤司は将来家を背負って立つ存在だ。
名門の家がどういうものかテツナは良く知らないが、家柄と格式を重んじるだろうということは想像がつく。
彼は大学を卒業した後は家業を継ぐために系列グループに就職して、そうして数年もすれば家の決めた名家のお嬢様と結婚をするのだとテツナは思っている。
そこにテツナが入る要素は欠片もない。
テツナはごく平均的な家に生まれ育った一般市民だ。
そこそこ有名な大学に在籍していて一応作家という肩書もついているが、名家かと言われれば否としか言えない。
つまり、住む世界が違い過ぎるのだ。赤司とテツナは。
だから会いたくなかったのだ。
会ってしまえばこうして格の違いを見せつけられるだけだし、どうあがいたところでテツナと赤司が交わる運命などないのと思い知らされるのだから。
もう嫌だ早く帰りたい。
それしか考えていなかったテツナは、赤司の言葉を聞き逃してしまった。
「………だ。返事を聞かせてもらいたい」
「何のですか?」
「………………………」
失敗した。
赤司の大きなため息を前にテツナは己が赤司の声を聞き逃していたことに気が付いたが、全ては後の祭りである。
ずっしりと重くなる空気にいたたまれなくなったテツナが、もうどんなに反対されても逃げようと覚悟を決めて立ち上がろうとした時、赤司が再び口を開いた。
「結婚してほしい」
「………………………………は?」
何だろう、幻聴が聞こえた。
「僕としてはこのまま君を京都に連れ帰ってしまいたいんだけど、流石にそれはできそうにないからね。まずは婚約という形になるが、日を選んで入籍だけは済ませてしまいたい。挙式は式場の予約が取れ次第ということで――」
「いやいや、言ってることの意味がわかりません」
「だって、いるんだろう。僕の子が、君のその中に」
赤司の指がゆっくりとテツナの下腹部を指し示す。
ぎくりと身を強張らせたことが赤司の言葉が正しいのだと物語っている。
ばれていないとは思っていなかった。
聡い赤司のことだ。
テツナが妊娠していることなど一目見てわかるだろう。
硬直するテツナに赤司は顔色も変えずに言葉を続けた。
「家族がバラバラになるのは良くないと思うんだが、テツナはどう思う?」
「や…だって、この子は君の子じゃ……」
「僕の子だよ。2か月前のあの日、僕はこの部屋で君を抱いた。避妊はしていない。現在君が妊娠4か月ならあの時できた子に間違いないだろう。テツナは処女だったし」
くすくすと笑う姿はどこか楽しそうで、テツナの中に一抹の不安が過る。
そう、赤司はとても用意周到な男だ。
幼い頃から自らの立場を自覚して行動してきたような男なのだ。
たとえ酔っていたからと言っても、恋人でない女性を避妊もせずに抱くなどということがあるだろうか。
一瞬の快楽のためにしろ、喧嘩をした相手に対する腹いせにしろ、どのような目的であれ相手が妊娠してしまえば赤司に待っているのは厄介事以外の何物でもない。
いくら赤司が名家の出身であろうと揉み消すにはリスクが高すぎる。
それがわからない赤司ではないはずなのだが。
だがしかし、赤司はテツナを抱いた。そしてその結果、テツナは妊娠した。
考えられる可能性としては、それが最初から赤司の計画だったのではないかということだ。
そう思ってはみるものの、それでも赤司を信じることができない。
だってテツナは今までに一度も彼に好きだとも愛しているとも言われていないのだ。
しかも最後の記憶が言い争いをしている2人の姿だ。
尤も怒っていたのは一方的にテツナだったのだけれど。
そんな状態でできてしまった子を赤司が可愛がってくれる保証などない。
どうせ家に反対されてテツナと子供を捨ててしまうのだ。そうに違いない。
だったら父親になってくれると言ってくれる火神の方が何倍も良い。
妊婦は情緒不安定になるというが、テツナも正にそれだった。
テツナは瞼がじんわりと熱くなっているのに気づいて慌てて立ち上がった。
これ以上赤司の顔を見ていたら泣いてしまいそうだ。
イグナイトを喰らわせてでも逃げるしかない。
「この子の父親は…か、火神くんです! 父親になってくれるって言ってくれました!」
「………そうか、大我が……」
「そうです。僕は大我くんと一緒に幸せになるんです。この子だって……っ?!」
くつくつと響いた笑い声にテツナの言葉が止まった。
何だろうと思うまでもない。赤司が笑っているのだ。悪役そのものの形相で。
「いい度胸だ」
そう呟くなり赤司が懐から携帯を取り出した。
そのままどこかへかけたのか、やがて小さな声が聞こえてきた。
『何だよ? 話し合いの最中じゃー―――』
「やぁ、大我。君、テツナにお腹の子の父親になると言ったんだって?」
『え? あ…や、それは、その場の流れというか、まぁ嘘じゃねえけど……』
「それは僕に対する挑戦状と受け取って良いのかな。僕からテツナを奪おうと?」
『いやいやいやいや、待てって! 俺がそんなことするわけないだろう!!』
「親切を装って僕にテツナに逢いに行くように告げておきながら、影でテツナを寝取っていたというのか。大我がそんな下衆な人種だとは思わなかったよ。せいぜい夜道に気を付けるが良いよ。無事にアメリカに帰れるといいね」
『待て!! 本気で待て!! ごか――――』
プツ、と通話は無情にも中断されてしまった。赤司の指によって。
さてどうしようと思うのはテツナだ。
何だか火神の人生終了のフラグが立ったような気がするのだが、おそらく気のせいではないだろう。
目の前で凶悪な顔をして携帯を握りしめている赤司が良い証拠ではないか。
「ふふっ、大我が……ねぇ」
あれ、もしかして赤司のヤンデレスイッチ入った?と思うテツナは間違っていない。
チートな頭脳と金と権力を持った赤司がヤンデレになった場合どうなるか。
答えは簡単。相手は確実に終了となる。場合によっては自分も。
というかそもそも赤司の目的は自分だったのではなかっただろうか。
「さて、テツナ。もう一度だけ聞こう。――――そのお腹の子は僕の子だよね」
テツナに頷く以外の何ができるだろうか。
◇◆◇ ◇◆◇
そんなこんなでテツナは東京の赤司邸へと連れてこられた。拒否権はない。
赤司邸には当然のことながら両親がいた。
むしろいないでいて欲しかったと思ってもどうにもならないことはあるのである。
名家の跡取り息子がまさかのデキ婚という事実に、テツナは赤司母の怒りを覚悟した。
だがしかし、赤司母は流石赤司を産んだ女性と言えば良いのか、テツナの思惑を見事に裏切ってくれたのだ。
「まぁまぁ、あなたがテツナさんね。征十郎が言っていた通り、何て可愛らしいお嬢さんなんでしょう。学生だというのにうちの子が本当にごめんなさいね。でも絶対幸せにしてくれるだろうからテツナさんは安心して元気な子供を産んでちょうだい。あ、私のことは是非とも『お義母さま』って呼んでくれると嬉しいわ。…テツナさんだと他人行儀ね。テッちゃんって呼んでもいいかしら?」
「は、はい……」
「あぁ嬉しいわ。この子ってば顔も頭も良いのに中身がアレでしょう。まともな恋愛ができるか心配だったのよね。下手したら結婚だってできないんじゃないかって心配してたくらいだから、テツナさんがお嫁さんに来てくれてとっても嬉しいわ。この子に不満があったら何でも言ってちょうだい。私が説得してあげるから」
「あ、ありがとうございます……」
説得という時点で拳を握りしめた赤司母にそれ以外何を言えばいいというのか。
というか説得(物理)ということですね、わかりません。
予想外の展開ばかりである。
てっきり、
「赤司の財産目当てなんでしょう。既成事実を作って結婚を迫るだなんて、何て性悪なの!」
とか罵られるのを覚悟していたというのに、まさかの大歓迎。
というか母親にこんなこと言われる赤司って一体どういう息子なのだろう…すみません、こういう息子でしたね。
とは言いつつも歓迎されているのは正直嬉しい。
誰だって自分を否定されたくはないだろう。
しかも相手が好きな人の母親ならば特に。
そう、白状してしまえばテツナは赤司のことが好きなのだ。
それも中学からずっと温め続けてきた初恋である。
住む世界が違うから憧れという言葉で自分を誤魔化し、友人として交流を続けられるということで満足していたのだから、こういう事態になって嬉しくないわけがない。
ただちょっと戸惑いが大きすぎるだけだ。
自分の身に起きていることも勿論だが、赤司の対応の仕方とか赤司母の熱烈な歓迎とか。
だって恋人同士でもなかったのだ、戸惑っても当然だろう。
そんなテツナの動揺など気づきもしない赤司はテツナの手を取り自室へと連れてきた。
初めて足を踏み入れる赤司の自室は、私物らしきものもほとんどなくゲストルームのようにも見えた。
それもそのはず、赤司は高校から6年以上京都に住んでいる。
この部屋を使っていたのは中学までなのだから生活感がなくても仕方ない。
ソファーにテツナを座らせ、赤司はその隣に腰を下ろした。
触っていいかと言われたので反射的に頷けば、赤司の手がそっとテツナの下腹部に添えられる。
何故だろう、それだけの仕草なのに涙が出てきそうだ。
「あぁ、まだそれほど大きくないんだね」
「……まだ4か月ですから」
腹部の膨らみはそれほど大きくはない。
だけど平常時に比べれば違いは歴然で、特にテツナのように余分な肉がついていない細身の身体では妊娠の兆候はかなり顕著に現れる。
固く張ったお腹の中には確かに命が芽吹いていて、今日取ったばかりのエコー診断では順調に大きくなっていると言われた。
もう少しすれば性別もわかりますよと言われたけれど、どちらでも構わないテツナは特に聞くつもりもなかった。
1日1日変わっていく自分の身体。
正直怖いと思ったこともあった。これからどうなってしまうのだろうと。
だけど検診を受け、エコーを見せられ、お腹の子の成長をつぶさに見てしまえば、母となる喜びに全ては消し飛んでいった。
たとえ父親がいなくてもこの子を愛するだけの自信はあったけれど、それでも心のどこかで一緒に喜んでくれる相手が欲しかったのは事実。
赤司に告げるつもりがなかったから、昨日の火神の言葉は本当に嬉しかった。
だというのに今、赤司はテツナのお腹を撫でている。明確な慈しみを持って。
どういうことだろうとテツナは思う。
だって、赤司と自分はそんな関係じゃなかったのに――――――。
「どうしてですか?」
思わず聞いていた。
この優しい空気に水を差すとわかっていながら、それでもテツナは訊ねてみたかったのだ。
どうして喜んでくれるのか。
どうしてテツナに求婚したのか。
どうして、あの夜テツナを抱いたのか。
何もわからない。何も聞いていないから。
だから知りたいと思った。ただそれだけだ。
「僕がテツナを妻に欲しいと思ったからだ」
赤司の答えは簡潔明瞭。お陰で意味がわからない。
不満そうに眉を寄せるテツナに赤司は柔らかく笑う。
「そうだな。強いて言うなら無自覚で鈍いテツナをこのまま東京に置いておいたら、どこかの駄犬とかガングロとかに掻っ攫われてしまいそうだと感じたからかな。僕の手元に閉じ込めておくには結婚が一番だろう。だからあの日プロポーズしたのにお前は何故か怒って出ていくし。ようやく納得させて結ばれたと思ったら目が覚めたら消えてるし。挙句の果てには妊娠したのに僕に何も告げずに火神を頼る始末。これはもう強引にでも繋ぎ止めておかないと駄目だと思うのも当然だろう」
「……………………は?」
すみません、それ初耳です。
そう言いたかったけれど、何故だか赤司の視線がそれを許さなかった。
というかプロポーズって何それ。
バーで怒ったのは事実だけど、それってどうせ赤司がまたからかったのだろうとか思っていたのに、どういうことなのだろうか。
テツナはどうにかこうにか記憶を引っ張り返してみた。
あの日の記憶は酒が入っていたこともあるし翌朝の驚愕度によってほぼ消えかけているのだが、それでもこれは何が何でも思い出さなければいけないような気がする。
確かあの夜、テツナと赤司は夜景の綺麗なバーのカウンターでグラスを傾けていた。
テツナにとっては別世界のような空間だが、これはいつか小説に役立つだろうと思って窓の外の風景とか店にいるそれなりに地位のありそうな客たちの姿を観察していたことは何となく覚えている。
『そういえば、テツナは綺麗になったね』
そう、赤司は唐突にそんなことを言ってきたのだ。
つい先日緑間から「お前はもう少し女らしくしたらどうなのだよ」と言われたせいか、その言葉を素直には受け止められなかったテツナは、
『何ですか、赤司くんはもう酔ったんですか』
と答えたような気がする。
何せ緑間の言う通りテツナに女性らしさというものは皆無だということはテツナ自身が誰よりも良くわかっていた。
たまたまその日は打ち合わせということでほんの少しだけ化粧していたからそれをからかわれたのではないかと思ったのも、テツナならば無理もない。
『そんなことないよ。今すぐプロポーズしたいくらいに可愛いよ』
雰囲気の良いバーで見目麗しい青年から流し目でそう言われれば、普通なら口説かれていると思うだろう。
だがしかし、相手は黒子テツナである。
中学から続く黄瀬の熱烈な告白もスルーして駄犬扱い、友情を拗らせた青峰のセクハラ紛いのスキンシップもうざいですの一言で切り捨てる男らしさを持つテツナには、そんな女性なら誰もが落ちるであろう美形の口説き文句も挑発行為の1つとしか見えなかった。
アルコールが入っているせいもあるとは言え、本気でもう残念な女子力の低さである。
当然のことながら、赤司の告白を嫌味だと解釈したテツナは怒った。
『僕をからかって楽しいですか?! 生憎女らしくないのも可愛くないのも重々承知ですよ。赤司くんのばか!』
『え―――ちょ、テツナ?』
と怒鳴ってテーブルに樋口一葉を叩きつけると店を飛び出した。
ぽかんとした赤司の顔が何となく記憶の端に残っているようないないような。
その後はうろ覚えだが追いかけてきた赤司とエレベーター前でもみ合いになり、涙目になりながら暴れるテツナを落ち着かせるためにちょっとだけ強引に唇を塞がれ、そのまま何だか良い雰囲気になってスイートルームに入っていったような気がしなくもない。
その後は、まぁ、翌朝の状態を見れば何やら致してしまったことは事実だし―――。
「……………………………………………………………………………………」
テツナの顔が瞬時に赤くなる。
どうしよう、全部思い出してしまった。
自分が誤解していたこともそうだが、あの晩赤司から囁かれた砂を吐くほどに甘い言葉とか鮮明に思い出されてしまって顔が上げられない。上げたら死ぬ。
かあぁぁと真っ赤になってしまったテツナをどう思ったのか、赤司はそんなテツナの肩を抱き寄せて耳元で囁いた。
「『テツナ』……」
「ひゃっ、駄目です赤司く……」
「『可愛いテツナ、僕のものになってくれるね』」
「や、お願いですから……っ」
「『泣いてる顔もいいね。もっと違う顔を見せて』」
「ふ、ぅ…………っ」
「『愛しているよ、テツナ』」
「ぎゃあぁぁぁぁ!! どんな羞恥プレイですか! 忘れてた僕が悪かったです! 君に相談せずに火神くんに連絡したことも謝りますぅぅぅ!!もう勘弁してくださいよおぉ!!」
テツナは叫んでソファーに蹲った。
できることならこのまま床をローリングしたいところだが、一応妊婦なので我慢した。だけど恥ずかしくて死ねる。
一言一句違わず、あの夜耳元で囁かれた言葉である。
というか真昼間にベッドでの睦言を囁かれて平気でいられる女性などいないだろう。
赤司はテツナを憤死させるつもりなのだろうか。
涙目で見上げるテツナに赤司はくつくつと笑う。
その表情は実に楽しそうで、先ほどのヤンデレ化した笑顔とは全く違っていた。
「思い出してもらえたようで何よりだ。もう一度テツナを口説くとなるとかなり大変だからね」
「うぅぅ、赤司くんの鬼、悪魔、サディスト」
「綺麗さっぱり忘れてたお前が悪い。こっちは一世一代の告白だったんだぞ」
「それはすみませんでしたって言ってるじゃないですか。というか、お酒の席で口説く方もどうかと思いますけどね」
「まさか記憶を失くすとは思わないじゃないか。あまり顔に出ないテツナも悪い」
「…もうお酒は飲みません」
「それは困る。酔ったテツナは中々に色っぽいからね。授乳が終わったら付き合ってもらうよ」
「…………………ばか」
ますます赤くなるテツナの顎を捕らえて、赤司は掠めるような口づけをした。
そうして至近距離でテツナの瞳を覗き込む。
「僕の妻になってもらえるね」
「………………………………………………はい」
翌年の正月、キセキたちと桃井は新年早々届いた年賀状を手に全員揃って同時刻に硬直した。
差出人の名は赤司征十郎とテツナ(旧姓:黒子)。
『私達、結婚しました』
そんな挨拶文と共にプリントされているのは2人仲良く寄り添う赤司とテツナ、そしてテツナの腕の中で安らかに眠っているであろう幼子の姿。
「えええぇぇぇぇぇぇぇぇぇ?!!!」
彼らが年賀状片手に京都へ向かうべく新幹線に飛び乗るのはそれから1時間後のことである。
- 14.05.11