懐かしい声がする。
明るく朗らかで、そしてどこか泣きたくなるほど懐かしい声が自分を呼んでいる。
すぐに飛び出していきたいのにどういうわけか身体はまったく動かず、むしろ声に逆らうように部屋の隅で丸くなっている自分がいた。
「テツくん、ほら、黄瀬くん来ましたよ」
「……………やっ!」
「おやおや、すっかりご機嫌斜めだ」
「涙目テツくん、かーわいい」
大人たちのくすくすと笑う声が耳に入ってくるけれど、一番聞きたい声は聞こえない。
本当ならもう来てもいいのに。約束したのに。すぐに来るって。
ポロポロと涙が後から後から流れてくる。
何が悔しいのかもわからなくなって、でも、この状況の何もかもが面白くなくて、テツヤは服の袖で乱暴に涙を拭った。
普段ならそんなことをすれば「目が痛くなっちゃうっスよ」と優しい声が制止してくれるけれど、その声の主は今この場にはいない。
見かねた母親がテツヤを抱き上げようとしたけれど、テツヤは全身でそれを拒絶した。
形の良い眉が困ったように下げられたが、ぐしぐしと乱暴に涙を拭っているテツヤは母親のそんな様子に気づかない。
部屋の隅に蹲ってひたすら嗚咽を堪えているだけだ。
テツヤは幼いけれど滅多に泣かない子供なのでその様子は事情を知らない者から見たら驚くべき光景だろう。
だがここにいる大人たちは全員知っている。
テツヤが『ある人物』が関わった時のみ年相応の泣き虫な子供になるということを。
大人たちに囲まれて育ったせいか、2歳にも満たないというのにテツヤは非常に物分りの良い子供だ。
それこそ周囲から羨ましいと言われる程に聞き分けが良く、また、手がかからない。
テツヤを猫可愛がりしている大人たちにしてみればもっと我儘を言ってくれても良いのにと常々思っているが、生憎彼らのそんな希望は一度も叶ったことがない。
テツヤが我儘を言うのはただ1人だけ。
この場にいない、テツヤの大好きな『りょーちゃ』だけなのだ。
時計は夜の9時を過ぎている。
幼子は寝る時間だというのにテツヤは嫌々とぐずって眠ろうとしない。
昼寝をしたとは言っても小さな体は休息を必要としているのだが、頑として嫌がるのだ。
おそらく泣いている理由の1つは眠さも含まれているのだろう。
母親の代わりにテツヤを抱き上げた赤司がその背を叩いてあやしながらため息をついた。
「――――まったく、涼太にも困ったものだな」
「……この場合、困らせているのはテツくんだと思うんですが」
「このくらい、子供の可愛い独占欲じゃないか。そもそも約束を破った涼太が悪い」
中学の頃からの付き合いか、それとも彼のキャラクターのせいか、黄瀬に対しる評価は相変わらず厳しい。勿論天秤にかけている対象が幼いテツヤなのだから黄瀬に軍配が上がることは決してないのだが。
赤司の記憶が確かなら、黄瀬は19時には仕事が終わると言っていたのだ。
だから一緒にテレビを見ようと、幼いテツヤに約束をしたのは間違いなく黄瀬からである。
大人にとっては一時間などあっという間に過ぎてしまうが、子供にとって一時間はとても長い。黄瀬が昼に顔を見せてから既に8時間。
テツヤにとっては無限にも思える時間であることは間違いない。
時計の見方も分からないテツヤに「この短い針が『8』に来るまでには帰ってくるからね」と告げたくせに、短針はとっくに通り越してしまっている。
今か今かと黄瀬の帰還を待っていたテツヤが泣いてしまうのも無理はない。
どういうわけかテツヤは黄瀬に懐いている。
それこそ母であるテツナよりも父である火神よりも、黄瀬と同じく頻繁に訪れる赤司よりも黄瀬のことが好きなのだ。
生まれてすぐに笑いかけたのが黄瀬だったということもあるのだが、とにかくテツヤは何かあれば「りょーちゃ」と黄瀬に張り付いているくらいにべったりなものだから、どちらが父親かわからないと火神が嘆いたことも少なくない。
勿論テツヤが「パパ」と呼ぶのは火神だけであるため黄瀬を父親と勘違いしているわけではないのは明白だが、常にそんな状況なものだから、黄瀬とテツヤが一緒にいるところを目撃したファンなどがつぶやいたーで「やっぱりキセリョに隠し子がいた!」とか呟かれたりするのだが、そんな事情は気にしていないあたり火神家も黄瀬も、更には友人たちも呑気なものである。
「それにしても遅いですね。もうすぐ来るって言ってたんですけど。ご飯なくなっちゃいますよ」
「自業自得だろ。―――あ、この揚げ出し豆腐美味え」
「あ、それ赤司くんの差し入れです。テツくんの大好物なんですよ」
豆腐と聞いてテツヤの頭がピクリと揺れた。
幼い子供は欲求に正直だ。
特に赤司が持参する揚げ出し豆腐はテツヤのお気に入りでもある。
黄瀬と一緒に食事をするためにずっと待っていたのだが、いい加減空腹も限界である。しかもこの揚げ出し豆腐はテツヤのためにと赤司がわざわざ買ってきてくれたものだ。リクエストしたのはテツヤだが。
備前焼の器にちょこんと乗せられたテツヤ専用の小ぶりの揚げ出し豆腐は綺麗な黄金色で、とろみのついた餡が艶々と輝いていてとても美味しそうだ。
テツヤが好きなものは沢山ある。
両親、両親の友人、猫、犬、美味しいご飯。でも、一番大好きなのは『りょーちゃ』だ。
だがここに大好きな黄瀬はいない。
そのために先程から愚図っているのだが空腹には勝てなかったようで、大好物の豆腐に反応を見せたことに気付いた赤司がテーブルから小鉢を取りテツヤを己の膝に座らせた。
「ほら、テツヤのために買ってきたんだよ」
「……………………………」
「折角買ってきたのに、テツヤが食べてくれないと僕は哀しいな」
「せー、ちゃ」
「さぁ、向こうで皆と一緒に食べよう。涼太の分もテツヤが食べてしまえばいい。テツヤを待たせた罰だ」
「あぅ……」
「ね、良い子だから」
スプーンで一匙掬ってテツヤの口元に運べば、観念したのか空腹に負けたのかテツヤがぱくりとそれに食らいつく。
もぐもぐと口を動かしへにゃりと笑う姿は何とも言えず無邪気で可愛らしい。
テツナがその見事な手腕にパチパチと両手を叩いた。
「赤司くん、流石です」
「相変らずテツは赤司に食い物で釣られるよな」
「僕の子ですから」
「いや、それ自慢にならねーから」
「テッちゃんが釣られるのはかがみんの手料理だもんね」
「僕の旦那様のご飯は最高なんだっ」
「あー、はいはい」
リア充マジ爆発しろと青峰が吐き捨てるように呟くが、聞いている者はいない。
それもそうだろう、全員の視線は赤司の胸に凭れかかって次の一口を待つ幼子に向けられており、特に母親とその親友の桃井はいつの間に取り出したのかビデオカメラを回している。
そんな女性陣に呆れる様子も見せずにダビング頼むとだけ告げた赤司は通常運転で、自分もあげようとスプーンで豆腐を掬ってテツヤに与えようとしているのは紫原。
火神と緑間がそれを呆れつつ優しい様子で眺めているという構図は、テツヤが生まれたばかりの時からあまり変わらない。
唯一違う所と言えば、テツヤを抱き上げているポジションが黄瀬から赤司に代わっている点だけだ。
普段ならばテツヤに食事をさせるのは赤司ではない。
基本的には母親であるテツナが食事をさせるのだが、友人たちが揃うとその仕事は黄瀬が行うのがほとんどである。何せ当人のご指名だ。逆らえるはずなどない。
何と言ってもテツヤがどれほど泣いていようと彼が抱き上げるとピタリと泣きやむのだ。
ちょっと苦手な野菜の離乳食も、黄瀬が「ちゃんと食べないと大きくなれないっスよ」とか言えばきちんと食べるのだ。
何が理由かはわからないけれど、好き嫌いをなくすにはこれ以上ないくらい適任なので、火神夫婦はテツヤの食事は黄瀬に丸投げしている傾向がある。勿論愛情こもった離乳食を作っているのは母親であるテツナなのだが。
一口、また一口とようやく食事を摂るようになった息子に安心しながらテツナは火神と一緒に更なるおかずを用意する。
成人を迎えて飲酒は解禁になったとはいえ、幼い子供がいる前で堂々と飲酒する気はなく、また、健康的なスポーツマンということもあって食欲旺盛な友人たちの胃袋を満たすべく大忙しである。
赤司がテツヤを見ていてくれるので安心して料理に全力を注げるのが非常にありがたい。とは言っても先ほどから作っているのは火神で、テツナは給仕するだけなのだが。
テツヤは腹が膨れたのと泣いたせいで疲れたのか、赤司の膝の上でうとうとと船を漕ぎ出している。
それでも赤司が小さくカットされた桃を差し出せばパクリと噛り付くあたり、本当に外見だけでなく中身も自分と良く似ているなぁと苦笑してしまう。
強情なところもそっくりだから黄瀬が到着した時はさぞかし手を焼くだろうとテツナが思っていたところで玄関のチャイムが鳴り、同時に少々乱暴に扉が開かれる音がした。
「おい、誰だ。最後に入ってきた奴。鍵くらいかけろよ。不用心だぞ」
「あ、すみません、ボクです」
「テツー。何やってんだ。泥棒入ってきたらどうするんだ」
「うっかりしてました。頼りになる男性が沢山いるから大丈夫かなと思って」
「そういうこっちゃないのだよ」
緊迫感のない口調でテツナが答える。
何しろこの家の中には190センチ超の男性が4人もいるのだ。しかもスポーツマン。ついでに言えばチンピラも顔をそむけるほどの強面が2人ほど。
うっかり侵入してしまった強盗に同情してしまうメンツが揃っているので、ちょっとくらい鍵をかけ忘れても問題なしだ(勿論、実際には問題ありまくりであることは言うまでもない)。
どちらにしろこの時間に乱入してくる人物と言えば1人しかいないので警戒する必要もない。
「ごめんテツヤっち!!! 遅くなったっス!!!」
想像通りリビングに続く扉をぶち破る勢いで入ってきたのは黄瀬だった。
車の音がしなかったからどこかから走ってきたのか、全身汗だくである。
「仕事が押した上に帰りの首都高で渋滞に巻き込まれちゃって、しかも近くは工事中で迂回しなくちゃいけなかったからそこで降りて走ってきたんだけど、結構遅れちゃったよねゴメン」
床にへたり込んだまま申し訳なさそうにテツヤを見上げる姿は、まるで大型のわんこにしか見えない。
こういう姿は中学の頃から何も変わっていないなぁとか大人たちが呑気に見ていると、不意にテツヤが赤司の膝から降りようとしているのに気付いて赤司が小さな身体を床に下ろした。
とてとてと黄瀬の前まで歩いてきたテツヤは、至近距離からじっと黄瀬の顔を見つめると、紅葉のような掌で黄瀬の頬を叩いた。
ぺちん、と可愛らしい音が静かなリビングに響いた。
音は大きいけれどダメージは少ないだろう。少なくとも物理的には。精神的にはどうかは知らないが、涙目でテツヤを見つめる黄瀬の姿を見れば結構なダメージを喰らったであろうことは容易に想像できる。
「テツヤっち…………」
「やくそく、やぶっちゃ、めっ、です」
ぷくっと頬を膨らませるテツヤの目は泣きすぎて赤くなっていたが、ぷんすかと怒っているテツヤ自身はそんなこと疾うに忘れてしまっているのだろう。
両手を腰に当てて「だめなの」と言葉を続けるテツヤに黄瀬以外の大人たちが噴き出した。
「…あれ、もしかしてボクの真似ですか?!」
「テツが火神にやってるの見て覚えちまったんじゃねえの?」
「ちょ……恥ずかしいんですけど」
「テツ君さすが、良く見てるね」
「全くダメージのなさそうな怒り方は良く似ているのだよ」
片や身長100センチにも満たない幼子、片や190センチを超える人気モデル兼俳優。
一見シュールに見える光景だが、火神家にとっては珍しいことではない。
大人の真似をしたがる幼児と、テツヤに激甘の大人たちの間では良く見られることなのだ。
主にテツナを困らせたりとか、テツヤが大事にとっておいたおやつを食べてしまったりとかにおいて行われることが多い。
そして叱られた黄瀬と言えば可哀想なくらいしょげかえってしまっている。
「ごめんなさいっス」
「やくそく、です」
「約束するっス。もう絶対テツヤっちとの約束は破らないっス」
「………あい」
良くできましたと言わんばかりにテツヤが黄瀬の髪を撫でる。
小柄な身体では背伸びをしても届きにくいのか、それでも必死で髪を撫でるテツヤに黄瀬が感極まって抱きついた。
「ふぎゃっ」
「あぁっ、もうっ、テツヤっちマジ天使!! わかってたけど、わかってたけどっ! 大好き! 結婚して!!」
「あい」
「ちょおっと待て! それは認めん!!」
「絶対幸せにするから、テツヤっちください!」
「よしわかった、そこに直りやがれです」
「ちょ、テツナっち――――ぐふぅっ」
「りょーちゃ!!」
火神家のいつもの週末はこうして更けていくのである。
◇◆◇ ◇◆◇
懐かしい夢を見た。
目を閉じればすぐにでも再生されるのではないかと思えるほど鮮明な夢にテツヤは想いを馳せる。
両親を失う前の記憶はほとんどない。
幼すぎたせいかもしれないし、事故のショックで記憶を失ってしまったのかもしれない。
ただ、時折こうして夢を見る時がある。
幼い自分と優しい両親、それから今でもテツヤを可愛がってくれる両親の友人たちとの楽しい団欒を。
おそらく、これはテツヤが幼い頃に体験した記憶なのだろうとテツヤは思っている。
実際夢で見た光景に良く似た日常のDVDを観たことがあるから間違っていないだろう。
初めての子供ということもあってか、テツヤが生まれた時からの映像は沢山残っている。
両親と桃井と赤司が記録係を務めていたのだから膨大なデータが残っていても不思議ではない。
中には恥ずかしくて直視できないようなものも多いが、それもこれも思い出の一つだと言われてしまえば消去できるはずもなく、テツヤが幼い頃の映像は今も黄瀬家や赤司家に大切に保存されている。
だが、今見た夢の映像はなかったような気がするのだが、もしかしたらテツヤが知らないだけでどこかに保管されているだけなのかもしれない。赤司家とか赤司家とか赤司家とか。
夢の中の幼いテツヤは黄瀬と交わした約束が守られなかったと泣いていた。
何とも可愛らしいものだと思う反面、あのように感情をむき出しにして泣くことができる幼さが羨ましい。
成長するとくだらない自尊心とか羞恥心とかが邪魔をして素直になれなくなるのだから。今のテツヤのように。
二度と破らないと約束した黄瀬だったが、残念ながらその後も幾度となく反故にされることがあった。
それも義父の仕事を考えれば当然で怒ることの方が大人気ないとはわかっているのだが、やはり面白くないのはいくつになっても変わらない。
ちなみに昨夜もすぐに帰ってくると言っていたのに、日付が変わっても黄瀬は帰ってこなかった。
それどころか連絡の一つもなかったのだからテツヤだって怒りたくなるものである。
(折角、昨日はオニオングラタンスープ作ったのに)
大人になってから味覚が和風好みに変わった黄瀬ではあるが、オニオングラタンスープだけは変わらず好物のままだったので、久しぶりに時間があるからと手間暇をかけて作ったのだが、結局それは黄瀬の口に入ることはなかった。
捨てるのは勿体なかったので冷蔵庫にしまってあるが、帰ってきた黄瀬に出すかどうかはまだ決めていない。
いっそのこと鍋ごと友人である宮路に押し付けてしまおうかと考えていたテツヤは、起き上がろうとして違和感に気が付いた。
雁字搦めのように巻きついている腕は気にしていない。いつものことだ。
問題はその下、テツヤの身体に関してである。
義父が帰ってくるまで起きて待っていようと思ったのは日付が変わるまで。
睡魔に負けて入浴を済ませて自室に戻ったのが深夜1時過ぎ。
ベッドにもぐりこんだのがそれから10分後。もちろんパジャマは上下共にきっちり身に纏った記憶がある。
だが今、テツヤはパジャマを着ていない。
ついでに言えば下着も履いていない。真っ裸というやつだ。
というか、何かあれこれされたような形跡があるのだが――――。
「父さん……」
「んー」
「寝こみを襲うのはやめてくださいって言ってるじゃないですか」
「すきんしっぷだけっすよ……」
「服脱がすのやめてくださいよ」
「それは無理」
多少目が覚めたのか、テツヤの首筋に顔を埋めていた黄瀬が腕の中から抜け出そうとしていたテツヤを更に抱き込んだ。
勿論黄瀬も裸だ。朝早くから親子が裸でくっついてスキンシップも何もあったものではない。まぁ、テツヤと黄瀬は「ただの」親子ではないのだけれど。
もぞもぞと動いていた手がテツヤの腰に降りてきたあたりで焦り始めた。
今更と言ってしまえば今更だけど、朝から盛るのだけは本気で勘弁してもらいたい。
「とっ、父さん! ちょっと待っ――」
「えー、だって昨日テツヤっち寝てたから父さん物足りないんだもん」
「昨日もしたでしょうが」
「だってぇ、テツヤっちの愛情たっぷり詰まったオニオングラタンスープ食べたら元気になっちゃった」
「玉ねぎに強壮作用はありません!!」
「愛情っスよ。あ・い・じょ・う」
「父さんの馬鹿ぁ!」
黄瀬家の朝はこうして過ぎていくのであった。
- 13.12.28