現実逃避をしたくてもできない事情がある。
定期テストを控えた大学生にとってそれは当然勉強であり、授業内容から主に出題される講義はどんなことがあっても出席しなければならないのだ。
1限目は諸々の状況把握のために欠席してしまったが、せめて午後からの講義だけでも受けておきたい。
午後の講義は出席率が成績に反映されるのだ。
しかも代返が効かないために必ず出なくてはいけない。途中退席も不可という老齢の教授の方針は、今時の大学にしては中々に厳しい。
尤もは勉強をするために大学に通っているので授業をさぼったことはほとんどない。
そのせいだろうか、遅れて姿を見せたは予想以上の好奇の視線に晒された。
中でも今すぐに話しかけてきそうだったのは大学でも親しい部類に入る友人だったが、生憎私語は厳禁の講義だったので意味ありげな視線を向けられるだけで済んだ。
だが当然のことながら授業が終わればそんなこと関係なく、が椅子から立ち上がるよりも先に友人が駆け寄ってきた。
「珍しいじゃない。貴女が遅刻なんて……って、ちょっとどうしたのその手?!」
「えと…ちょっと怪我しちゃって…」
の左手には現在包帯が巻かれている。
どうやっても消えてくれない令呪を誤魔化すための手段だったのだが、今まで傷一つつけたことのないが包帯を巻いているということに驚いた友人は、予想以上に痛々しい表情を浮かべていた。
「遅刻の原因って、もしかしてこれ?」
「うん、まぁ、そんな感じ、かな」
何となく言葉を濁しては笑った。
とてもじゃないが真実は言えない。
彼女はの実家の事情を知っているけれど、父親の破天荒ぶりは知らない。
ついでに世間一般の常識から逸脱していない彼女は、ごく普通の一般市民なのだ。
間違っても父親が陰陽師だったり、式神を使役できたり、何だかよくわからない戦争の参加者になったりするような家ではない。
事情を説明してもわからないだろう。
ついでに家を出る前に言われた物騒な台詞も気になるところだ。
『聖杯戦争については魔術協会の中でも最重要の秘匿事項です。他言無用に願います』
ランサーことディルムッドに言われた台詞の裏には、一般人に知られたらただでは済まないという意味が込められていた。
この場合犠牲になるのはだけでなく一般人の方だろう。
ディルムッドが言い淀んでいたのがその証拠だ。
無関係な友人を巻き込むわけにはいかない。
巻き込まれるのはだけで十分だ。えぇい、あの父親どうしてくれよう。
脳裡で能天気な笑顔を浮かべる若作りの父に恨みの言葉を一つ投げかけて、は意識を切り替えた。
「そんなわけで、申し訳ないけど1限のノート写させてもらえると嬉しいんだけど」
「了解、了解。普段お世話になってるし好きなだけ写して下さいな。お礼はクッキーでいいよ」
「助かります。明後日でいいかな」
「いつでもいいよ。の作るお菓子はそのへんのお店より美味しいから大好き。怪我が治ってからでいいから無理しないでね」
「ふふ、ありがと」
目の前に差し出されたノートを受け取っては軽く笑う。
友人は派手な見た目に反して性格はとても細かくて良い娘だ。
「今日はこれから用事あるの? なかったらお茶でもしていかない?」
「あー、っとごめん。今日はちょっと買い物行かなくちゃだから無理なの。また今度誘って」
「うーん、残念。また今度ね」
そんなことを話しながら2人並んで教室を出る。
赤に近い茶髪に派手なメイクの友人と、生まれてから一度もカラーリングをしたことがないであろう漆黒の髪にナチュラルメイクのの2人組はあまりにも対照的なのだが、実なお互い非常にさっぱりした性格をしていて話が合うのだ。
印象は違うがどちらも美人ということもあり、2人が並んでいると目立つ。
周囲の視線を集めながらも一向に気付かないは、学食に向かう友人と別れて正門へと向かう。
今日の授業は午前中だけだったので、2限の講義に出席すれば授業は終了だ。
午後は突然やってきた同居人の身の回りのものを買う予定である。
ディルムッドはサーヴァントであるため霊体化していれば必要ないと言っていたが、四六時中霊体化しているわけにもいかないだろう。
何しろ家の食事は家族揃ってがモットーだ。
家の中だからと言って全身タイツもどき(どうやらケルティックスーツと呼ぶらしい)でいられても困る。
参拝客に見られたらどうすればいいのだろう。
身長180センチ超のディルムッドは鍛えているせいもあって拓真の私服は入らない。
それならば買い揃えるしかないだろう。
申し訳なさそうな顔をしていたディルムッドの意見は却下させてもらった。
どうせ支払いは父の金だ。
出かける前に手渡されたカードはしっかりと財布に入っている。
彼がどのような恰好を好むかは分からないが、折角のイケメンを飾らないのは勿体ない。
間違いなく道行く人が振り返るほどの美丈夫が完成するだろう。
拓真とはまた違う美形のディルムッドにはどんな格好が似合うだろうかと想像するのはなかなか楽しい。
そんなことを思いながら待ち合わせ場所である駅へと向かおうとしたは、正門の前に人だかりができているのに気づいて首をひねった。
事故だろうかと思ったけれど、集まっている生徒の8割が女性であることを考えればその可能性も低い。
況してや黄色い悲鳴が聞こえてくるのだから、事故というわけではなさそうだ。
近づいていくにつれて見えてくる、輪の中心にいるであろう人物。
女性の群れから頭一つ抜け出している人物の顔が見えた。
困った顔をしていてもイケメンである。
父が用意した魅了封じの眼鏡をかけていながらも、そのイケメンぶりは隠れるどころか一層引き立てられているような気がするのは、多分の気のせいではない。
正直、あの輪に入るのは御免蒙りたい。
だけど彼が自力で出てくるのは難しそうだし、何より見捨てるような気がして嫌だ。
は小さく息をついて、一歩踏み出した。
ハイエナ(女性)に群がられている哀れな子羊(サーヴァント)を救出しに。
◇◆◇ ◇◆◇
ディルムッドは困っていた。
自分の容姿が女性の好むものだということは生前から嫌というほど知っている。
その容姿を更に彩るような黒子が放つ魅了の呪いがそれを増長させていることも嫌というほどわかっている。
そのせいで「不義の騎士」という不名誉な称号までつけられてしまったこの顔を、ディルムッドは正直好きではなかった。
サーヴァントとなっても魅了は解けず、そのせいで先の聖杯戦争では主と信頼を築くことすらできなかったのだ。
多くの称賛を浴びようともどれほどの美姫に想いを寄せられようとも嬉しいとは思えない。
むしろ外見しか用がないのだと言われているかのようだ。
今回の主はディルムッドの魅了は効かないためにもしかしたら魅了の呪いが解けているのではないかとも思ったが、やはり妖精の呪いはそんな簡単に解けてはくれない。
の父である拓真から渡された呪術封じの眼鏡をかけていても尚、それは存在を主張して多くの女性がディルムッドへと集まってくる。
正直うんざりなのだが、騎士として女性を無下に扱うことはできない。
「すまないが…そこを通してもらえないだろうか」
「いやぁん、声もカッコいい」
「お兄さんモデルですかぁ。スタイルいいですよね」
「芸能人なんて目じゃないくらいのイケメンですよね」
わらわらと集ってくる女性に、どうしようかと頭を悩ませたその時。
「お待たせ、ランサー」
涼やかな声と共に人垣をかきわけてが姿を見せた。
多くの美姫を見慣れているディルムッドですら見惚れるほど清廉な空気に、思わず荒みかけていた心が一瞬で癒されていく。
しかもが現れると同時にディルムッドを取り巻いていた女性達が驚いたように離れていった。
「さん?!」
「イケメンの待ってる人ってさんだったの?!」
「そうですけど?」
あっさりと肯定するに周囲から悲鳴が上がる。
はそんな彼女達に構わずディルムッドを見上げてふわりと笑う。
「待たせてごめんなさい、ランサー」
ランサーと呼ぶのはディルムッドの真名を隠すためだ。
聖杯戦争に参加しないとは言ってもそれはあくまでもの言い分であり、令呪を放棄しない限り敵のマスターやサーヴァントに狙われることは間違いない。
そのためにも情報を秘匿する必要があるのは事実で、だからこそは家の外ではディルムッドをランサーと呼ぶことに決めた。
それが彼女の本意ではないとしてもだ。
真名が知られて不利になるのがディルムッドだと分かっているから。
ディルムッドは小さく笑っての頬へと手を伸ばして柔らかな頬を軽く撫でる。
周囲から悲鳴とも歓声ともつかない声が上がるが無視する。
「いや、俺が少しでも早くに会いたかっただけですので」
そのままエスコートするようにの肩を抱き寄せて周囲へと視線を向けた。
どうやらは大学でも一目置かれているようで、彼女が隣に来てから女性達がとても大人しい。
「そういうことなので、これで失礼する」
そう言って輝かしい笑顔のままディルムッドは大学を後にした。
「助かりました、」
「だから駅で待ち合わせましょうって言ったのに」
「サーヴァントである俺が主を1人にさせるなどできません」
「昼間はバトルにならないのでしょう。大丈夫よ。そもそも私達はバトルに参加するつもりはないもの」
「ですがこちらの言い分を聞いてくれる相手ばかりとも限りません」
「勿論、降りかかる火の粉は全力で払うつもりなので、その時は頼りにしてます」
「お任せください」
おどけたように笑うに笑みを返して、ディルムッドはようやくの肩を抱いていた腕を離す。
そしてその手をへと差し出した。
「このディルムッド。全身全霊をかけて貴女をお守りいたします、我が姫君」
はにっこりと笑ってその手に取った。
- 12.10.08