ここはどこなのだろう。
梵天丸は見たことのない景色を前に呆然と立ち尽くした。
どこをどう走ってきたのかわからない。
ただ闇雲に逃げてきただけだから。
――そう、母の放った刺客から。
命がけで自分を逃がしてくれた小十郎は大丈夫だろうか。
相手は複数。しかも手練れの忍びだった。
自分よりも年上とは言え、彼もまだ少年だ。
自分のせいで誰かが死ぬなんてことは、なるべくならあってほしくない。
どうか無事でいるように。
そう思う梵天丸も、己の命運がどうなるかわからないのだが。
「…っ、くっ…」
ボロボロと零れてくる涙は何のためだろう。
母に捨てられた悲しさだろうか、逃げる際に追ったいくつもの切り傷だろうか、それとも心細さだろうか。
逃げる途中で脱げてしまったらしく片方の履物は既になく、小石でも踏んでしまったのだろうか踵からは鋭い痛みと止まる気配のない出血もある。
戻らなければと思うのに、梵天丸の足は動かない。
(だって…戻れば母上がまた怒る)
病で片目を失ってから鬼子だと罵り決して近寄らなかった母が、久しぶりに見せた笑み。
散歩に行こうと連れ出された時の笑顔は昔のままの美しい母だったから気づくことができなかった。
歩き始めてからほどなくして、大勢の忍びに囲まれた時にちらりと見えた侮蔑の眼差し。
あれが、きっと母の本心。
彼女にとて、梵天丸はもういらない存在なのだ。
病に負け醜い傷を負った梵天丸は、彼女には息子ではなく恐ろしい化け物にしか見えないのだろう。
今頃城では梵天丸の捜索が行われているだろうか。
それとも次男小次郎を新たな嫡男と認定するべく動いているのだろうか。
どちらでもよかった。
母に愛されたいと願い、母が喜ぶことを探し、母のために生きようと思った。
それを全て否定された以上、梵天丸にできることなどないのだ。
後はこれ以上母に恨まれないように身を隠すことしかできない。
そしてそれはおそらく簡単なことだ。
何故なら、ここは梵天丸の知るどの場所でもないから。
夕陽に照らされた景色は見たこともない高い建物ばかりで、そこは間違いなく梵天丸がいた森ではない。
大きな音とともに頭上を走り抜けていく鳥のような物体。
見たこともない衣装に身を包んだ民の姿。
綺麗に整備された、だがどこか硬質な印象を与える街並み。
泥だらけ傷だらけの自分がいるには酷く場違いだ。
高台にあるここは神社だろうか、ここだけは見たことがある建物で安心した。
沈んでいく夕陽を、彼は何も考えずに眺めていた。
見たこともない景色なのに、夕陽はいつもと変わらない。
そうして涙を拭うこともせず立ち尽くす彼に、背後から静かな声がかけられた。
「ボク、どうしたの? 迷子?」
柔らかな声にゆっくりと振り返れば、そこにはやはり見たこともない衣装に身を包んだ妙齢の女がいた。
母と同年代だろうか。大きな瞳が印象的だ。
女は梵天丸の姿を不思議そうに見ている。
「お家に帰らなくてもいいの?」
「かえるところなんて…ないんだ」
何故だか素直に言葉が出た。
片目を失ってから生来の人見知りが激しくなって、初対面の相手とこうして話すことなんてほとんどなかったのに。
女はじっと梵天丸を見ている。
だがそれは城の女中のように恐ろしいものを見る目でもなく、また、母のように汚らわしいものを見るような目でもなかった。
ただ、目の前にいる相手を見ているだけ。
そういう眼差しだった。
「じゃあ、うちに来る?」
女はややしてそう言った。
驚いたのは梵天丸だ。
初対面の相手を家に呼ぶなんて。
もしかしたら身代金目当てだろうか。
廃嫡されるだろう自分にはそんな価値なんてないのに。
そう告げると女は笑った。
「迷子の子供を誘拐したところで私に利益なんてないわよ。ご飯とお風呂と温かい寝床くらいは提供できるけど、どうする?」
手負いの獣を手懐けるように、女は梵天丸との距離を縮めないままそう問いかけた。
近づいてきたらおそらく逃げるだろうと思ったのだろうか。それは多分間違っていない。
女の言葉に、梵天丸はしばし悩み、そして小さく頷いた。
自棄になっていたというのもあるし、寒さに耐えかねたというのもある。
何よりも腹が減って仕方なかった。
出立前に握り飯を1つ食べただけなのだ。
自覚した途端に空腹を感じる。
育ちざかりの子供の身体は本人以上に正直だ。
「あなたのお名前は?」
「………梵天丸」
「私は。よろしくね」
そう言って一歩近づいた女――は、梵天丸が裸足だということに気付いた。
「じゃあ家に帰りましょうね。…よいしょ、と。う〜ん、ちょっと重いけど何とか」
「なっ、何をする?!」
「足を怪我している子を歩かせるわけにいかないでしょう」
いきなり抱きかかえられて梵天丸は狼狽えたが歩けないほど足が痛いのも事実なので、結局梵天丸は大人しくの腕に抱えられた。
柔らかい身体。ふわりと漂う甘い香り。
何よりも久しぶりに感じるぬくもりに目頭が熱くなってくる。
「…ふっ…」
「泣いていいよ。つらかったね。よく頑張ったね。もう怖くないよ」
あやすように背中を撫でられ、抑えていた感情が堰を切ったように溢れてきた。
優しい声は梵天丸の心に沁み込み、そしてゆっくりと癒していくような気がした。
- 11.11.12