――約束ですよ。
それは幼い頃に母と交わした約束。
――このことが露見すれば、そなたの身は勿論、母も八重も無事ではすみますまい。
真剣な母の表情から、これは相当深刻な内容なのだということはわかったが、その鍵を握るのが自分だとはわかっていなかった。
ただ、母の言葉を守るのが子供である自分にとって唯一であり絶対であるという確信だけはあった。
美しい顔を憂いに曇らせた母を見たくなくて、光秀はしっかりと頷く。
――母との約束、違えてはなりませんよ。
はい、母上。
そう頷いたその日から、光秀は大きな秘密を抱えて生きることとなった。
それが罪なのだとは知らずに。
◇◆◇ ◇◆◇
「――様、光秀様」
小さく自分の名を呼ぶ声がして、光秀は眠りから引き戻された。
どうやら主君の声を待つ間に眠ってしまっていたらしい。
脇息に凭れたまま軽く船を漕いでいた自分に羞恥から頬を染め、光秀は声の主を見た。
まだ年若い美童。主君である信長の小姓を務める蘭丸だ。
「眠っておられたのですか?」
「そのようですね。不躾でお恥ずかしい限りです」
「いえ…。光秀様はここのところ政務もお忙しい上に、このように夜半になってからの急なお呼び出しにも応じなくてはならないのですから、お疲れなのは存じております」
蘭丸はまだ年若い。
それでも信長が信を置き片時も傍を離さない理由は、彼の優れた武術と細やかな気遣いがあってこそだ。
感情の起伏が激しく行動の読めない信長の、言葉にしない彼の望みを叶えることに関して蘭丸は他の小姓とは比べ物にならない。
そしてその細やかな気遣いは家臣である光秀にもよく向けられていた。
「顔色もあまり良くありません。やはり今夜は辞退なされた方が…」
「優しいのですね蘭丸は」
気遣わしげに自分を見上げる蘭丸に光秀は笑顔を浮かべた。
光秀に家族はいない。
元々家族仲は良好とは言い難い関係だった。
幼い頃に母を亡くし、元々疎遠だった父や義弟とは元服してから一度も会っていないため、最早他人と呼んでも不思議ではない程には実家との縁は薄くなっていた。
そんな状態だったせいか、他人との付き合いは決して得意とは言えない光秀だったが、蘭丸はそんな光秀の不器用さも気にせずに交流を持ってくれる数少ない人物だった。
兄のように慕っていると言われたのは出会ってすぐだったと記憶している。
そのせいだろうか、今では光秀も彼を年の離れた弟のように思うことがある。
尤もこの年の離れた弟のような少年は、自分などよりも余程しっかりしているのだが。
光秀の笑顔に、それでもその表情に無理が見えるのだろう、蘭丸の表情は浮かない様子だ。
信長の小姓として働く蘭丸は、信長の側近である光秀の仕事量がどれくらいか側近くに侍っているために十分過ぎるほど別ってしまうのだ。
そして光秀は信長からどれだけ大量の仕事を押し付けられても嫌な顔一つせずに受けてしまう上に、自分の身体のことには無頓着だったりするから心配するのも当然だろう。
況してやここ数日というもの、光秀はほとんど城にある光秀の自室に篭っている。
偶に出てくるかと思えば纏め終わった書類の提出ぐらいで、休憩らしい休憩を取っている姿も見られないとなっては心配するなという方が無理か。
それが光秀の仕事と言われてしまえばそれまでだが、織田家の中で光秀が担う仕事はあまりに多い。
その仕事は正確且つ丁寧で、ほとんどの武将が提出した書類に一度や二度駄目出しを喰らうのに対して、光秀の書類に信長が不満を訴えたことは今までにない。
そのため光秀の処遇が変わることはないだろう。――恐らくこれからも。
ただでさえ多忙な光秀なのだが、彼にはもう1つ信長から命じられる職務があった。
所謂、閨働きと呼ばれるものである。
それは恐らくなら光秀ほどの年齢と肩書きになれば不要なものなのだが、信長は光秀の類稀な美貌を大層気に入っており、最早小姓と呼ぶには年嵩過ぎるというのも構わずに光秀を寝所へと呼ぶのを辞めようとしない。
唯一の救いは信長が光秀を寵愛していることを知っているのが、目の前の蘭丸だけだということだろうか。
お陰で光秀に対する下卑た噂は今のところない。
それは新参者である光秀の立場を慮ったものなのか、それとも単に家臣達から不満の声が上がるのを信長が煩わしいと思っての行動なのか、そこまでは光秀にも蘭丸にもわからない。
だが、誰が知っていたからと言って信長の命令を無視することはできない。
「信長様のお召しなのです。辞退などしたら私も蘭丸もただではすみませんよ」
「ですが…」
「少々夢見が悪かっただけです。本当に大丈夫ですから」
繊細な顔立ちに儚い笑みを浮かべれば、蘭丸の頬に僅かに朱が走った。
蘭丸は確かに美童だが光秀も蘭丸と同様、いやそれ以上に秀麗な顔立ちをしている。
特に成人していながらも女性と見紛うほどの線の細さを失わない光秀はまるで物語に出てくる傾城の美女のようで、彼の武将としての功績を知っていても尚信じることが出来ないほどたおやかで麗しい。
有数の美姫と名高い濃姫の従兄とも言われているが、雰囲気こそ違うものの濃姫も光秀も確かに似通った美貌を持っているのだと、間近で見れば納得だ。
尚も言い募ろうとした蘭丸を立ち上がることで制して、光秀は廊下を進む。
その後姿の潔さと儚さに、蘭丸はひっそりとため息をついた。
- 10.09.15