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光の呪縛


目覚めたとき、シンは1人だった。
珍しいこともあるものだとぼんやりと視線を動かす。
身体を動かすことはしない。――否、出来なかった。
眠りから覚めても依然として疲弊した身体は指一本を動かすことすら億劫だ。
体力は確かにそれほど自信があるわけではなかったが、それでも人並みにはあると自負していたけれど、それは通常の状態であればの話だ。

(喉、渇いた…)

喉の奥が張り付くように痛い。
多分まともに声は出ないだろう。
ユダに監禁されてからもう何日経ったのだろうか。
地底深いこの地、光がまったく入らない室内で、時間の感覚がなくなるほどに苛まれ続けた。
意識を失っても許してもらえず、懇願すら聞き入れてはもらえなかった。
まるで離れていたことを責め立てるように執拗に嬲られた。
泣きすぎて目の奥が痛い。
声も枯れ身体も動かせない。
それでもユダを責める気にはなれないのだ。
連れてこられた初日こそひどく乱暴に扱われたが、それ以降は優しく濃密に愛されていたように思える。
最中はほとんど意識を飛ばしてしまっているため記憶は曖昧だが、触れる手が、唇が、慈しむようにシンに触れていることを、身体のあちこちが覚えている。
もとより嫌いになれるはずがないのだ。自分が、ユダを。
初めて会った時から特別なものを感じていた。
古の――遥か遠い昔。
最初は憧憬だった。
ユダの名を知らない天使などいない。
それは物事に疎いシンであっても例外ではなく、ゼウスが誰よりも目をかけている天使というだけでなく、誰よりも優れた美しい天使だという噂はシンの耳にも入ってきた。
姿を見たことはないけれど、青年天使は勿論幼年天使たちからの尊敬を一身に集めているというユダという人物に興味はあった。
だがそれはいつか会うことがあったら会話をしてみたいと思う程度の気持ちだったのだ、最初は。
向けられた蒼い眼差し。耳に心地いい低い声。
威厳に満ちた姿は一瞬で目を奪われ、浮かんだ笑みに心までも奪われた。
敬愛と呼ぶには深すぎる想い。それを禁忌と呼ぶのは知っていたが止める術はなかった。
片恋で十分だった。
傍にいることができるならそれだけでよかったのに、ユダはシンを選んでくれた。
初めて気持ちを打ち明けられた日をシンは昨日のことのように覚えている。
信じられなかった。夢かと思った。
だが向けられた眼差しは真摯なもので、頬に触れる指はほんの僅かだけど冷たかった。
あの時は柄にもなく緊張したと後になってから告げられて、言いようのない嬉しさが胸にこみ上げてきた。
あの喜びを忘れることなんてできない。
誰よりも慈悲深く誇り高い、天使の中の天使。
それがシンの知るユダであったはずなのに…。

「ユダ…」

何故彼はこうまで天界を憎むのだろう。
天を二分するほどの戦を仕掛けたのだからユダの神に対する怒りが大きいのはわかるつもりだ。
だが何も知らない天使までも巻き込む必要がどこにあったのか。

彼のことをわかりたいと思う。それは今でも変わらない。

「ユダ」

もう一度、名前を呟く。



「呼んだか?」
「?!」



誰もいないと思っていた。
それなのに独白に答えがあったシンは慌てて寝台から飛び起きた。
その拍子にシーツが肩からすべり落ち、白い肌に咲く紅い華が露になった。

「いい眺めだな」

くつくつと笑う姿に羞恥に頬を染めながら、シンはそれでもユダへと厳しい視線を向けた。

「…もう気はすんだでしょう。私を元の場所へ帰してください」
「いいや、まだまだ足りないな」
「ふざけないでください。貴方はこのような卑劣なことをする方ではないはずです。ゼウス様に敵対することといい、いい加減に馬鹿なことはやめてください」
「馬鹿なこと? 俺たちは愛を確かめ合っているだけだろう? それが馬鹿なことなのか」
「それは…っ」
「一方的な暴力、とでも言うつもりか? お前だって悦んでいたじゃないか。その身体は覚えているはずだ。もっととねだって、俺を放さなかったのはお前だろう?」

ほら、と紅い痕を指で辿られ、シンは声を押し殺した。
ここに連れてこられてから何度抱かれたか覚えていない。
ユダに愛され、ユダにだけ反応するように育てられた身体だ。
心でどう抗っても身体はユダの愛撫に抵抗などできない。
わずかに触れられるだけでも、身体の奥からは官能が引きずり出されていくのがわかる。
理性は強い自覚はあるが、ユダが相手だとこうも脆いものか。

「どう…して…っ」

流されたくなくて、シンはユダの手を振り払った。
涙が溢れてくるのが止められない。
悔しかった。
自分への仕打ちだけではない。
シンの言葉はユダの心に何も残せないのだとわかっていたけれど、それでもユダの気持ちを少しでも理解できればと思っていたのに、ユダがシンに与えるのは一方的な快楽とはぐらかす言葉だけで。
そんなことのために自分を連れてきたのだとは到底思いたくなかったのに。
泣き崩れるシンをユダは静かな眼差しで見つめている。
その姿は先程のものとはまるで違い、どこか痛々しいものを見るような眼差しなのだが、視線を伏せているシンには気づかない。

「どうして変わってしまったのですか。あれほど誇り高かった貴方が…」
「変わったか…。果たしてそれはどちらのことか」
「え…?」

自嘲めいた声に顔を上げれば、そこにあるのは先程と変わらない蒼い瞳。

「お前は何故ゼウスの手先に戻っている。かつては俺と共に天界に反旗を翻した同士ではないか」
「それは…気づいたからです。自らの過ちに」
「過ちだと?」
「そうです。ゼウス様は唯一にして絶対の神。そのお方に逆らうことなど天使である以上あってはならないことなのです」
「……それはお前の言葉か、シン?」
「? 何を――」

ゼウスは唯一にして絶対の神。それは当然だ。
天使である以上、敬愛を捧げるゼウスに逆らうことなどあってはらなない。
では、何故ユダは反旗を掲げた?
何故、自分たちはそれに同調した?
地獄へ落とされたユダ。それは神に逆らったから。
地中に封印されていた四聖獣。では、それは――?


「っ!!」


突然襲った頭痛にシンの顔が苦悶に歪む。

「シン?」
「あ…っ、あたまが…」

割れるようなという形容ではぬるいほどの激痛がシンを襲う。
視界を白く染め上げるほどの衝撃に、シンの意識はそこで遮断された。
ふらりと傾く身体をユダの腕が抱きとめる。
蒼白な顔。それはユダに責め抜かれて気絶した時よりもひどいもので、シンの身に襲った激痛がどれほどのものか窺えた。

「…やはり」

流れる涙を親指で拭いながら、ユダは低く呟いた。
シンの様子がおかしいことは再会してすぐに気が付いた。
己の手を取らなかったシン。
悠久の昔に交わした約束が真実ならば、シンはあの場で躊躇いなく自分の手を取ったはずなのだ。
それをしなかったばかりか、今も尚ユダと敵対する立場であることを公言する。
何かがおかしいと思っていた。
それはこうして確信へと変わる。

「ゼウス…いや聖者か。どちらでもいい。随分と姑息な真似をしてくれたものだ」

シンの記憶が微妙にすり替わっていることに気づいたのはいつだっただろう。
ほんの僅かだがシンの心に歪があった。
ユダへの不信とゼウスへの敬愛。
こっそりとすり変わっていくそれは、かつてシン達を苛んだ獣神具の魔に似てはいないだろうか。
シン自身にすら気づかせないほどの小さな綻びだが、ゆっくりと侵食していくそれはすでにシンの感情と同化しているように見える。
無理に壊せばシンの心が壊れてしまうだろう。
ほんの少し抱いた疑問ですら、意識を失うほどの衝撃となってシンを苛むのだ。
だが、このままですませるつもりはユダにはない。

「返してもらうぞゼウス。これは俺のものだ」

見えない敵に向かい、ユダは低く呟いた。


  • 08.08.10