困った。
本当に困った。
多分、人生でそう何度もないだろうと思うほどに。
目の前には2人の男性。
服装はきちんとした、ごく普通のサラリーマン。
見る者が見れば彼らの服服がそれなりに値の張るブランドだとわかるだろうが、生憎シンは世間のことに疎く、目の前の男性の胸に輝く社章が一流企業のものであることも当然気づかなかった。
「だから、少しだけでも話をしたいんだ」
「大丈夫。俺たち別に悪い男じゃないから」
先程から同じ台詞。
その度に断っているのに意外としつこい、とシンは心中で思う。
どうしてこんなことにと元凶である友人に八つ当たりに近い感情を抱いてしまうのも無理はない。
シンは前に立つ2人の男性の視線を避けるように目線を落した。
すると否応なしに視界に入ってくる白いスーツ。
白地にグレーの刺繍が入ったスーツは素晴らしくセンスがいいけれど、残念なことにシンのものではない。
第一この服はレディスだ。
シンは好んで女性用の服を身に着ける趣味はない。
だが、シンは今、バーラウンジにいる。
ゲームに負けた罰ゲームとして女装してこの店でカクテルを飲んでくるようにと言われたのだ。
それほど嫌なら断ってしまえばいいのだが、シンは不器用とも言えるほど律儀で、たとえ一方的だとは言え約束したことだからと、甚だ不本意ではあるけれどこうして店にやってきたのだ。
勿論店の前まで友人に引っ張ってこられたのだが。
いくら華奢で女顔と言われることがあってもシンはれっきとした男で、スーツを着て薄化粧を施しても女性に見えるわけがないから大丈夫だと思っていたのだ。
それが間違いだったことはこうして実証されているのだが。
こうなったら自分は男だと告げるべきだろうか、いや、それでは約束を反故にすることになってしまう。と言っても約束というにはシン自身了承した覚えはないわけで、だからと言って女装した状態で性別がばれるのはシンにとっても情けないわけで…。
そもそもどうしてスカートを履いたくらいで女性に間違われなければならないのか、これはやはりもう少し筋力をつけないといけないのか、いやでも自分は筋肉がつきにくい体質だから努力しても望みは低いかもしれない、となればやはりこの髪をばさりと切ってしまうのが一番だろうか、いやいやこの髪は友人がとても気に入っていてお願いだから切らないでくれと言われているし…。
などと思考はぐるぐると空回りをしているのだが、それでも表面上は困ったような微笑を浮かべているようにしかみえないのは、我ながら頑張っていると思う。
「申し訳ありませんが、お断りさせていただきます」
「だからさ、ね、ちょっとだけ」
「でも…」
ノルマのカクテルはあとグラスに半分。
でもこの状態でどうやって飲めと言うのか。
一気に煽ろうにもシンはアルコールに弱い。
そんなことをしたら酔いつぶれて目の前の男たちのいい餌食だ。
「ほら」
更に強引に手を引かれてシンは泣きたくなった。
罰ゲームにしてはひどすぎますレイ、と心中で艶やかな笑顔を浮かべる友人に文句を言うが、だからと言ってこの場で彼が助けてくれるわけもない。
入り口の扉はぴくりともしない。
やはりこれは自分でどうにかしないのだろう。
シンは決意を固め男の手を振り払おうとした。
が――。
「俺の連れに何か用でも?」
救いは意外なところからやってきた。
◇◆◇ ◇◆◇
「それで、このコートの持ち主に助けてもらったんですか?」
聞いていたレイはうんざりと言った様子でシンの言葉を遮った。
こくんと頷くシンは可愛い。
もうすぐ21歳になるというのにまだどこか幼さのぬけない仕草は、理知的な美貌と相反しているがとても似合っている。
うっすらと頬が染まっているのはその時のことを思い出して羞恥に頬を染めているのだと思っておこう。
うん、決してその男を思い出してときめいたりなんかしていないのだ。
確かに事の元凶はレイだ。
正確にはレイを含む友人3人なのだが。
レイの部屋でテレビを見ていた時のこと、丁度推理ドラマだったのがいけなかったのか、犯人は誰だという話になりレイは被害者の友人だと言い、シンは被害者の夫だと言った。
きっかけはそんな些細なことだったのだ。
妙に確信的なシンの言葉に、じゃあ負けたほうが罰ゲームなと言ったのはガイで、2人なら女装って手もあるなと言い出したのはゴウだ。
4人とも幼い頃から一緒にいる幼馴染で遠慮も何もないものだから、じゃあいいですよとそれに便乗したのがレイで、シンはたとえ遊びの場でも賭け事に最期前躊躇っていたのだが、残念ながらこの面子でシンの意見が受理されたケースは限りなく低かった。
今回もそう。
ガイとゴウには程よく酒が入っていたのも悪かったかもしれない。
ついでに負けたシンに、どうせならうんと可愛くしましょうと、前々からシンに似合うと思っていたブランドのスーツを着せて、ノーメイクでお酒を飲みにいく人はいませんからと薄化粧を施したらあらまあびっくり。
予想以上に美しかったのだ。
シンは女性にしては背が高すぎるが、女性だと言っても通用するほどに細身だ。
レイが気に入っているからと手入れを欠かさない薄水色の髪は、まるで絹糸のように細くしなやかで、普段は纏めている髪も下ろしてしまえば腰まで届く長さだ。
外見も繊細な顔立ちをしており、日に焼けない肌は透けるように白いものだから、それはもう反則的に美しかった。
その完成度の高さに少々調子に乗ったのは悪かったと今なら言える。
まさかそんな簡単に男がナンパしてくるとは思っていなかったのだ。
万が一を考えて客層の良い上品なバーを選んだというのに、女装したシンはそれほどまでに美しかったかと思えば、反省する気持ちもあるがそんな友人を自慢したい気持ちの方が強いあたり、レイも中々懲りない性格をしているかもしれない。
シンの言葉を借りれば、『ナンパしてきた2人組を追い払ってくれた素敵な男性がシンを店から連れ出してくれ、夜は寒いからとコートを羽織らせて本人はそのまま帰って行った』のだそうだが、それを素でやる男がいたら相当の遊び人だ。
しかも彼はシンが男だということもわかっていたらしい。
最もそれはシンが告げたらしいのだが。
どちらにせよ、単なる善意とは受け取れないのはレイの気のせいではないだろう。
「追いかけようにもヒールは慣れていないから歩きにくいですし、店から離れるなとレイにもきつく言われていましたから…」
「だから僕が迎えにいくまでぼーっと立っていたんですね」
「ぼーっと立っていたわけでは…」
すぐに迎えが来るからと言って突っ返せばよかったのにと思ったが、突発的事項に致命的に弱いシンがそこまでできるとはレイも思っていない。
大方相手の男に押し切られたのだろう。
見るからに上質のコートは、ファッションにうるさいレイならばよく知っている有名ブランドのものだ。
ついでに言えば先日シンに着せた服は同じブランドのレディス物である。
軽く6桁を超える服を二度と会えないだろう相手に差し出すあたり、金銭的に余裕のある人物であることは間違いない。
律儀にも返しにいくと言い出したシンに、それがナンパの常套手段かもしれないと同行を買って出たのはレイだ。
困っているシンを助けてくれたことは感謝する。
だけどそれとこれとは話が別だ。
コートを返して先日の借りはチャラ。
後はとっとと退散してくるつもりなのだ。
たどり着いたのは一軒のビル。
最近建てられたそれは成功者の象徴であるかのように、入っている会社は有名企業ばかりだ。
「で、このビルにその男性が働いている会社があるわけですね」
「はい。多分間違いないと思うのですが…」
渡されたのだろう名刺を手にシンが困惑した様子で、それでもビル名を確認してしっかりと頷く。
やっぱり金に困らない女慣れした最低男だと見ず知らずの男の評価を下し、そういえば名刺を見せてもらっていないことに今更ながら気が付いた。
大事そうに抱えているそれが面白くなかったからかもしれない。
こんなビルで働いている男とは一体どういう人物か、興味があった。
「シン、その名刺ちょっと見せてもらっていいですか」
「はい、どうぞ」
あっさりと渡されたそれを見て、レイは固まった。
「シン…この会社名に聞き覚えは…」
「? ありませんよ」
「……でしょうねぇ」
あぁ、成る程、あの人か。
そう言われて思い返せばいかにも彼らしい行動だ。
レイは先程下した評価を見事に覆した。
彼なら高価なコートをぽんと渡せるのも納得がいく。
名刺の名前はユダ。
ここ数年世界的に注目されてきているブランドの社長であり、先日シンが着ていたスーツのデザイナーの名前だった。
- 08.12.04