目元から包帯がはずされていく。
頬に時折ガーゼの感触を感じて、は次第に緊張していく自分を感じた。
耳元で心臓の音が聞こえてくるようだ。
手術は成功だと言った。
だが、もし目を開いてまた暗闇だったら?
実は視神経が傷ついていて、どうやっても視力が戻ることはなかったら?
ポジティブな性格をしていると思っていたが、いざとなると怖くて仕方ない。
手の震えを抑えるように、膝に置かれた手をきつく握り締めた。
するり、との目元から包帯が外された。
ガーゼを取られ、瞼に柔らかな光を感じる。
「さあ、目を開いてごらん」
医師が優しい声でそう告げる。
の目が開くのを固唾を呑んで見守っているのは、家族とテニス部のメンバーだ。
ほかならぬが希望したのだ。
ずっと心配をかけてきた。受験もあり忙しい中、それでも毎日のように見舞いに来てくれた大切な仲間。
そして、毎晩のように傍についていてくれた、大切な―――恋人。
「大丈夫だよ」
不意にの耳に穏やかな声が聞こえた。
昨夜のように優しい、その声。
「必ず見えるから」
その言葉に肩の力が抜けていく。
「、怖くないよ」
そう告げるのは、大石。
「大丈夫っすよ、先輩」
これはリョーマ。
そして次々に自分を励ましてくれる仲間の声。
「目を開けて」
最後に母親が、そう声をかける。
「うん」
はそっと目を開けた。
うっすらと開くと、ぼんやりとした輪郭が見えた。
長い間使われていなかった瞳はわずかな光にも敏感になっているらしく、室内の照明は少し落とされていたにも関わらず、は眩しくて目を細めた。
やわらかい明かりに照らされた、久しぶりの世界。
(見える…)
は思わず涙ぐみそうになりながら、顔を上げる。
そこにいたのは見慣れた、だがとても懐かしく思える面々だった。
が見たかった人物は、入り口の傍にいた。
皆から離れるように、一人で立っている。
見守るような、その表情。
と目があうと、こぼれるような笑顔を浮かべた。
が一番見たかった顔だ。
「あ……」
声をかけようとした、その時。
不二の姿がぼんやりと滲んだ。
最初は自分の目がおかしいのかと思った。
だが、不二以外の人の姿は普通に見えているのだ。
何度か目を瞬かせてみるものの、の視界が変わることはなかった。
不二の姿が、空気に溶けていく。
「周、助……?」
輪郭が光の粒子になっていくように、微かな光とともに不二の姿が薄らいでいく。
まるで映画のように。そして幻想のように。
は目を見開いた。
誰よりも大切な存在が、の目の前から消えようとしている。
二度と会えなくなると、無意識のうちに感じた。
椅子を蹴り倒す勢いでが立ち上がる。
大きな音がして椅子が後ろに倒れたが、その音すら今のには聞こえていないだろう。
「?」
の異変に気づいた大石が、その視線を追うように振り返り、そして凍りついた。
そこにいる人の姿を見つけて、全員が凍りついた。
「不二……」
しぼりだすように名を呼んだのは手塚。
「不二先輩?」
錯覚かもしれないと、片手で目をこするのは桃城だ。
リョーマが信じられないというように呟く。
「そんな…だって、不二先輩は……」
もういないのに―――。
◇◆◇ ◇◆◇
それはの知らない真実。
不二はあの事故でを庇って亡くなっていたのだ。
あの時、大石が止めるよりも早く、不二はと車の間に身を乗り出していた。
守るようにを腕に抱きしめたと同時に聞こえた、激しいブレーキ音と衝突音。
2人がボンネットに乗り上げ地面に叩きつけられるのを、大石は悪夢を見ているように眺めているしかできなかった。
凍りついたように足が動かなかった、わずか数秒の出来事。
それは多くの人の運命を変えた瞬間だった。
軽い擦過傷と右肩の打撲。
一見軽傷に見えた不二は、だが衝突の際に頭部を打っていたらしく、しばらくしても不二の意識が戻ることはなかった。
当直の医師が脳外科の専門ではなかったということと、出血のないことから頭部は打ってないようだという他の医師の言葉を鵜呑みにして脳波の検査を怠ったことも、要因の一つだった。
病室のベッドに眠る不二の耳から出血があることに、看護婦が気づいた時には既に遅く。
診察の結果は外傷性硬膜下出血。
長時間に及ぶ手術の結果、不二は何とか一命を取り留めたものの、それまで出血が脳を圧迫していたことが原因で、二度と目覚めることはないと診断された。
目覚める可能性は限りなく低い。
だが、その寝顔はひどく穏やかだった。
容態が急変したのは、ある夜のことだった。
不二が危篤だと、深夜に電話で起こされた。
慌てて駆けつけた仲間の前で、不二の身体から生命維持装置が外されていく。
生気の感じられない不二の姿に、めまいがした。
こんな簡単に、人の生命は消えてしまうのだろうか。
こんなに容易く、自分の大切な仲間が奪われてしまうのだろうか。
1人、また1人とテニス部のメンバーが集まってくる。
その中にの姿はない。不二の状態はには知らされていないからだ。
心電図が弱々しい機械音を立てている以外、そこは無音だった。
皆が見守る中、不二の瞼がかすかに動いた。
うっすらと開いた視線は何を見ているのか、かすかに笑みを浮かべているように見える口元が、何事かを紡ぐ。
最早意識もないだろうに、それでも不二の唇がゆっくりと動いていく。
――角膜を、に
それが、不二の最期の言葉だった。
「不二先輩は、あの夜死んじゃったのに…」
自分の無力さを痛感させられた夜のことを、リョーマは忘れることができない。
あの夜、確かに不二は息を引き取った。
眠るような死に顔が、とても綺麗だった。
葬儀は速やかに行われ、角膜は不二の最期の言葉通りに提供された。
確かに不二周助は死んだのだ。
呟いたリョーマの声はには届いていない。
「いや…」
喘ぐように、はそう言葉を紡ぐ。
少しずつ揺らいでいくその姿に、はすがるような視線を向けた。
無意識のうちに何度も頭を振るを、不二は笑みを浮かべたまま見つめていた。
華やかな笑顔は、確かにが見たいと望んだものだった。
だが、それが消えていく様を見たいとは望まなかった。
「君…?」
落ち着かせようとの肩に置かれた医師の手を、は振り払った。
何で!?
穏やかな笑みが、今まさに失われようとしている。
心臓が凍りつく。
嫌だ嫌だいやだ!!
永遠に失うかもしれないという恐怖心が、を動かしていた。
目の前にいる医師の身体を押し退け、もつれる足で不二に歩み寄る。
ほんの数歩の距離が、ひどく遠い。
「周助!!」
伸ばした手の先は、虚しく空を切る。
拡散する光が、きらきらとに降り注ぐ。
残酷な囁きだけが耳に響いた。
――愛してるよ。だから…。
- 10.04.27