10月も半ばになり、頬を撫でる風も朝夕は冷気を帯びるようになってきた。
学校には休学届けを出してある。
視力の回復が望めないのならば、今までのように青学に通うことはできないだろう。いっそのこと聾学校に転校してはどうかとも思ったのだが、皆と離れることはやはり躊躇いがあった。
たとえ二度と彼らを見ることができなくても、それでも皆と一緒にいたかったのだ。
学校側からも気持ちの整理がついたら登校してくればいいという、破格の待遇をしてもらっている。
青学に戻りたいと思う。
だが、戻れるとは正直思っていなかった。
「、決まったわよ」
朝夕の冷え込みが厳しくなりだしたある日のこと。
病室に入ってくるなりそう叫んでを抱きしめたのは、の母だった。
「母さん、苦しい…」
ふくよかな胸に顔を押し付けられて、は慌てた。
一応青少年。
母と言えど恥ずかしいものはあるのだ。
「あら、ごめんね」
まったく悪びれた様子もなくそう言われ、は彼女の腕から解放された。
舌を出しておどけてみせるその表情は、によく似ている。
「で、何が決まったの? 父さんの昇進?」
「違うわよ。の手術」
「は?」
突然告げられた言葉に反応できない。
が首をひねると、母はの肩をがしっと掴んだ。
「角膜提供者が見つかってね。の手術が決まったのよ!」
「見つかった…?」
「見えるようになるのよ!」
「………」
ぽかんとした表情のまま、は固まった。
不二が約束してくれたのは、つい先日。
まさかこんなに早く実現することになるとは思っていなかった。
もしかして不二は最初から知っていたのだろうか。
どこからともなく情報を持ってくる不二のことだから、病院関係者から事前に教えてもらっていたのかもしれない。
だからこそ、を安心させるように、教えてくれたのだろうか。
「?」
「……本当に?」
「本当よ」
見えるようになるのだろうか。
本当に?
はまだ信じられないというように、そう呟いた。
毎晩忍び込んでくる不二の存在は、今のにとって不可欠のものになっていた。
いつもは気にならない消灯までの時間が、今日はひどく長く感じる。
早く不二に会いたかった。
会って話をしたかった。
の手術が決まったことを。
成功すれば今までのように見えるようになる。
以前ほどの視力は望めないかもしれないが、それでもまた外の世界を見ることができる。
そうなれば、再びマネージャーとして復帰することも可能だろう。
諦めるしかなかった未来が、取り戻せるかもしれない。
わずかな可能性でも諦めないようにと、ずっとを慰めてくれていた不二に話したかった。
「周助、早く来ないかな」
「もう来てるよ」
誰もいないだろうと思って呟いた独白に返事があって、は慌てて起き上がった。
その肩を誰かの手が支えた。
ぎしり、と1人分の体重が加わったベッドのスプリングが音を立てた。
の身体を支えるように抱きしめたまま、不二は愛しい恋人の髪に口付けを落とす。
「手術、明日だね」
「何だ、やっぱり知ってたんだ」
「情報は早いんだ」
の目元の包帯をそっと撫でて、不二は嬉しそうに笑った。
「不安?」
「ううん。でも、ちょっとだけ怖いかも」
「大丈夫だよ。僕がついてるから。何なら手術室でも傍にいてあげようか」
「無理だよそれは」
「できるよ。僕ならね。……僕の想いはいつでもの傍についている。どんな時でもを1人にしないから」
「……うん」
優しいキスが頬に降ってくる。その腕がパジャマの中に忍び込んできたとき、は少し躊躇うようにその腕を掴んだ。
手術は明日だ。
不二との情事は体力の消耗が激しい。できれば今日は避けたかった。
「あ、あのさ…」
不二がくすりと笑う。
「わかってるよ。明日が手術だしね。今日はしないよ」
本音を言えば毎晩でもを抱いていたいのだと不二は言った。
当然のように言われてまだ慣れないは戸惑ったが、そこまで想われていて嬉しくないわけがない。
だが、さすがに手術前は問題がある。
何しろ入院してからろくな運動もしていないのだ。
角膜手術とは言え、人体にメスを入れることは想像以上に身体に負担がかかる。
万が一ということはないだろうが、回復が遅れる可能性があることはも、そして不二も分かっている。
「でも、キスはいいよね」
の顎に指を添え、返事も待たずに口付ける。
深く口付ければ、拙いながらもは答えてくる。
舌をからめ角度を変えて何度も交し合う。
触れ合った箇所から、お互いの想いが伝わってくるような気がした。
◇◆◇ ◇◆◇
手術は無事に終了し、その後の経過も良好だった。
明日になればの目元を覆っている包帯がはずされる。
手術が成功していれば、それでの視力が戻るはずだ。
不二はそれを自分のことのように喜んでいる。
の視力が回復すること。
それは不二がずっと望んでいたことだからだ。
「は一番最初に何が見たい?」
「周助」
は不二の腕の中で、そう答えた。
「最後に見たの、周助の顔だったんだ。すっごい必死の顔。だから最初に見るのは周助の笑顔がいい」
「…そうだね。ついでに熱烈な抱擁でもしようか。感動の再会と愛情の再確認」
「それは…ちょっと、嫌かも。さすがに母さんとかいるし…」
不二との関係を秘密にしておきたいわけではないが、家族は何も知らないのだ。
何の事情も知らない母を驚かせるのは申し訳ない。
「ふふ、冗談だよ」
不二は楽しそうに笑って、の頬にすり寄るようにして口付ける。
「熱烈な抱擁なら、今までも十分にしてるしね」
そう言って腕の中のをぎゅっと抱きしめる。
「見せびらかしたら勿体ないか」
不二の首に両腕を回してキスをねだる。
可愛い恋人のおねだりにやわらかい笑みを浮かべてそれに答えると、不二はとともにベッドに倒れこんだ。
- 10.04.26