「あ…」
一つのキーワードを思い出してしまえば、後は簡単だった。
焼けたゴムの匂い。
全身を濡らす、温かいモノ。
身動きできない自分の周囲が、やけに騒がしかったような気がする。
交通事故という単語がの頭に浮かび、思わず苦笑した。
まさか自分が遭遇するとは思ってもいなかった。
瞬発力には自信があったのに、いざという時に何の反応もできないなんて。
「情けないなぁ…」
最後に見た二人の顔が忘れられない。
大石の強張った顔と、不二の切羽詰った表情。
物事に動じない不二の、血の気を失った顔が頭から離れない。
ただのクラスメイトで同じテニス部所属というだけでは説明がつかないほど親密で、周囲からベストカップルなどと冗談で言われていた。
普段はからかってばかりのくせに、いざという時はを守ってくれる不二。
あの瞬間、彼はどれだけ驚いたのだろう。
ふと、先ほどまでなかった人の気配を感じた。
足音を忍ばせて、誰かがそっと自分の傍に近づいてくる。
目が見えないからだろうか、視覚以外の感覚が敏感になっているようで、にはその気配がはっきりとわかった。
誰かはわからない。でも…。
「不二…?」
するり、とその名前が口をついて出た。
今まで彼のことを考えていたからだろうか。心配して様子を見に来てくれたのだと思ったのだ。そしてその予想は間違っていなかったのだろう。
苦笑する声が聞こえた。
「気がついたんだ」
それは、よく知っている声。
耳に心地いい不二の声だ。
そっと気遣うように、何かがの髪に触れる。
額から髪をかきあげるように、その手が優しく動く。
「気分はどう?」
「ん…全身が痛い。腕を動かすのも、正直つらい、かな」
「吐き気は?」
「今のところ大丈夫」
声を出すのも胸郭が苦しいので、息を吐きつつそう告げる。
「全身打撲に加えて肋骨も2,3本折ってるみたいだから、今は動けないと思うよ」
「…けっこう、重傷だったんだ」
どこか他人事のように、はそう呟いた。
だが、あのスピードで車と衝突したにしては、幸運だったかもしれない。
車が迫ってくる瞬間、脳裏に「死」という言葉がよぎったのだから。
「ここ、どこ?」
「病院だよ。あの後すぐ救急車でここに運ばれたんだ。幸い命に別状はなかったけど、皆すごく心配していたよ」
「うん、ごめん」
「謝らなくていいよ。が無事でよかった」
ほっとした不二の声。本当に心配をかけていたのだろう。
「…ありがとう」
小さな声でそう言うと、不二がどういたしましてと小さく笑った。
そういえば、とは思う。
「不二は大丈夫だった?」
が聞くと、髪を撫でていた不二の手がぴたり、と止まった。
「…何で」
「だって、あの時俺の方に走ってこようとしてたから。巻き込まれてないかなと思って」
「僕は大丈夫だよ」
「…じゃあ、何でここにいるの?」
「……?」
「見えないからわからないけど、多分夜なんだろう。面会時間って終わってるはず」
「……」
何も言わないということは、の言葉通りなのだろう。
不二の大丈夫という言葉が信用できないことは、今までの付き合いでわかっている。
は再び訊ねた。
「何で不二はここにいるの?」
不二の袖を軽く掴む。二の腕を少し動かす程度ならそれほどの痛みは感じない。
「…鋭いね」
不二が苦笑したのが気配でわかる。少し声をひそめて、の耳元に囁いた。
「実はね…」
「うん」
「付き添いは必要ないって言われてたんだけど、が心配でこっそり忍び込んだんだ。誰もいない病室でが不安になってたら可哀想だと思って」
そう言って小さく不二が笑った。
それはとても不二らしい言葉だった。
のことになると家族の誰よりも過保護になる不二だからこそ、はすんなりとその言葉を信じることができた。
確かに不二ならばそのくらいのことはしそうだ。
むしろ強制的に病室に居座らないだけ、医師や看護婦に迷惑がかからなくてましだったのかもしれない。
「不二ってば、ダメじゃん」
思わず苦笑を浮かべると、不二の手がそっと頬に触れた。
その指先がすっと頬をなぞり、そしての唇にかすかに触れる。
どことなくぎこちないその動きに、はわずかに首をかしげた。
表情がわからないからはっきりとは分からないが、何故だか不二が泣いているような気がして。
指先に触れるぬくもりをを愛しそうに確かめるような不二の行動に、不二の心情が表れているように感じた。
「……不二?」
「…だって、心配だったんだ」
真剣な声。
「が死んじゃうんじゃないかって、本当に怖かったんだ」
「……」
声がかすかに震えている。
いつでも穏やかな態度で、決して自分の前では弱音を吐いたりなんかしなかった不二の、そんな声を聞くのは初めてだった。
どれだけの心配をかけたのだろう。
そう思うと申し訳なさで一杯になる。
もし事故にあったのが不二だとしたら、恐らく自分も今の不二と同じように心配するだろう。
隣にいた人物を一瞬にして失ってしまう。
それは想像することすら拒否したくなるほどの恐怖だ。
不二の手が愛しそうにの頬を包み込む。
頬、額、髪へと指がすべるように移動していく。
失わずにすんだ自分の宝の存在を確認するように、何度も何度も。
ふと、の唇に何かが触れた。
柔らかで、かすかな温もり。
「」
至近距離から不二の声がした。息のかかるほど近くに、不二の存在を感じる。
そのときになって初めて、先ほど触れたのが不二の唇だったのだと知った。
「…」
切ない囁きとともに、再び不二の唇が落ちてくる。
頬にキスされたことは何度かあった。
でもそれは菊丸やリョーマがふざけて行うものと同じで。
友情の意味を込めたものだと思っていた。
今回は明らかにそれとは違っていた。
だが、はそれを拒絶するつもりはなかった。
の傷に障りがないように優しく、だが想いを伝えるように深い不二の口付けを、は当然のように受け入れたのだ。
- 10.04.22