が目を覚ましたとき、世界は闇に包まれていた。
一条の光すら見えない暗黒の世界。
物音一つすらしない静寂。
空気は澄んでいるように思える。かすかに何かの匂いが鼻腔をくすぐるが、微弱なその香りが何かまではわからなかった。
(夜…?)
そう考えて、だがすぐにそれを否定する。たとえ夜中で目が利かなくても、物体の輪郭などは闇の中でもぼんやりとはわかるのではないか。
特には夜目が利くほうである。
それなのに何故見えないのだろう。
そして先ほどから抱いている違和感。
何かが視界を遮っているようで、目を開けることができない
不快というよりも先に疑惑が生じる。
恐る恐るそこに触れてみる。
その際に腕に痛みを感じたが、大して気にはならなかった。
「包帯…?」
薄いガーゼが幾重にも巻かれている。
そのため目を開いても何も見えなかったのだ。
だが、何故…。
おかしいのはそれだけではなかった。
全身に感じる虚脱感。
指の一本を動かすこともだるいほど、身体が重いのだ。
鉛のように感じる自らの身体は、まるで全身が自分のものではないような気さえ起こさせる。
そんな自分の考えを否定するように、は上体を起こそうとした。
膝をついて力を入れると、ベッドのスプリングが鈍い音を立てた。
自分が慣れ親しんだベッドなら、この程度の力でスプリングはきしまなかったはずだ。ということは、やはりここは自分の部屋ではないのだろう。
ルームコロンの香りがしないどころか、一切の匂いを排除したような空気。
強いて言うなら、保健室みたいだ。
起き上がろうとすると、激しい痛みが全身を襲った。
「っ……!」
まるで全身に電気が流れたかのような強い衝撃が走り、は呻いた。
今までに経験したことがないような、息をすることすらつらいほどの激痛。
声の出ない痛みというものを今までに経験したことがなかった。
それを何とかやり過ごそうと、は喘ぐように息をつく。
自分の身体に何かが起こっているのは確実だった。だが、それを確認する術がにはない。
どれだけの時間そうしていたのか、しばらくすると痛みは薄れていき、は安心したように小さくため息をついた。
目を覆っている包帯を解いて状況を確認したいと思ったが、先ほどの痛みをもう一度経験することは嫌だった。
あまりの痛みに、じんわりと涙が浮かんでくるのがわかる。
は少々活発すぎるきらいがあって、それこそ幼い頃から数え切れないほどの怪我をしていたが、それでもこれほど痛みを感じたことはなかった。
今までに経験したことのない怪我を負っているのだろうと容易に予測がつく。
だがいつそのような怪我を負ったのか、それがわからない。
頭の奥が霞がかっているようで、思考がうまくまとまらないのだ。
それが麻酔によるものだということを、は知らない。
(確か今日は…)
少しでも気を抜けば、再び眠りについてしまいそうな不安定な意識の中、はゆっくりと自分の記憶を辿ってみた。
◇◆◇ ◇◆◇
全国大会が終了し、3年生は部活動を終了した。
長いようで短い二年半。そのほとんどをテニス中心に過ごした青学レギュラー勢と同様、マネージャーであるもその任務を終えたのだ。
だが今までの習慣をそう簡単に変えられるはずもなく、残された夏休みのほとんどを陣中見舞いと称してテニス部に遊びに行っていた。
引退したとはいっても、先輩後輩の枠を超えて仲良くしていたテニス部のメンバーである。
残された2年生マネージャーに細かい仕事の引継ぎなどをしつつ、彼らの練習風景を眺めたりして毎日を過ごした。
内部受験ということで受験生にはあるまじき充実した夏休みだったことは間違いない。
「遊園地へ行こう」
最初にそう言い出したのは誰だったか。
誰からともなくそのような話が持ち上がり、青学レギュラー勢で少し離れた遊園地に行くことになったのは、夏休みも中盤に差し掛かったころ。
新しいアトラクションが開催されると聞いて、桃城が行きたいと提案したのだ。
考えてみると、ここ数ヶ月というもの休日返上で部活動をしていて、ゆっくりと遊ぶということがあまりなかったために二つ返事で決定した。
も遊園地に行くのは久しぶりだから楽しみだった。
当日、は集合時間よりもかなり早い時間に家を出た。
元々マネージャーとしての動きが身についているである。
待ち合わせ場所に着くのはたいていか大石が最初で、その少し後に手塚や不二達がやってくる。
普段は時間にルーズな菊丸も遊ぶ時は時間に遅れたことはない。
普段と変わらずマイペースなリョーマが若干遅れるくらいで、手塚の眉間の皺に気づいたがフォローを入れるのがいつものこと。
今日もまた同じだろうと思いながら、は大通りを歩いていた。
早起きは三文の得とはよく言ったもので、早朝の爽やかな空気や鳥の声などを感じながら歩くのは心地よかった。
陽射しは強く、早朝だというのにすでにアスファルトへの照り返しはきつい。
日射病になるからという理由で、家を出る直前に家族から手渡された帽子が重宝しそうだ。
「、早いね」
「おはよう」
「おはよう、大石。不二」
信号待ちをしている時に不二と大石に合流し、は笑顔を浮かべる。
それはいつもとまったく変わらない日常。
「今日は楽しみなんだ。まずは絶叫系は制覇しないと」
「って、見かけによらず勇者だよね」
嬉しそうに笑うを微笑ましそうに見るのは不二周助。
色素の薄い髪と、少女のように整った顔。
常に浮かべている笑顔は見る者の心を和ませてくれるが、本心を隠しているようにも見える。
だが幼馴染のには、彼のそんな表情にも慣れたもので。
「不二が苦手なら見学でもいいよ。桃なら喜んで付き合ってくれるだろうし、エージだって得意だろうから」
「じゃあ僕はお化け屋敷に付き合ってもらおうかな」
「絶対、イヤ」
絶叫系は大得意なだが、心霊モノには弱いのだ。
それをわかっているくせに、と唇を尖らせれば意地の悪い笑みが不二の口に浮かんだ。
「残念だな。悲鳴を上げて抱きつくを楽しみにしてたのに」
「無理無理。お化け屋敷入ったら速攻で気絶する自信ある」
「そしたら運んであげるよ。お姫様抱っこで」
「ファンの子ににらまれたくないから遠慮します」
不二とがこうして軽口を叩くのいつものことだ。
テニス部内でマネージャーであると一番仲がいいのは不二だということは、最早周知の事実である。
何しろをマネージャーに引っ張り込んだのが不二だからだ。
かなり強引だった幼馴染らしく、他の部員に対するよりも明らかに不二に対する態度の方が気安い。
すっかり息のあった2人の掛け合いは、最早テニス部の名物だったのだ。
笑いながらの台詞の応酬に、大石も口を挟むつもりはない。
3人が歩いていたのは、車の通りが少ない道路だった。
そのため注意力が散漫になっていたというわけではない。
いつも通いなれた道だったから油断があったというわけでも、なかった。
突然にそれは起こった。
靴の紐がほどけているのに気づいたが、結びなおそうと道路にしゃがみこんだ時。
背後からものすごい勢いで1台の乗用車が姿を現した。
法定速度を無視した車はのすぐ手前まで来ても、速度を緩めることはなかった。
フロントガラス越しに携帯電話を片手に笑っている運転手の顔が見える。
会話に夢中での姿が見えていないのだろう。
普段のなら避けるのは容易かった。
だが、道路にしゃがみこんでいて、気づくのが一瞬遅れてしまったのが悪かった。
「!?」
一瞬の躊躇いが、の動作を遅らせた。
白い乗用車との距離は、もはや走るにも飛び退るにも間に合わない。
その時になって、ようやく運転手が顔色を変えたのがわかった。
縫いとめられたように動けない自分の足。
「!!」
真剣な声に振り返ると、必死の形相をした不二と大石の姿があった。
耳障りなブレーキ音が耳に響く。
同時に全身に衝撃を感じて、の意識は遠ざかっていった。
かすかに誰かのぬくもりを感じながら。
- 10.04.12