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懺悔


いつものように受付を通り、奥のエレベーターに向かう。
顔なじみとなった看護士が俺に気付いて声をかけてくるのに軽い会釈で応え、通いなれた部屋の扉を開ける。
は寝ていた。
放課後のこの時間は俺達が来ることが分かっているため、必ず起きて待っているが今日はベッドの中で穏やかな寝息をたてていた。
珍しいこともあるものだ。
荷物を応接室の椅子に放り投げ、そのままベッド横の椅子に腰を下ろす。
長めの前髪をそっとかき上げると、普段よりも少し幼く見える。
無邪気な寝顔だな。
…少し、痩せたか?
頬の輪郭が少しだけほっそりとしたように見える。
いくら特別室とは言え出される食事は病院で決められた病院食。
舌の肥えたにはさぞ味気ないものだろう。
ましてやは成長期。
不幸なことにその兆候はあまり見られないが、細い身体のわりに驚くほどの食欲は旺盛だ。
運動部に所属している健康な少年の1食として病院食はあまりに少ない。
差し入れで洋菓子の類はよく来るが運動していないためあまり食欲も湧かないようで、それはほとんど見舞いにきた岳人やジローの胃袋に収まっている。
摂取する栄養が少なくなったのだから、痩せても当然か。
退院後の食事はの好物を揃えてもらうように伝えておかないと。
柔らかい髪を弄びながら、そんなことを思う。
が起きる気配はない。
枕元には1冊の本。
ハリーポッターの原書。
昨日俺がに渡したやつだ。
退屈な入院生活の気晴らしになればと思ったのだが、どうやら効果はあったようだ。
見れば渡した3冊のうち2冊はすでに読み終わっているようだった。
まさか一晩中読んでいたのか?


「あら、景吾君?」

扉が開いて入ってきた人物に目を疑う。
長い髪を1つにまとめた、淡い青のワンピース姿の女性。

「董子、さん?」
「学校終わってすぐ来てくれたのね、ありがとう」

いつ見ても年齢を感じさせない穏やかな笑顔。
の母親だ。
息子の病室なのだから母親がいても不思議ではないが…。

「いつロンドンから?」
「今日の午前中にね。ジェイルは仕事で抜けられないから私と茉奈だけだけど」

腕の中には白いベビー服の幼児。
昨年生まれたばかりのの妹だ。
出産のためにロンドンに戻っていたのだが、の事故を聞いていてもたってもいられなかったのだろう。
電話で事情を説明したときには今すぐにでも飛んで来かねない勢いだったが、茉奈の定期健診もあるということでそれは無理だった。
久しぶりに見るの妹。
よりは少し色素の薄い髪。だが俺を見上げる綺麗な青灰色の瞳は同じものだ。
俺を見て嬉しそうに微笑む。

「大きくなりましたね」
「景吾君が茉奈に会うのは去年の冬以来ですものね。可愛くなったでしょう」
「そうですね」

俺が彼女に会ったのは、生後数週間というまだ首も据わっていないころだ。
初めて見る赤ん坊に、どう接したらいいのかわからず困った覚えがある。

「茉奈ったらに会えて大喜びでね。は怪我してるから駄目だって言ってもに抱っこしてもらいたがって大変だったの。も久しぶりに会ったからずっと遊んでてくれて…。茉奈の昼寝に付き合ってたら一緒になって眠っちゃったの。起こしても起きないでしょ」
「はい」

穏やかな寝息をたてているを見て、董子さんが苦笑する。
俺が座っていた椅子を董子さんに勧めると、彼女は笑顔でそこに腰を下ろした。
腕の中の小さなぬくもりは、母親の腕に抱かれてうとうとと微睡始めた。

「でも、元気そうで何よりだわ」

の頬をそっと撫でながらそう呟く。
遠く離れた土地での入院を聞かされた彼女の衝撃はどれほどのものだったのだろう。
生命に別状はないとわかっていてもの口から元気だと聞かされていても、それでも不安で仕方なかったに違いない。
特には以前ロンドンで大怪我を負ったことがある。
その時のことを思い出さないはずがない。

「…すみません」
「景吾君?」
を守れなくて…」

傷ついてほしくなかった。
何からも守ってやりたかった。
なのに、俺は何もできなかったんだ。
を守ると言っておきながら。
自分がひどく情けなかった。

「すみません」

謝罪の言葉しか口にできない。

ぺしっ。

うつむいていた俺の頭に、小さな力を感じた。

「何を言ってるの?」
「え?」

顔を上げると、そこには呆れた様子の董子さんが立っていた。

「私は貴方にを守ってねとは言ってないわよ?」
「…」
「それとも何?私の息子は誰かに守ってもらわないと一人で何もできない弱虫さんなのかしら?」
「そういうわけでは…」
の怪我は景吾君が原因じゃないでしょ。は下級生を助けようとして階段から転落して肋骨にひびが入ったって聞いてたんだけど、本当は違うの?」
「いえ…」
「じゃあ何で景吾君が謝る必要があるの?階段から落ちたのもが怪我をしたのも景吾君のせいじゃないでしょ」
「ですが、俺が傍にいれば…」
「傍にいたら一緒に落ちてたかもしれないでしょ。そんなことになったらが悲しむわ」

俺を見上げる黒い瞳。
まっすぐに見つめられて言葉がでなかった。
確かにその通りだ。
俺が傍にいたからと言って、を確実に守れたかという確証はない。
だが…。
董子さんの瞳がふ、と和らいだ。

「景吾君は自分が許せないのね」

…その通りだ。
廊下に倒れていたの青白い顔が頭から離れない。
目の前に元気なの笑顔があるにも関わらず、脳裏からその顔が消えることはない。
あのときの背筋が凍るような恐怖。
全身の血が逆流するかのような怒り。
いつも傍にいたのに、いざという時に何もできなかった無力感。
あの日からずっと俺を苛んでいたのは、それらの感情だった。

「えい」

ぺし、と額を叩かれた。
痛みはない。
何をされたかわからないまま董子さんを見上げると、彼女はじっと俺を見た。

を守れなかった罰」
「は?」
「これで許してあげます。だから貴方もいつまでもくよくよしないの」

子供をあやすように頭を撫でられる。
たかがそれだけのことなのに、心がすっと軽くなったのがわかる。
俺の母親と同い年とは思えないほど外見も行動も若々しいが、やはり2児の母なのだろう。深い愛情と大きな包容力を感じる。
そして俺もまだ子供なのだと実感した。
どんなに大人になりたいと望んでも、やはりまだ14歳のガキで。
小さなことで悩んで徒に思考を空転させていただけのちっぽけな存在なんだ。
それをこんな他愛のない動作で気付かされた。
だが不思議と不快ではなかった。

「董子さんって、素敵な人ですよね」
「あら?今頃気付いたの」

ふふ、と彼女は笑う。
いい母親だし、いい女だと思う。
さすがにの母親だ。

「そうそう、果物が沢山あるのよ。景吾君食べるでしょ?」
「頂きます」
「そろそろが起きる頃かしら。の分も用意しておいたほうがいいわね。少しの間茉奈を見て貰ってもいいかしら?」
「いいですよ」

そう言って董子さんは俺に熟睡している茉奈を預けて簡易キッチンに姿を消した。
以前抱いた時よりも重くなった小さなの妹。
乳児の成長は俺が思っているよりも早いようだ。
ふわふわの毛質はと同じだ。


「あれ、景吾?」

もみじのような小さな手をつついていると、聞きなれた声がした。
顔を向けるとが目を覚ましたところだった。
まだ少し眠そうに瞼をこする。

「よう、夜更かしでもしたか」
「…ご明察」

苦笑したはそう応えて身体を起こした。
まだ少し痛むのだろう、わずかに眉を寄せる。
起き上がるなとは言わない。
言っても無駄なのがわかっているからだ。

「あれ?母さんは?」

俺の腕の中で眠る茉奈に気付いて、がそう問いかける。

「今果物を剥いている」
「だから景吾が茉奈抱いてるんだ。いいなぁ、僕には抱かせてくれないんだよ」
「お前は怪我人だろうが。4キロも5キロもする子供を抱き上げていいわけがないだろう」
「茉奈だったら大丈夫」

…その根拠はどこにある?

「却下だな」
「えぇ〜」
「悔しかったら早く治せ」


  • 05.08.08