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完全世界


ワンサイド・ゲームを見たのは初めてではない。
実力差の著しい対戦ともなればそれは珍しいものではなく、事実見るだけではなく実際に行ったことも少なくない。
だが、今目の前で見ているそれは、自分が知るものとは明らかに違っていた。
これを何と呼ぶのか、僕は知らない。




コートにボールが落ちる音だけが耳に響く。
観客の数も大会と違うために多いわけではない。
だが、青学氷帝のレギュラーが勢ぞろいしているここにはそれなりに人数がいるはずなのだが、誰も声を発していなかった。
否――声を出せないと言ったほうが適切だろうか。
未知数の実力を持つと、青学ルーキーの越前の試合。
立海大の真田すら破った越前の実力は全国でもトップレベルの域に達しているだろう。
かたやはその全貌も明らかにされていないほどの実力者だ。
かなりの確率でが勝つだろうとは思われていた。――よくてフルセットに持ち込めるかどうかと。
怪我が完治して間もないと全国大会の疲労が抜け切れていない越前。
お互いベストな体調とは言えないまでも、それでもお粗末な代物になるとは思っていなかった。
特に越前はここ数ヶ月での成長は目覚ましく、僕らにもしかしたらという期待すら抱かせていたほどなのだから。

だが、蓋を開けてみれば試合は圧倒的で。
の掌の上で転がされているような越前に、誰もが言葉を失った。

という選手を知った誰もが、多くのデータを収集した。
多くの大会に出るわけでもなく、滅多に試合をしない彼のデータを集めるのはどの学校でも大変だった。
そのデータが役に立ったことは一度もない。
のテニスは、彼らが苦労して集めたデータの更に上を軽々と飛び越えてしまうからだ。
それでも、多少はという選手を知っていると思っていた。
でも、あれが僕達の知っていると言うのなら――。

目の前で白いラケットを手にコートを駆けているのは誰だというのだろうか。

背筋を冷たい汗が伝って流れていく。
外気は30度を超えている。
湿度も高いらしく、肌を撫でる風はじっとりと湿っている。
だが、握り締めた拳の指先はひどく冷たい。
恐怖というよりは畏怖。
それだけ、「彼」は自分達とは別格の存在だった。



試合開始直前に現れた2人の世界的テニスプレイヤーがの従兄だということに驚いたが、何よりも信じられないのは彼らからラケットを受け取ったの雰囲気が一変したこと。
いつでも穏やかで春の陽だまりのような笑顔こそ変わらないものの、身に纏う雰囲気だけがガラリと変化した。
何者も並び立てない絶対的な地位に君臨する支配者のように。
それは強く威厳に満ちていていて、『神』とまで呼ばれた彼の従兄の姿に酷似していた。

『悪いけど、手加減しないから』

試合前にそう告げたの言葉は、リップサービスではなかった。
その言葉の通り、は一切の容赦もなかった。
越前がどれだけ応戦しても、はそれをあっさりとかわしてしまう。
どちらかと言えば小柄なにとって、シングルスのコートは決して狭いものではない。
それなのに、越前がどこへ返してもボールは苦もなくのラケットに吸い込まれていく。
どれほどコーナーを狙っても、のいない場所を狙っても、気がつけばはボールの正面にいるのだ。
手塚ゾーンとは違う、だがそれと同等の威力を持つそれ。
まるで越前の思考を読んでいるかのように正確な反応に気付いたのは誰が最初だっただろうか。
一度気がつけば誰もが言葉を失う。
一番信じられないのは対戦相手である越前だろう。
信じられないというように見開かれた眼差しが越前の感情を表している。

「『完全世界』だ…」

小さく呟かれた声は乾のものだ。
聞きなれない言葉に振り返れば、そこにはやはり顔色を失くした乾の姿があって。

「5年前、クライヴ・ウィンチェスターが最も得意としていた技だったと思う。相手の思考、目線、身体の動き、わずかな反射まで計算してコートを支配する。一度術中にはまれば逃げられた者は1人もいない。彼が『神』と呼ばれるようになったのは、それからだ」
「『完全世界』…」
がこの技を完全に自分のものにしているとしたら、越前に勝機は1パーセントもない」

伝説となったクライヴ・ウィンチェスターの試合の全てが映像として残っているわけではない。
彼の経歴は特殊で、公式試合ですら滅多にマスコミに流出しないからだ。
特に国内のみの試合は日本で放送されることもなく、ウィンブルドンに出場するまでクライヴ・ウィンチェスターという名前すら日本人には馴染みがなかった。
彼が公に出てきたときにはすでに『神』という呼称がついており、その所以は僕達は当然知らない。
そして僕達が知る彼は、一度としてこのような試合展開をしたことがなかった。
5年前と言えば知らなくても当然だろう。
正直恐ろしい技だと思う。
だが、越前にだって必殺技がないわけじゃない。
彼の父親譲りの、最大の技が残っている。

「越前の『天衣無縫の極み』ならあるいは…」
「無駄だよ、不二」

乾はかすかに首を振る。

「『完全世界』はすべての技を無効化する。だから越前は手も足も出せない。越前だってそれがわかっているからこそあの表情なんだ」
「無効化…」
「これが、『神の後継者』の真の実力だ」
「………」


本気になったを見て見たいと思っていた。
僕と同じく勝利に固執しない彼が本気になったら、一体どういう試合を見せてくれるのだろうかと。
好奇心というよりは興味。
人間としても惹かれる相手だから、コートに立つ姿も知りたいと思った。
だけど…。

ふわりと浮いたチャンスボールに、の唇がかすかに笑みを刻んだ。
舞うように優雅に、だが容赦のない一球が越前のコートに叩きつけられ、試合は終了した。

気がつけば6−0で、の圧勝だった。

浮かんでいる笑みは最初から変わらない。
穏やかで優しい、僕らが大好きな笑顔だ。


だけど、どうしてだろう。



今はその笑顔が怖かった。


  • 07.08.09