「――連絡はそれだけだ。以上、行ってよし」
季節外れの風邪で寝込んだ担任の代わりに、臨時でHRを担当することになった榊監督が聞きなれた号令を残して姿を消すと、教室内は常と変わらない騒然とした空気に戻った。
テニス部員にとっては聞きなれた号令。
だが一般生徒にとってそれは一種異様な光景としか映らなかったらしい。
趣味で教職に就いているという噂がまことしやかに囁かれるほどに、監督の様相は公務員の持つそれではない。
俺ですら慣れるのに多少の時間が必要だったのだ。
財界政界とは縁の薄い一般生徒が監督の雰囲気に慣れなくても当然かもしれない。
臨時の担任は1枚の用紙を俺達の手元に残して帰っていった。
進路希望書。
3年のこの時期ならば珍しいことではない。
9割の生徒が内部へ進学するこの氷帝学園においても、やはりそれは欠かせないもので。
提出期限が当日なのは、悩む生徒がそれだけ少ないからなのだろう。
「フン」
悩むまでもなく第1希望に『氷帝学園高等部』と記入する。
大学部はどうなるかわからない。
だが高等部は氷帝学園に通うことに変わりはない。
それは忍足や宍戸も変わらないはずだ。
都内でうちよりも授業のプログラムが充実している学校を俺は知らない。
「ま、学校なんて所詮器だからな」
どの学校に進学しようと、問題なのはそこで自分が何を学び何を身につけるかだ。
学校名は関係ない。
そして、俺にとって氷帝学園は他のどの学校よりも学ぶべきものがあると思っている。
「めんどいなぁ、これ。どうせ内部進学者ばかりなんやし、いちいち書かせんでもええのにな」
「形式上必要ってやつなんだろ」
「だからって第3希望なんて書くことねえよ。どうせほとんどの奴が第1希望『氷帝学園高等部』なんだろ」
前の席にいる忍足と萩ノ介の会話に、いつのまにやってきたのか岳人が口を挟んで。
それは普段と変わらない、放課後の光景。
「なあ、お前もそう思うだろ?」
俺の隣に座るに視線を向けた岳人がそのまま眼差しだけを机の上に落とし、怪訝そうに眉をひそめた。
「えぇっ!?何だよ、それ!?」
大げさに驚く岳人につられるように集まる視線の中、その中心にいるはどこか困ったような表情を浮かべていた。
そういえば先程からが随分大人しい。
岳人の視線の先に目をやれば、そこには未記入のままの進路希望書。
当然書かれていると思われた名前はそこにはなかった。
第2希望はおろか第1希望も空欄で、氏名の欄にある「」という文字だけが、見慣れた文字で書かれているだけだった。
「まだ書いてねえのかよ?」
「あぁ…うん」
覇気のない返事に何かがひっかかる。
苦笑するの瞳がどこか寂しげに見えるのは俺だけか?
「、高等部進学希望だったよね?」
「そうだけど、僕の場合ちょっと、ね…」
「?」
「ほら…一応留学生扱いだからさ、両親に確認してからじゃないと色々とあって」
言われて初めて気付いた。
の国籍はイギリスにある。
馴染みすぎていたために失念していたが、イギリス国籍のは日本では外国人扱いになり、通常の学校への進学にはそれなりの手続きが必要だ。
勿論未成年のが単独で申請できるようなものではなく、両親の承諾が必要なのは言うまでもない。
と名乗っていても、の正式名称は・J・サイアス・。
その戸籍はサイアス家に属する者だ。
サイアス家の一族として生まれたは、遠くない将来向こうに帰ってしまう可能性がある。
おそらくは父親の仕事を継ぐという名目で。
そしてもっと早ければ、サイアスの人間にふさわしい学校へ通うために。
ヨーロッパを拠点としたリゾートホテルの経営者であるの父親の仕事は、当然のことながらヨーロッパがメインで、その仕事を継ぐとなれば日本にいる利点はあまりない。
むしろ以外の家族が全員英国に居を構えている今、中等部卒業という節目を前にが戻ると考えてもおかしくない。
「父さんと母さん、今忙しいみたいで連絡できないんだよね」
「何や、大変やな」
「大丈夫だよ。今日の夜電話くれるって行ってたから。明日には用紙も提出するし」
「そうだね。事情が事情だし、1日くらい待ってくれるよね」
「そうそう、第一風邪なんてひいた担任がいけないんだからさ」
浮かぶ笑顔はいつもと変わらないのに。
何故、それが空しく思えてしまうのだろう。
が戻ると言ったわけではない。
前に高等部へ進学すると言っていたのも、覚えている。
それなのに、1度浮かんだ疑惑を打ち消すことがどうしてもできなかった。
今が充実していたから、まるで考えなかった。
がいなくなってしまうことを――。
- 06.12.17