「切れ!」
「嫌!」
部室の扉を開けるなり、繰り広げられているわけのわからない会話に、思わず踏み入れようとした足が止まる。
何となく嫌な予感がするのは、俺の気のせいじゃないだろう。
声の主は言わずもがなというやつで、予想通りソファーにふんぞり返っている帝王と、そしてまたおそらく誰かを盾にしながら(多分滝か忍足)帝王に反発しているの姿が視界の端に映った。
…………。
前言撤回。
ものすごく嫌な予感がする。
思わずそのまま扉を閉めて回れ右をしようとしたが、それよりもいち早く開いた扉の気配に気付いた長太郎によって、閉じようとしていた扉は見事な力技で全開にされた。
「宍戸さん、待ってました!」
半泣きの顔で俺にすがりつこうとする長太郎に悪気がないのは十分すぎるほどわかっているが…。
ゴツッ
「痛っ」
「…今度は何の騒ぎだよ」
八つ当たりの拳を目の前の大型犬に食らわせつつ諦めて部室へ踏み入れば、普段よりも5割増しに機嫌の悪い跡部の視線が突き刺さった。
「貴様には関係ねえよ、とっとと消えろ」
消えられるものならこっちだって消えたい。
だけど、背後には俺に殴られた頭をさすりながらも扉を死守している忠犬がいるためにそれもできない。
「!」
「い・や・だ!」
忍足の背中に隠れながら珍しく不機嫌そうなは、跡部の低気圧にも動じた様子もなく、むしろ更に反抗的に顔を背けている。
この2人のじゃれ合いは珍しくないが、がここまで機嫌悪くなっているのは珍しい。
というか初めてかもしれない。
普段から人と争うことを好まないらしく、余程のことがない限り言い争いなんてしたことがない。
そのがここまで反抗するということは、余程のことなのだろうか。
「お前だっていい気分じゃねえだろうが!何で俺の言うことが聞けない!!」
「いくら景吾だって、はいそうですかって納得なんてできないよ」
「!」
「嫌なものはいやだ!」
話の内容がまったく見えないのは俺だけか?
何があったんだ一体。
部室内に視線を彷徨わせると、苦笑している滝の姿が目に入ってきた。
こいつもかなりのシンパだが、事情を聞くには忍足よりも適役だろう。
「あの2人、何があったんだ?」
「の髪が長いから跡部が切れってさ」
「はあ?」
こっそりと忍び寄って耳打ちすれば、返ってきた答えは呆れる以外になくて。
それでここまで事態が大きくなるのが理解できない。
「最近痴漢に遭うみたいなんだよね」
「誰が?」
「以外いないだろう。どうも女の子に間違われるらしくてさ。でもって良くも悪くも箱入りだから、痴漢って存在そのものを知らないんだよね。『最近電車に乗ると知らない人がくっついてくるんだよね。満員電車でもないのに』って一言から跡部の機嫌が急降下」
「痴漢…」
「で、が女の子に見えるのは髪が伸びたせいだから切れって跡部が言い出して、そしたらが予想外に反発して、後はご覧の通り」
「…髪切ったって解決にはならないと思うぞ」
何せあの容姿だ。
初めて会った時だって男か女かわからなかったくらい、は中性的な顔立ちをしている。
むしろ短くしたら容姿が際立って、かえって状況は悪化するような気がするんだが。
「まあ、僕もそう思うけどね。それに痴漢なんて本当に極一部の人間だけで、ほとんどはの雰囲気に圧倒されて近寄りたくても近寄れないんだからさ」
「あー、確かに」
「それにが1人で行動することってほとんどないんだから、一緒にいる人が気をつければが痴漢になんてあうこともないのにね」
「それを跡部に言ってやれよ」
「聞く耳持たない人に説明することほど時間の無駄ってないんだよ」
「…じゃあ、どうするんだよ」
騒ぎの元へ目をやれば、とうとう忍足の背中に隠れて顔も出そうとしないに跡部が切れかけているところだった。
まったく、こんな姿とてもじゃないが『跡部様ファンクラブ』には見せられない。
いや、見せた方が静かになっていいのか?
「仕方ない。このままだとが泣きそうだしね。助け舟出してくるよ」
呆れたように小さく息をついて、滝はそのままを引っ張って部室を出ていった。
5分で戻ると言っていたが、果たして本当だろうか。
跡部は不機嫌極まりない顔でソファーに沈んだまま。
こいつの機嫌はいつ戻るんだろうか。
「お前さ、ヤキモチもいい加減にしろよ」
「うるせえよ」
「が髪を切ろうが切るまいが、それはの自由だろ。そこまで束縛する権利はお前にはないだろうが」
「だから、うるせえって言ってるだろう!」
のことになるととんでもなく狭量になる跡部だが、さすがにが可哀想だろうこれは。
あれだけ反発するってことはそれなりの理由があるんだろうし、ましてや相手は同い年の男なんだから。
確かにここ最近のは以前にも増して綺麗になった気がする。
普通成長期の男子なんだから背が伸びたりごつくなったりムサくなったりしてもおかしくないのに、はむしろその透明度を増していっている。
出会ったときよりも、さらに中性的に。
一緒にいる俺達でさえ思わず目を奪われるほどの存在感。
白い肌はしみ1つなく、完璧に整った容貌とほっそりした身体つきは、おそらく女性なら誰でも羨むほどのもの。
惜しむらくはが正真正銘の男であるということか。
「お前さ、は男なんだぞ」
「そんなことは知ってる」
「じゃあ、そんなに気にすることないんじゃないか。保護欲も行き過ぎれば独占欲だぜ」
「だから、テメエには関係ないと…」
「まさか、あいつは俺のものとか言うつもりじゃねえよな」
「!!」
ふと漏れた言葉だったが、どうやら跡部の逆鱗に触れてしまったらしい。
「テメエ……」
「お待たせ」
殺意に近い敵意を含んだ視線が俺を射抜いた時、背後の扉が開いて元凶が戻ってきた。
怒りの行き場をなくした跡部は思わず立ち上がったはいいものの、目の前に現れたにそれをぶつけるわけにもいかず、結局再びソファーに沈み込んだ。
は一瞬驚いたように目を見開いたが、だが滝に促されるまま跡部の前へ歩いていった。
跡部の隣に腰を下ろし、至近距離から見上げる。
その上目遣いに跡部が弱いことをまさか知っているとは思えないが、は跡部から視線をそらさない。
虚を突かれたのは跡部だった。
を見る眼差しは怪訝そうだ。
「景吾さ、僕の髪好きだって言ってくれたよね」
「あぁ…」
わけがわからず問いかけに頷く跡部。
するとはにっこりと笑って。
「僕もこの髪好きなんだよね」
邪気のないいつもの笑顔に、思わず跡部の動きが止まる。
いつもの笑顔だが、何かが違う。
そしてそれは多分跡部にもわかっているのだろう。
だが、至近距離から見つめる青灰色の瞳に絡め取られて逃げられない。
「あのね」
ひっそりと囁くような声は、何故だろう。
「景吾に褒められたから、切りたくないんだ」
………。
何かがおかしい。
親族全員に溺愛されて育っただから、無意識のうちに甘えるのはいつものことだけど、これはいつものとは違う。
挑発的というか何と言うか…。
ちらりと視線を移すと、満足そうに微笑んでいる滝の姿が。
…お前、何を教えたんだ?
「だから、いいよね?」
とどめの一言。
表情は変わらないが、跡部が陥落したのがわかった。
小悪魔が、そこにいた。
「し…仕方ねえな…」
「ありがと、景吾」
そう言って頬に軽く触れるだけのキスをして、は上機嫌で滝と部室を後にした。
何を吹き込まれたのか、聞かなくてもわかる。
あっさりと陥落した跡部を見れば、確かにそれは効果は絶大だった。
だが…。
部室に残されたのは先程の怒りなどどこへ飛ばしたのかありえないほどに上機嫌の跡部と、呆けたようにの消えたドアを見つめているテニス部正レギュラーの面々。
滝!
お前、になんつーこと教えるんだよ!!
- 06.11.14