喉が渇く。
どれだけの水分を補給しても、喉の餓えは消えることなく、むしろ欲するもの以外は受け付けないとばかりに、勢いよく飲み干した水は喉を潤す前に身体が拒絶する。
その度に思い知らされる。
自分が真に欲しているものが何かを。
「……くっ…そ……」
衝動的に襲い来る本能を理性で押し留めることが、これほど労力のいることだと思わなかった。
狂おしいほどの喉の渇き。
それを解消するのは簡単だ。
頭の中で何かが命じる。
――目ノ前ノ獲物ヲ引キ裂ケバイイ――
「…っ、そんなこと…できるかっ……!」
気を抜けば本能に飲み込まれそうになる。
二の腕に爪を立て痛みで正気を保とうとするが、それもすでに効力を失いつつある。
ひどく掻き毟った傷はすぐに塞がり、その痛みも以前に比べれば些細なものにしか感じない。
「く…そ…っ……」
すでに立っていることすら儘ならなくなった身体には、まるで鉛が詰まっているかのように重い。
崩れ落ちるように沈み込んだ身体は、それでも建物にいる温かい肉体の存在を感じ取り狩ろうと動き出そうとする。
欲シイ――
「うるさいっ……!!」
脳内で囁く声はひどく甘く、その誘惑にいつまで耐えられるか。
餓えた身体が欲しているのは、大切な存在。
「……」
いつでもどんな時でも一緒にいた幼馴染。
何もかも失った俺に残された、唯一の存在。
どんな境遇にも穢されることのなかったの、その高潔な魂が欲しいのだと訴えている。
「景吾……?」
封鎖したはずの扉が、静かに開く。
燭台の灯りとともに姿を現したのは、幼い頃から見慣れているの姿。
暗い室内を照らすには心許無い光だが、闇に慣れた俺の目にはの表情が手に取るようにわかる。
不安そうな泣きそうな、それでいて何かを決めたような強い視線。
「来るなと、言った…はずだ…」
「うん…」
歩くたびに、甘美な匂いが近づいてくる。
溢れる生命の光が、ひどく眩い。
「景吾…」
「触れるなっ!!」
誰よりも清冽なの姿。
そんなを前に、それでも自分が抱くのはどろどろに濁り淀みきった浅ましい欲望なのだと思い知らされる。
その身体を引き裂きたい衝動が、押さえられない。
の手が俺の手を取る。
「こんなに苦しんで…」
力任せに引き裂いたシャツは、すでに服の原形をとどめていなかった。
傷はすぐに消えるが、服は元に戻らない。
残骸と化した服から、俺の苦しみを理解してしまったのだろう。
の唇が指先に触れる。
柔らかく温かい、その感触に理性が奪われる。
白い肌。
その下に流れる赤い液体。
欲しい。
が、欲しい。
「仕方ないなぁ」
くすくすと、優しく耳に響く声。
顔を上げた俺の前には、今までに見た中で最も綺麗なの笑顔。
「…」
「何て顔してるんだよ、景吾」
の手が背中に回され、俺の身体を引き寄せた。
目の前にある、の白い首。
「…景吾になら、いいよ」
囁かれた声に抗う術はなかった。
白いシャツを思う様引き裂き――。
その喉に噛み付いた。
「っ…!」
鼻腔をくすぐる芳醇な香り。
最上級のワインですら遠く及ばないほどの喉越し。
腕の中で力を失っていく細い身体。
蒼白な顔は、それでも穏やかな笑みが浮かんでいて――。
けい…ご…
吐息のような声が自分の名を紡ぐのが、妙なる楽の音のように聞こえた。
「――――で?」
読んでいた書類をばさりと床の上に投げ捨て、景吾は今まで見たこともないような冷ややかな視線を麻生に向けた。、
底冷えするような眼差しは、それだけで景吾の怒りの深さを窺わせる。
普通の生徒ならそれだけで逃げ出してしまうものだけど、麻生はそんなことで動じるような女性じゃなかった。
景吾の怒りに触れたと察した演劇部部長が大慌てで床に落ちた書類――いや台本を拾い上げるのを気にもとめず、麻生はわずかに首をかしげて景吾を見た。
「仰る言葉の意味がわかりませんが?」
「――お前は、これを俺に見せてどうしようってつもりなんだ」
「どうしようも何も、今年度の文化祭での生徒会主催の演劇の台本ですよ。台詞を覚えていただかないと困ります」
「これを演じろというのか?俺とに」
「はい」
鮮やかな笑顔とともにそう返されて、景吾の眉間の皺はいっそう深くなった。
原因は演劇部部長が手にしている1冊の台本。
麻生の言うように、文化祭では毎年生徒会主催で演劇をすることが恒例になっている。
本来なら生徒会役員だけで演じるものだけど、少数精鋭の生徒会では人数に制限がかかってしまうために、演劇部と役に見合った生徒に協力を要請している。
昨年生徒会役員ではなかった僕も、そういう理由から景吾に協力を依頼されて演劇に参加した。
文化祭の演劇と呼ぶには本格的な芝居は大変だったけどその分楽しかった。
…芝居の内容についてはあまり語りたくないけど。
「今回はオリジナルに挑戦したんですけど…やはり古典作品を使った方がよかったですか?去年が『かぐや姫』でしたから…そうですね、『ロミオとジュリエット』あたりでも」
「…ちょっと待って」
「何でしょうか、先輩」
「それってもしかしてジュリエットは…」
「勿論、先輩ですよ。当然じゃないですか」
何が当然かわからないけど、こう言われた以上はまず間違いなくジュリエット役は僕になるのが決定なのだろう。
去年に引き続き女装なんて嫌だ。
それなら今のままでいいよ。
演劇部部長と麻生が心血を注いで作ってくれたのは、吸血鬼の話を元にしたオリジナルストーリーだ。
幼い頃から兄弟のように育ってきた幼馴染(景吾と僕)の村が吸血鬼によって滅ぼされ、その時僕を庇って吸血鬼に襲われた傷が元で、景吾は吸血鬼になってしまう。
目覚めてすぐに欲するのは、人間だった自分が最も大切にしていた相手で、孤児だった景吾にとって大切な相手とは僕しかいない。
わずかに残っていた人間としての理性と、吸血鬼としての本能との葛藤の末に自らを傷つけていく景吾を見かねた僕は、自ら景吾の糧になることを選ぶ。
人としての最後の枷を失った景吾は、狂気に落ちながら吸血鬼として生きていく。
やがて現れる自分を殺してくれる人間を待ちながら、数百年という長い時間をたった一人で――。
「こうやって読むと、本当に救いのない話だね」
村は全滅だし、景吾は吸血鬼になるし、僕は親友に殺されるし。
そして、景吾は孤独のまま数百年生きていくことになるし。
麻生は僕の言葉に、わずかに首をかしげた。
「それじゃあラストはハッピーエンドにしましょうか?」
「ハッピーエンド?」
この展開でどうやって?
「1人で生きてきた会長の下に、先輩そっくりの女性が現れ恋に落ちます。彼女は同じ吸血鬼なので2人で一緒に暮らします。めでたしめでたし。…こんな感じでどうですか?」
「めでたしめでたしじゃねえよ、麻生。ふざけんのも大概にしろ!」
ものすごく強引にハッピーエンドにしてるよ。
というかどうしてまた僕が女装しなきゃならないのか理解できないんだけど。
「駄目ですか?」
「当然だろ」
「僕も嫌、かな」
「そうですか…」
文化祭まであと数ヶ月。
演目はまだ決まらない。
- 06.07.07